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野村重男くんが最近翻訳された『哲学教程』の批評を書かないかという。「ぼくも読んでみましたが、真理の説明なんかずいぶんおかしなことをいっていますね」という。それはそのはずである。現在のマルクス主義者は、マルクスおよびエンゲルスの真理の説明ではなく、レーニンの説明を採用している。このレーニンの説明がおかしいからである。
レーニンは一九〇八年二月二五日付ゴリキイあての手紙で、「私は哲学の上では単純なマルクス主義者にすぎない」とか「私たちは単純なマルクス主義者です、哲学はよく読んでいません」とかのべている。この年に書かれた『唯物論と経験批判論』で、真理について論じたとき、哲学的なあやまりがあったとしても、別にふしぎはない。後にのべるように、レーニンはマルクスのテーゼにあやまった解釈を与えているのだが、だからといって彼を修正主義者とののしったり、翻訳本の普及を妨害したりする気もちはさらさらない。ただ、この本が聖書のように扱われて、ソビエトはじめ世界各国のマルクス主義の教科書にレーニンの真理の説明がとりいれられ、毛沢東の『実践論』でもこの説明がくりかえされているのはこのましくないと思う。近ごろ、哲学者の大井正は、『現代の唯物論思想』という本を書き、私の真理の説明はレーニンとちがうというので非難している。それで、哲学者にすこし懐疑精神をもってもらう意味もあって、なぜ・いかにして・レーニンがあやまったかをのべてみる。
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盲目の教祖デューリングは、真理についてつぎのように考えていた。「純粋の真理というものはけっして変化しないものである。……だから、認識の正しさが時間や現実的な変動によって影響される、と考えるのはまことにおろかなことである。」(強調はエンゲルス)現在の理論戦線を思いながらこのことばを読むと、歴史はくりかえすの感が深い。マルクスやレーニンのことばを「純粋の」真理とうけとって、時代の変化や現実の諸条件の差異におかまいなしに適用する人たちがすくなくないからである。
エンゲルスは、デューリングの批判にあたって、まず人間の思惟についての本質的な解明をこころみる。現実の世界は、時間的にも、空間的にも、その多様性においても、無限である。これに対して、個々の人間の思惟は、その肉体的な条件においても、精神的な条件においてもつねに限界づけられている。ここに矛盾がある。この、人間の思惟を規定する根本的矛盾は、いわゆる非敵対矛盾であって、この矛盾の実現がすなわち矛盾の解決である。個人の獲得した成果は社会化されて他の個人へ伝えられ、この遺産がつぎつぎと蓄積されていくから、人類が十分長い年月にわたって存続すれば、きわめて広くきわめて深く現実をとらえるであろうが、無限の現実をとらえつくすことはできない。いいかえるなら、どこまでいっても矛盾は解決しない。けれども、この矛盾こそ、すべての知的な進歩のテコであり原動力である。この矛盾の実現こそ、科学の発展でありマルクス・レーニン主義のありかたである。人間の思惟は、現実の世界をどこまでもとらえていく可能性を持っている。この意味で思惟は至上的である。しかし個人はそれぞれの条件においてすべて限界づけられている。この意味で至上的ではない。「思惟の至上性は、きわめて非至上的に思惟する人間の系列を通じて実現され、無条件的真理要求をもつ認識は、相対的誤謬の系列を通じて実現される。(1)
デューリングは、究極的決定的真理にあこがれていた。自分の学説が究極的決定的真理であるかのように誇っていた。それでエンゲルスは、真理が相対的である点を強調したわけである。ところがそれから三十年後に、レーニンはエンゲルスとまったく逆の立場に立たされた、ロシアのマッハ主義者たちは、真理の相対性から相対主義にまでおちこんでしまったために、絶対的真理を否定し、エンゲルスが絶対的真理を認めているのはあやまりだとエンゲルス攻撃さえはじめているので、レーニンは絶対的真理の存在を強調しなければならなかった。そこに、レーニンの批判の積極的な意義もあり、また絶対的真理についての無理解が表面化する結果ともなったのである。
相対主義はすべての絶対的な存在を否定する。ロシアのマッハ主義者も、認識が相対的であることから認識の対象すなわち現実の世界が絶対的に存在することまで否定しにかかった。レーニンは、この現実の世界の絶対的な存在と、その認識への反映を強調して、唯物論の基本的な立場を擁護した。これは正当である。しかしながらレーニンは、真理ということばを、認識に限定して使おうとはしなかった。認識ばかりでなく、認識の対象にまで真理ということばを使ったのである。そして、この混乱のキッカケはマルクスのフォイエルバッハ・テーゼをあやまって解釈したことにある。
マルクスの文章は、たとえ短いものでもその意味するところは深刻であるから、個々の単語の意味をありあわせの辞書でよみとり、それらをつないで解釈するようなやりかたをしたのでは、とんでもない失敗をおこしやすい。有名な史的唯物論の定式にしても、これまで世界各国の学者がいろいろ解釈してきたものの、どうも正解はなかったように思われる。近くはスターリンが、「言語は思想の直接的現実性である」ということばの中の現実性を、認識の対象と解釈して、物質的な表現の意味だという理解にすすむことができなかった。ところでレーニンであるが、フォイエルバッハ・テーゼの第二項が「人間の思惟に対象的真理(gegenständliche wahrheit)が到来するか否かという問題は、なんら理論の問題ではなく、実践の問題である。」とのべているのを、どう解釈したであろうか。対象的真理とは、一体何を意味するのであろうか。レーニンは、チェルノフを批判しながら、「対象的真理とは、思惟によって真に反映される対象(=「物自体」)の存在をいいあらわしたものにほかならない。(2)」(強調はレーニン)という。すなわち、対象的真理というのは対象そのものであり、物的な対象そのものであり、物的な対象をさすことばであるという。また、ボグダーノフを批判しながら、「真理は人間的経験の形態であるとすれば、人類に依存しない真理はありえない。客観的真理はありえない。(3)」という。すなわち、客観的真理というのは人類に依存しない客観的な存在であり、物的な存在をさすことばなのである。たしかに、哲学辞典でひいてみれば、唯物論で客観的というのは人類の意識から独立した存在を意味しているから、客観的真理とは人類の意識から独立して存在している真理の意味にうけとれるし、レーニンもそううけとったのである。そこで彼は、マルクスのテーゼが、「人間の思惟に対象的(すなわち客観的)真理が照応するか(4)」という問題を提起したものと解釈した。すなわち、人間の外部に、対象的あるいは客観的真理が存在し、この真理が反映したのが思惟であるとマルクスが主張したかのように解釈した。レーニンにとっては、対象的真理も客観的真理も同じく物的な存在であり、現実の世界そのものである。
われわれが使うことばには、直接的に対象をとらえているものもあれば、媒介関係をふくんでいるものもあるということを、ここで指摘しておくことが必要だと思う。たとえば人間を「青年」とよぶ場合は、直接そのありかたを問題にしているにすぎないが、同じ人間を「夫」とよぶ場合は、その背後にある他の人間――妻とのむすびつきが想定されている。同じように「病人」は直接そのありかたを問題にしているにすぎないが、「犯人」とよぶ場合は、その背後にある(現在あとかたもなく消えてしまってはいても)過去の犯罪とのむすびつきが想定されている。たとえ同じ認識をとりあげるにしても、これを「概念」とよぶときにはいわば「病人」的なとらえかたであり、「真理」とよぶときはいわば「犯人」的なとらえかたをしているのである。観念論者は、真理をアプリオリなものと解釈する。これはいわば「病人」的なとらえかたである。しかしながら唯物論者は、このようなとらえかたに反対する。ディーツゲンの『人間の頭脳活動の本質』は、真理の弁証法的な性格をよくとらえているが、彼はつぎのように指摘する。「真理と誤謬との区別は、一定の限界内にあり、特殊の客体への関係にもとずいている。」「認識はそれ自体として真であることはできず、単に相対的に、一定の対象に関係してのみ、外面的事物にもとづいてのみ真でありうる。」注意しておくが、真理について相対的だという場合、真理としての性格が相対的なのであり、誤謬に転化するということを想定しているのであって、無限の対象を有限にしかとらええないという意味での相対的という意味ではない。(のちにのべるように、レーニンはこれをスリかえるのである。)「真理は客観的でなければならない。すなわち、一定の対象の真理でなければならない。」これでもう理解できたと思うが、対象的真理とか客観的真理とかいうことばは、認識それ自体をさすのであって、「犯人」をヨリ具体的に「殺人犯人」とか「誘拐犯人」とかいうのと同じことである。唯物論者の立場として、観念論的な真理の説明が横行している時代には、客観的世界のとのむすびつきを強調して客観的真理といい、また対象とのむすびつきを強調して対象的真理というのは、観念論とのちがいをハッキリさせるために、必要なことであろう。
人間の実践は目的的である。目的を持ち、想像し、仮設を立てて、現実に問いかける。これらの思惟はまだ真理ではない。プディングをながめて、うまそうだと判断しても、それはまだ真理ではない。実践によって対象とむすびつき所期の結果がもたらされたとき、これが真理に転化する。期待に反するなら、誤謬であったことがわかる。プディングを食べれば、実際にうまいかそれともまずいかわかる。マルクスのテーゼは、対象にむすびつくことによって思惟が真理という規定をうけとるという意味で、このむすびつきが実践によっておこなわれるという意味で、対象的真理と実践との関係をとりあげている。からっぽな頭に対象が反映することを論じているのではない。
レーニンは、ボグダーノフが唯物論から観念論へと転落したのを批判しながら、行きすぎてボグダーノフの正しい部分まで攻撃してしまった。ボグダーノフは、真理を「イデオロギイ的形態」であるという。ところがレーニンは客観的な世界を客観的真理とよんでいたから、ボグダーノフがイデオロギイ以外に真理を認めていないのはあやまりだと攻撃した。そこで、レーニンは二つの問題を提起している。絶対的真理と相対的真理との関係の問題をも提起している。ところが、客観的真理についての解釈があやまっていたために、この問題提起そのものがゆがめられてしまった。彼はいう。「(一)客観的真理は存在するか、すなわち人間の表象のなかには、主観に依存しないところの、人間に、人類に依存しないところの、そういう内容がありうるか? (二)あるとすれば、その客観的真理を表現する人間の表象は、その真理を、一度に、全面的に、無条件的に、絶対的に表現しうるか、それとも近似的、相対的にのみ表現しうるか? この第二の問題は、絶対的真理と相対的真理との関係の問題である。(5)」すでにのべたように、人間の表象そのものが客観的真理であって、表象の「内容」を客観的真理とよぶのはあやまりである。ところでレーニンの客観的真理すなわち客観的な世界は、認識にとって無限のひろがりを持つ対象領域であって、この無限の対象に近づくことを「われわれの実践の確認するものが、唯一の、終局の、客観的な真理である。(6)」とか、「マルクス主義の道をたどっていけば、われわれはますます客観的真理に近づいていく。(7)」とかのべているのだが、この客観的な世界は絶対的な存在である。いいかえれば客観的真理はそれ自体絶対的だということになる。そこで客観的真理は無限のひろがりを持つ絶対的真理だということになる。
これが論理のおそろしいところである。レーニンは自分のつくりだした論理にひきずられて、(二)の問題につぎのような解答を与えた。「われわれの知識が、客観的・絶対的な真理に近づいていく限界は、歴史的に条件づけられている。しかしこの真理の存在は無条件的だし、われわれがそれに近づいていくということも無条件的だ。絵の輪郭は歴史的に条件づけられているが、この絵が、客観的に存在しているモデルを模写しているということは無条件的だ。(8)」モデルが画家にとって客観的に無条件的に存在しているように、対象的真理=客観的真理=絶対的真理もわれわれの対象として客観的に存在していることになった。
戦前に、ミーチンの忠実な弟子であった永田広志は、レーニンのこの解答を引用しながら、「弁証法的唯物論にとっては、絶対的真理は認識の無限の発展において与えられる。それは客観的に、吾々の意識から独立に存在する。」とのべている。
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レーニンはこう結論づけたものの、さて問題となるのはエンゲルスの規定である。エンゲルスはディーツゲンと同じように、真理を一定の認識対象とのむすびつきにおいて規定している。相対的真理と絶対的真理の区別は、対象領域のちがいによって認識のうけとる性格のちがいを意味するにすぎない。相対的な妥当性を持つ真理か、絶対的な妥当性を持つ真理かの区別である。「真理と誤謬とは、両極的な対立をなして運動するすべての思惟規定と同じく、ごく限られた領域に対してしか、絶対的な妥当性を持たない。……真理と誤謬との対立を、上述のせまい領域以外に適用するやいなや、この対立は相対的となり、したがってまた正確な科学的表現のしかたには役に立たなくなる。(9)」このことばであきらかなように、相対的というのは真理と誤謬との関係においていわれているのであって、無限のひろがりを持つ客観的な世界に対して相対的であるとかないとかいうのではない。いま一つ重要なことは、レーニンでは無限の意味での絶対的と有限の意味での相対的とを関係づけているのであるから、相対的真理のほうが絶対的真理よりも対象領域がせまいことになる。エンゲルスの場合とまったく反対になってしまっている。それに、エンゲルスはここで絶対的誤謬および相対的誤謬の問題をも提起しているのであって、相対的真理における誤謬のありかたとならんで、相対的誤謬における真理のありかたをも問題にしなければならない。レーニン以後、この問題はまったく無視され、哲学の教科書には誤謬論の項など存在しないのである。
客観的な無限のひろがりを持つ現実の世界を一度に全部的にとらえるのか、それとも近似的にとらえるのかという問題は、思惟の根本矛盾の問題である。この矛盾を抑え、この矛盾がさらに発展した形態として、真理と誤謬の対立、その相互転化の過程が問題になり、認識の真理としての性格が相対的だということが明らかにされる。レーニンはこの立体的な論理構造を平面化し、根本矛盾の問題で絶対的真理と相対的真理を論じたのである。したがって、エンゲルスのいう絶対的真理も、無限のひろがりを持つ対象領域でとりあげられるかぎり、すべて相対的真理になってしまう。どこまでいっても人間は絶対的真理に到達できないことになってしまう。けれどもエンゲルスの規定によれば、われわれは現に絶対的真理をわがものにしていることになっている。そこで、レーニンは自分の出した結論と、エンゲルスの規定とを、何とかしてむすびつけなければならない立場に立たされることになった。では、どういうトリックを使ってエンゲルスをむすびつけたか?
レーニンは、彼のいう「客観的、絶対的真理」すなわち無限のひろがりを持つ現実の世界を、全部的に、無条件的に、のこすところなく認識した場合を想定する。すなわち、人類がもっぱら永遠の真理ばかりを身につけ、すべての思惟が至上的妥当性と無条件的な真理の要求を持つというありかたを想定する。もはや誤謬は存在せず、認識の対象と認識とが完全に対応しており、認識が究極に到達したという意味で絶対的である。もちろんこんなことは現実に起るはずはない。しかしレーニンは、彼のいう「客観的、絶対的真理」に完全に対応するこの絶対的認識に対して、その対象と同じく絶対的真理の名を与える。いいかえれば、この絶対的な認識を媒介として絶対的真理の名を対象の分野から認識の分野に密輸入しエンゲルスの規定とむすびつけようとする。そこで、「われわれのすべての知識の相対性を認め(10)」これらすべてを相対的真理とよびながら、これらを部分と全体との関係において解釈し、部分の総和から組成される全体、「相対的真理の総和から組成される絶対的真理(11)」と規定する。エンゲルスにいわせれば、ボイルの法則にふくまれている。「真理の粒」すなわち相対的真理の中の一粒が絶対的真理なのであるが、レーニンの考えではこれは絶対的真理のなかの一要素、一カケラとしての「粒」である。相対的真理がつぎつぎと加えられて絶対的真理へと近づいていくという意味で、レーニンは「相対的真理と絶対的真理との間に越ゆべからざる境界は存在しない(12)」と力説する。エンゲルスは、真理と誤謬との間に越ゆべからざる境界は存在しないことをすでに説いているのであって、相対的真理と絶対的真理との間の移行をエンゲルス的な意味で理解することのほうがわれわれの実践にとっては重要である。
古在由重と粟田賢三の編になる、岩波小辞典『哲学』で、絶対的真理と相対的真理の項をしらべてみると、レーニンの解釈だけを採用し、しかも絶対的真理と相対的真理の関係を明らかにしたのはレーニンだとつけ加えてある。また、毛沢東の『実践論』をみると、レーニンの解釈がきわめて正確に反映していて、毛沢東のレーニンへの傾倒のほどが察せられる。「マルクス主義者は、絶対的な、全体的な宇宙の発展過程のなかでは、個々の具体的な諸過程の発展はすべて相対的なものであり、したがって、絶対的真理の大きな流れのなかでは、個々の一定の発展段階での具体的な諸過程についての人間の認識はただ単に相対的な真理性をもつにすぎないものと考える。無数の相対的な真理の総和こそが、つまり絶対的な真理なのである。」
絶対的真理・相対的真理・相対的誤謬・絶対的誤謬の区別と連関を問題にしなければならないのは、真理と誤謬の相互転化をあきらかにすることが実践的に重要な意味を持つからである。ある限られた領域に対して、絶対的に妥当する絶対的真理への度はずれの信頼が、その領域以外のどこへもこれを適用するあやまりをうみだすのであり、あきらかに誤謬と思われる理論にしてもそれがうみだされる過程をたどってみれば相対的な真理から相対的な誤謬へ移行する具体的な契機がつかめるのである。であるからこそ、誤謬の徹底的な分析が大きな意義を持つのであり、また徹底的な分析をおこたってその出身階層や政治的地位に安易にむすびつけてはならないのである。彼はプチ・ブルだとか、学生だとか、かつて第二インターの誰と交際していたとか、人間的な欠陥があったとかいうところに、理論的な誤謬の原因を求めるだけで、その理論がどこで足をふみはずしどのように曲がっていったか具体的な過程を追跡しないのでは、マルクス主義的な批判ということはできない。
エンゲルスのいう絶対的真理も、レーニンや毛沢東の立場からは相対的な真理でしかないということは、対立物の同一性の一つの実例である。毛沢東のいう対立物の同一性は、対立する二者がむすびついているという不可離性をさすにとどまっていて、弁証法的な同一性すなわち一者が同時に他者でもあるという構造をとりあげているのではない。プロレタリアートとブルジョアジーとは切りはなしえないとはいうが、プロレタリアが同時にブルジョアにもなりうるとか、販売は同時に購買であるとか、自分は他人からすれば同時に他人でもあるとかいう構造をとりあげているのではない。相対的真理はどこまでも相対的真理、総和においてはじめて絶対的真理になるというような、不可離性において「越ゆるべからざる境界はない」のではなく、ごく限られた領域に対して絶対的真理でありながら同時にその領域以外に対しては相対的真理でもあるという構造を自覚して、真理が真理であるための条件検討をつねに忘れず、真理の誤謬への転化を極力防止することこそ、「実践論」を説くにあたって必要な態度ではなかろうか。
なお、レーニンがマルクスの対象的真理の解釈をあやまっていることについては、一九五〇年に民科の事務所の集りで寺沢恒信に話したように記憶している。当時はご承知のように「分派」さわぎで、レーニンの批判など公にできる条件はなかったのである。
(1) エンゲルス『反デューリング論』第一篇第九章。
(2) レーニン『唯物論と経験批判論』第二章、岩波文庫戦前版、上巻、一六五頁。
(3) 同右、上巻、一九三頁。
(4) 同右、中巻、一五頁。
(5) 同右、上巻、一九二頁。
(6) 同右、中巻、二二頁。
(7) 同右、中巻、二三頁。
(8) 同右、中巻、十二頁。
(9) エンゲルス、同右。
(10) レーニン、同右、中巻、一四頁。
(11) 同右、中巻、一〇頁。
(12) 同右、中巻、十二頁。