〔一〕〔私有財産と労働〕

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 (1)私有財産の主体的本質、対自的〔für sich(2)〕に存在する活動としての私有財産、主体としての、人格としての私有財産は、労働である。したがって、労働をその原理として認識した――アダム・スミス――国民経済学が、はじめて私有財産を人間の外にあるたんなる一状態とは、もはや思わなくなったということ、――この国民経済学が近代的産業の一産物と見なさるべきであるとともに、また私有財産の現実的なエネルギーおよび運動の一産物(3)とも見なさるべきだということ、同時に他方では国民経済学がこの産業のエネルギーと発展とを促進し、讃美して、意識上のひとつの力にまでしたということも、おのずから明らかである。だから富の主体的本質を――私有財産の枠内で――発見した(4)ところの、この啓蒙された国民経済学にとっては、私有財産を人間にたいするたんに対象的な存在としてしか認めない重金主義および重商主義の一派は、物神崇拝者(Fetischdiener)、カトリック教徒にみえる。それゆえエンゲルスは、正当にもアダム・スミスを、国民経済学上のルター(5)名づけた。ルターが宗教、信仰を外的世界の本質として認識し、したがってカトリック的異教に対立したのと同様に、また彼が宗教心を人間の内面的本質とすることによって、外面的な信心を止揚したのと同様に、また彼が聖職者を俗人の心胸のなかへと移しいれたゆえに、俗人の外に存する聖職者を否定したのと同様に、私有財産が人間そのものと合体され、そして人間そのものが私有財産の本質と認められることによって、人間の外にあって人間から独立した――したがってただ外面的な仕方でしか指示され主張されえない――富は止揚される、すなわち、この富の外在的没個性的な(6)対象性は止揚されるのである。――ただし、〔人間そのものが私有財産の本質と認められる〕ために、人間そのものは、ルターの場合に宗教の規定のなかにおかれているのと同様に、私有財産の規定のなかにおかれることになる。したがって、労働をその原理とする国民経済学は、人間を承認するような外見のもとで、むしろただ人間の否認を徹底的に遂行するものにすぎない。それがどのようにしてなされるかというと、人間そのものが私有財産という外面的な存在にたいして、もはや外面的な緊張関係にたつのではなく、人間そのものが私有財産のこの緊張した存在となることによってである。以前には人間の自己外的存在〔Sichäußerlichsein〕、人間の事実上の外化〔reale Entäußerung〕であったものが、いまや外化の行為〔Tat der Entäußerung〕、譲渡する過程〔Veräußerung〕になるのである(7)。したがって、あの国民経済学が、人間、すなわち人間の自立性、自己活動性、等々を承認するという見せかけのもとに出発するとすれば、そして国民経済学が、私有財産を人間そのものの本質のなかへと移しいれるのと同様に、自分の外に実存する存在としての私有財産の地方的、国民的等々の諸規定によってもはや制約されえなくなり、したがって、自分を唯一の政策、普遍性、制限、連帯としての位置につけるために、世界市民的な、普遍的な、そして一切の制限と延滞とを投げすてるエネルギーを展開するとすれば、国民経済学は、さらに発展してゆくにあたって、こうした偽善を脱ぎすて、その完全なシニシズム〔無礼気まま〕をむきだしにせざるをえなくなる。そしてこのことがどのようにしてなされるかというと、国民経済学が――この学説によって国民経済学がまきこまれる一切の外見上の諸矛盾におかまいなしに――労働の唯一の本質として、さらにずっと一面的に、したがっていっそう鋭く、またいっそう徹底的に展開し、この学説の諸帰結が、あの最初の見解〔スミスの見解〕とは反対にむしろ人間に敵対的なものであることを立証し、最後に、労働の運動から独立して実存するところの、最終的な、個別的な自然的な私有財産の温存であり富の源泉であるもの――すなわち地代、このすでにまったく国民経済的となってしまい、したがって国民経済にたいして抵抗する能力を失っている封建的財産の表現――に、とどめの一撃を加えることによってである(リカード学派)。国民経済学のシニシズムは、スミスからセイを経てリカード、ミル等々に進むにつれて、産業の諸帰結がいっそう発展した矛盾にみちた姿で後者〔リカード、ミル等々〕の眼前に現われでるかぎり、相対的に露骨さを増すのであるが、それだけでなく、また積極的に後者は、人間にたいする疎外という点で、不断にかつ意識的に彼らの先駆者よりも前進している。だがそれは、彼らの科学がより徹底的により真実に展開されているからにほかならないのである。彼らは私有財産をその活動的な形態において主体とし、したがってまさに人間を本質とすると同時に、非本質としての人間を本質とするのであるから、現実の矛盾は、彼らが原理とし て認識したところの矛盾にみちた本質に完全に対応している。産業の分裂的な現実は彼らの自己分裂的な原理を否認するどころか、かえって確認するのである。彼らの原理とは、こうした分裂の原理なのだ。―― ――

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 ドクター・ケネー(8)重農主義的学説は、重商主義からアダム・スミスへの通路をかたちづくっている。重農主義〔Physiokratie〕は、直接的には封建的財産の国民経済学的な解消であるが、しかしそれゆえ、まったく同様に直接的に、封建的財産の国民経済学的変形であり、再確立であって、その用語がいまや封建的でなく経済学的になっているというだけのことである。すべての富は土地農耕(農業)とに解消される。土地はいまだ資本ではない。土地はまだ、その自然的特殊性において、またその特殊性のゆえに通用すべき資本の特殊な温存の仕方である。とはいっても、〔ケネーの場合〕土地はやはり普遍的な自然的な基盤なのであるが、他方、重商主義はたんに貴金属だけを富の現実的存在として認めたにすぎなかった。こうして、富の対象、富の素材は、――それがなお自然物としても直接に対象的な富であるかぎり――ただちに自然の限界のなかで最高の普遍性をもつことになった。そして土地は、ただ労働、農業によってのみ、人間のためのものである。だから富の主体的本質は、すでに労働へと移されているわけである。だが同時に、〔重農主義では〕農業はただひとつ生産的な労働である。したがって労働は、まだその普遍性と抽象とにおいてとらえられてはいない。労働はまだその素材としての特殊な自然的基盤(9)拘束されている。だからまた労働は、まだ特殊な自然によって規定された現存の仕方において認識されただけである。だから、労働の生産物がなお特定の富、――労働そのものよりもむしろ自然に帰属する富――としてとらえられているのと同様に、労働はさしあたりまだ、人間の特定の特殊な外化なのである。土地はここではまた人間から独立した自然的現存として認められており、いまだ資本として、すなわち、労働そのものの一契機として認められてはいない。むしろ労働は土地の契機とみなされている。しかし、古風で外在的で、ただ対象としてだけ実存する富の仏神崇拝が、非常に単純な自然的基盤へと還元され、そしてすでに富の本質が、さしあたり部分的であるにせよ、特殊な仕方でその主体が現実的存在において認められているから、富の普遍的本質が認識されるようになり、したがって労働がその完全な絶対性すなわち抽象において原理にまでたかめられてゆくという必然的な進歩がそこにあるわけだ。経済学的な見方、だからただ一つの正しい見方からすると、農業は他のいかなる産業とも区別されないということ、したがって特定の労働でも、特殊な基盤によって拘束された労働でも、労働の特殊な発現でもなく、労働一般が富の本質であるということが、重農主義にたいして証明されるのである。

 重農主義は、労働が富の本質であると言明することによって、特殊な、外在的な、たんに対象的でしかない富を否認する。しかし、さしあたって、重農主義にとって労働はただ土地所有の主体的本質でしかない〔重農主義は、支配的なものおよび公認されたものとして歴史的に現われている所有の様式から出発する〕。すなわち、重農主義は、産業(農業)が土地所有の本質であると言明することによって、土地所有の封建的性質を止揚する。しかし重農主義は、農業唯一の産業であると言明することによって、産業界にたいして否定的な態度をとり、封建制度を是認するのである。

 土地所有と対立する産業、すなわち産業として構成されつつある産業――の主体的本質がとらえられさえすれば、この本質が自分のなかに自分のあの対立物をふくんでいることが、すぐにおのずから理解される。というのは、止揚された土地所有を産業が包括しているのと同様に、産業の主体的本質は同時に土地所有主体的本質をも包括しているのである。

 土地所有が私有財産の最初の形態であり、さしあたり歴史的にこの形態に対立して、産業が所有のたんなる特殊な一様式として現われる、――あるいはむしろ土地所有の解放された奴隷である――のと同様に、私有財産の主体的本質、すなわち労働を科学的にとらえる際にも、この過程はもう一度くりかえされるのであり、こうして労働は最初はただ農耕労働としてだけ現われるが、しかしつぎに労働一般として通用するようになるのである。

−p.124,l.17−<3>

 すべての富は産業的な富に、労働のになった。そして、工場制度産業の、すなわち労働の成熟したあり方であり、また産業資本が私有財産の完成された客観的形態である(10)ように、産業は成熟した労働である。

 実際また、ここではじめて、どのようにして私有財産が人間にたいするその支配を完成し、もっとも普遍的な形態をとって世界史的な力となることができるかを、われわれはみるのである。