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人間の諸感受性、諸情熱などが、(狭い(1))意味での人間学的諸規定であるばかりでなく、真に存在論的な本質(自然)肯定であるとすれば――また、諸感受性、諸情熱などにたいして対象が感覚的に存在することによってのみ、それらが現実的に肯定されるのだとすれば、つぎのことはおのずから明らかである。(1)それら〔諸感受性、諸情熱〕の肯定の仕方はけっして同一ではなく、むしろ肯定の種々のことなった仕方がそれらの現存の、それらの生命の独自性を形づくるのであり、対象がそれらにたいしてどのようにあるかというあり方が、それらの享受の独自な仕方なのであるということ、(2)感覚的な肯定が、自立的形態をとっている対象を直接に止揚すること(対象を食うこと、飲むこと、加工すること等)である場合、このことは対象の肯定であるということ、(3)人間が人間的であり、したがって彼の感受性などもまた人間的であるかぎり、他人による対象の肯定も、同時に彼自身の享受であるということ、(4)発展した産業を通じて、すなわち私有財産の媒介を通じてはじめて、人間的情熱の存在論的本質は、その総体性においても、またその人間性においても生成するということ、したがって人間についての科学は、それ自身、人間の実践的な自己確証の一産物だということ、(5)私有財産の意味は――それがその疎外から解放されるならば――活動の対象としての享受の対象としても、人間にとって本質的な諸対象の現存であるということ。―― ――
貨幣は、すべてのものを買うという属性をもち、すべてのものを我がものにするという属性をもっているから、したがって貨幣は優れた意味における対象(2)である。貨幣の属性の普遍性は、それの本質が全能だということである。だから貨幣は全能な存在として通用する。……貨幣は人間の欲求と対象とのあいだの、
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