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『経済学批判』は、一八五九年、すなわちマルクス四一歳の年の六月、ベルリンのフランツ・ドゥンカー書店から出版された八ッ折り判(オクターヴォ)紙装の本で、序文八頁、本文一七〇頁より成り、初版は一、〇〇〇部印刷されたが、マルクス生前にはついに再版は発行されなかった。
この書がふたたび出版されたのは、一八九七年であるが、このとき編集者カウツキーは綿密な校定をくわえるとともに、マルクスがこの書の「序言」で、「ざっと書きおえた一般的序説を、わたくしはさしひかえることにする」といっている「一般的序説」(本訳書二八六頁)を「経済学批判序説」として収録した。いわゆるカウツキー版がこれである。
この版は、その後ひさしいあいだかなりの版をかさねてきたが、一九三四年になって、モスクワのマルクス・エンゲルス・レーニン研究所による「民衆版」、すなわち研究所版またはアドラツキー版とよばれているものが、新たに刊行された。この版では、マルクスの自用本の訂正と補註とをとりいれて改善改定がくわえられたうえ、『資本論』の民衆版のばあいと同じ原則にしたがって、外国語の引用はすべてドイツ語訳にかえられ、かつ脚注には通し番号がつけられた。またこの版では、カウツキー版で筆頭におかれていた「序説」は、本文のあとにまわされ、本書についてのエンゲルスの書評や、本書の構想ならびに執筆の経過を語るマルクスの手紙とともに、「附録」としておさめられている。
この研究所版は、われわれが現在利用できる版本として最良のものであるが、今日では、さきにカウツキー版をだしたディーツ書店から『マルクス=レーニン主義叢書』の一冊(第一巻)として発行され、容易に入手しうるようになっている。
『経済学批判』は、どういう事情のもとで、どのような意図と目標をもって、いかなる構想にもとづいて書かれたか、またそれは、いかなる特色をもっているか、そして狭くはマルクス自身の学問的経歴のうえにおいて、広くは経済学ないし社会主義の歴史のうえにおいて、いかなる地位と意義とをもつものであるか、これらの点については、この書物の「序言」、ならびにこの訳書では「附録一」および「附録二」という形で訳出した、エンゲルスの本書にたいする書評、マルクスの手紙、「経済学批判序説」、カウツキー版およびアドラツキー版の序文等が、くわしくかつあますところなく語っている。したがって、訳者がここであらためて解説を書く必要はないのであって、右の点についていろいろ知りたいと思う読者は、これらのもの、とくにマルクス自身の書いた「序言」と、エンゲルスによってなされた書評「カール・マルクス著『経済学批判』」を熟読されたい。
ただここでぜひ一言つけくわえておきたいことは、本書は、経済学をこころざす人によって、もっともっと読まれて然るべきだということである。
まず、本書の「序言」を見られたい。それは、いわゆる「唯物史観の公式」をふくんでいることで有名であるが、それとならんで注目すべきことは、そこでマルクスが語っているかれの「経済学研究の経過」(本訳書一一頁)である。それによれば、マルクスの経済学の研究は、一方では、かれが「ライン新聞」の主筆として参加せざるをえなかった、山林盗伐や土地所有の分割や自由貿易対保護貿易等のいわゆる物質的利害に関する論争を契機として、他方では、「『さらにすすもう』とする良き意志が事実の知識をはるかに圧倒していた」環境のもとで、かれの従来の研究成果をもってしては、フランス社会主義の内容そのものについてなんらかの判断をくだすことはできないことを率直に反省することから、はじまったものであった。すなわちかれは、かれをなやました疑問を解決するために、まずヘーゲルの法哲学を批判的に検討することからはじめて、ついに唯物史観に到達したのであるが、この唯物史観を科学的に基礎づけるためにはじめられたものこそ、経済学等の研究であったのである。読者は、これらの叙述をつうじて、経済学をまなぶことの必要性と意義、歴史と社会とを対象とする学問、つまり社会科学のなかにおいて経済学がしめる地位といったようなことについて、幾多の示唆をうけられるであろう。
つぎに、さらにすすんで本書の本文を見られたい。そこには、「第一部資本について」「第一編資本一般」とあり、第一章で商品が、第二章で貨幣または単純流通が述べられている。読者は、この本文の篇別を見るだけで、マルクスがいわゆる物質的利害に関する論争に科学的に答えるために、また当時の社会主義にたいして正しい判断をくだすために、つまり経済学をやるために、いかに根本的な点からその研究をはじめているかを知ることができるであろう。また、それを読んでいくにつれて、われわれが毎日みなれている商品や貨幣、われわれが当然のこととして日々何回となくくりかえしている売買のなかに、実は大変な事実がひそんでいることを知って、目をみはる思いをすることであろう。そしてかれが、その大変な事実を、先人の業績を批判しつつとりいれ、それをあるべきところに位置づけつつ、一歩一歩とあきらかにしていることをみて、深いおどろきにうたれずにはいないであろう。経済学をまなぼうとするひとが、こうしたことを知り、こうした感じをもつことは、きわめて重要なことであって、それは、そのひとの到達する成果をより高いものにするうえに、大きな役割を演ずるであろう。
もちろんこのことは、『資本論』によってもできるであろう。周知のように、『経済学批判』の内容は、『資本論』の第一章(第二章以下では第一編)に要約されており、しかもその要約は、「関連をあきらかにして、遺漏なきを期するためだけになされたのではなかった。叙述が改善されたのである。」(『資本論』第一版の序文)といわれているからである。しかし『経済学批判』では、マルクスがその経済学を体系的に述べた最初の著作として、論理のはこびにはわかわかしい充実感がこもり、叙述はみずみずしい。その意味で、右に指摘したような点を知りかつ感じとるためには、「改善された叙述」「教授法にそった論述」(同前)のなされている『資本論』よりも、この『経済学批判』のほうが、より適当だともいえるのではなかろうか。
さらにまた、『経済学批判』で展開され、『資本論』第一章(または第一編)に要約されていることは、問題の性質上きわめて難解であって、マルクス自身、「なにごともはじめがむずかしいという諺(ことわざ)は、すべての科学に適用される。この意味で第一章、とくに商品の分析をふくんでいる節の理解は、最大の障碍(しょうがい)となるであろう。」といっているほどである。しかし、ここであつかわれている問題から出発し、それを徹底的に把握しなくては、経済学を理解することはできない。そこで、マルクスは、この同じ問題を『経済学批判』と『資本論』第一版と同第二版とにおいて、三回にわたって、編別を改め、叙述の仕方を変えてあつかっているのである。読者は、これらを相互に対照しつつ読むことによって、この最初の難関を突破するのに役だてることができるであろうし、進んではまた、この変革のあとをたどることによって、マルクスのいわゆる「分析の方法」と「弁証法的方法」とがいかなるものであるかということを、具体的に会得(えとく)することができるであろう。
なおまた本書には、周知のように、商品や貨幣についてのかなりくわしい学説史的記述がふくまれているが、それは、単に貨幣論や経済学史を専門に研究しようとするひとだけでなく、いやしくも経済学の勉強にこころざすすべてのひとにとって必読のものだといってよい。
要するに、『経済学批判』は、マルクスが一方では『ヘーゲル法哲学批判』『神聖家族』『ドイツ・イデオロギー』とつづくその哲学的思索と、他方では『哲学の貧困』『賃労働と資本』とくるその経済学的研究とを綜合して、この書の「序言」や「序説」ならびに当時のかれの手紙等に見られるような遠大な構想のもとに書きはじめた最初の著作であって、マルクス全著作のなかでも特に重要な地位をしめるものである。そういうものとして、訳者らは、本書がもっともっと読まれることを望むものであり、その一助となることを期して、厳密さをそこなわない範囲内でなるべく平易で読みやすい訳本をつくることに努力したつもりである。
最後に、これは解説というよりもあとがきであるが、本訳書成立の経過を簡単に記し、その間お世話になった方々へ感謝のことばを述べておきたい。本書を岩波文庫の一冊として訳出することをおすすめくださったのは、大内兵衛、向坂逸郎両先生であった。訳出にあたっては、まず、法政大学助教授日高普氏に下訳を乞い、それを訳者ら四名が原文と照合しつつ校定し、さらに統一をはかり読みやすくすることを主眼として、武田が原稿に手を入れ、大内がゲラ刷を通読した。索引の作成については、全面的に日高氏をわずらわした。日高氏のご協力によって、本訳はいっそう完璧(かんぺき)なものとなったと思う。特記して深くお礼を申し上げるしだいである。また、翻訳中、向坂先生は絶えず訳者らを鞭撻してくださったが、それがなければ、本訳書の出版はさらに遅れたであろう。出版そのものについては、岩波書店、とくに文庫係の山鹿太郎氏にひとかたならぬご厄介になった。あわせて厚くお礼を申し述べたい。