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一見するところブルジョア的富は、ひとつの巨大な商品集積としてあらわれ、個々の商品はこの富の原基的定在としてあらわれる。しかもおのおのの商品は、使用価値と交換価値という二重の視点のもとに自己をあらわしている(1)。
(1) アリストテレス『国家について』、第一部第九章(I・ペッケリ編、オクスフォード、一八三七年《著作集第一〇巻、一三頁以下》)。「なぜならば、すべての財貨の用途は二重である。……ひとつはその物自体に固有の用途、他はそうでない用途である。たとえば、沓(くつ)についていえば、はきものとして役に立つことと、交換に用いられることとがそれである。この両方とも、沓の使用価値ではある。というのは、沓を、自分が不足しているもの、たとえば食物と交換する人もまた沓を使用しているわけだからである。だがそれは、その本来の使用法ではない。なぜならば、沓は交換のためにあるわけではないからである。これと同じことは、ほかの財貨についてもいえる。」
商品はまず、イギリスの経済学者たちのいい方にしたがえば「生活にとって必要な、やくに立つ、あるいは快適な、なんらかの物」であり、人間の欲望の対象であり、もっとも広い意味での生活資料である。使用価値としての商品のこのような定在と、その商品の自然的な、手につかむことのできる実在とは合致している。たとえば小麦は、綿花、ガラス、紙などのような使用価値とは違った特定の使用価値である。使用価値は、使用に関してのみ価値をもち、ただ消費の過程においてのみ実現される。同じ使用価値はいろいろに利用されうる。にもかかわらず、その使用価値のおよそ可能な利用のすべては、一定の諸属性をそなえた物としてのその使用価値の定在のうちに総括されている。さらに使用価値は、質的に規定されているばかりでなく、量的にも規定されている。その自然的特性にしたがって、さまざまの使用価値は、たとえば、小麦幾ブッシェル、紙幾帖、リンネル幾エレ、などのようにさまざまな尺度をもっている。
富の社会的形態がどうあろうとも、使用価値はつねに、そうした形態にたいしては、ロシアの農民がつくったのか、フランスの農民がつくったのか、それともイギリスの資本家がつくったのかはわかるものではない。使用価値は、たとえ社会的欲望の対象であり、したがってまた社会的連関のなかにあるとはいえ、すこしも社会的生産関係を表現するものではない。使用価値としてのこの商品が、たとえば一個のダイヤモンドであるとしよう。ダイヤモンドをみたところで、それが商品だということは認識できない。それが美的にであろうと機械的にであろうと、娼婦の胸においてであろうと、あるいはガラス切り工の手においてであろうと、使用価値として役立っているばあいには、それはダイヤモンドであって商品ではない。使用価値であるということはどうでもよい規定であるように思われる。経済的形態規定にたいしてこのように無関係なばあいの使用価値、つまり使用価値としての使用価値は、経済学の考察範囲外にある(2)。この範囲内に使用価値がはいってくるのは、使用価値そのものが形態規定であるばあいだけである。直接には、使用価値は、一定の経済的関係である交換価値が、それでみずからを表示する素材的土台なのである。
(2) これが、ドイツの書物製造屋どもが「財貨」という名のもとに固定された使用価値を好んで論ずるのはなぜかという理由である。たとえばL・シュタイン『国家学体系』《シュツットガルトおよびテュービンゲン、一八五二年》第一巻「財貨」に関する篇《一三四頁以下》をみよ。「財貨」についての理解は「商品学指針」のうちにもとめなければならない。
交換価値は、さしあたり、使用価値がたがいに交換されうる量的比率としてあらわれる。このような比率においては、これらの使用価値は同一の交換量をなしている。だからプロペルテウス詩集一巻とかぎたばこ八オンスとは、たばこと悲歌というまったくちがった使用価値であるにもかかわらず、同じ交換価値でありうるのである。交換価値としてならば、ひとつの使用価値はただそれが正しい割合で存在しておりさえすれば、他の使用価値とまったく同じねうちがある。ひとつの宮殿の交換価値は、靴墨幾缶かで表現することができる。その反対に、ロンドンの靴墨製造業者たちは、かれらのたくさんの靴墨缶の交換価値を、いくつかの宮殿で表現してきた。だから、諸商品は、その自然的な実在の仕方とはまったく無関係に、またそれらが使用価値として満足させる欲望の特殊な性格にもかかわりなく、それぞれ一定の量においてはあいひとしく、交換によってたがいに置きかえられ、等価物として通用し、こうしてその多様な外観にもかかわらず、同じひとつのものを表示しているのである。
使用価値はそのまま生活資料である。だが逆に、これら生活資料自体は、社会的生活の生産物であり、人間の生活力の支出の結果であり、対象化された労働である。まさに社会的労働の体化物として、あらゆる商品は同じひとつのものの結晶なのである。この同じひとつのもの、つまり交換価値で表示される労働の一定の性格が、いまや考察されなければならない。
いま、一オンスの金、一トンの鉄、一クォーターの小麦、そして二〇エレの絹がひとしい大きさの交換価値であるとしよう。こうした等価物としては、これらのものの使用価値の質的区別は消えさっているが、こうしたものとしては、それらは同じ労働のひとしい分量を表示している。これらにひとしく対象化されている労働は、それ自体、同じ形の、無差別な、単純な労働でなければならない。この労働が、金、鉄、小麦、絹のうちのどれにあらわれるかということは、この労働にとってはどうでもよいことであって、それはちょうど酸素にとって、鉄の錆、大気、ぶどう汁、あるいは人間の血液のなかのどこに存在するかがどうでもよいことであるのと同じである。けれども、金を掘りだすこと、鉄を鉱山から採掘すること、小麦をつくること、そして絹を織ることは、たがいに質的にちがった種類の労働である。実際、物的には使用価値の差異としてあらわれるものが、過程のうえでは、使用価値をつくりだす活動の差異としてあらわれる。だから交換価値を生みだす労働は、使用価値の特定の素材にたいして無関係であるのと同様に、労働そのものの特定の形態にたいしても無関係である。さらにまた、さまざまな使用価値は、さまざまな個人の活動の生産物であり、したがって個人的にはちがった労働の結果である。だが交換価値としては、それらは、ひとしい、無差別の労働を、つまり労働する者の個性の消えさっている労働を表示している。だから交換価値を生みだす労働は、抽象的一般的労働なのである。
もし一オンスの金と、一トンの鉄と、一クォーターの小麦と、そして二〇エレの絹とが、ひとしい交換価値、つまり等価物であるとすれば、一オンスの金と、二分の一トンの鉄と、三ブッシェルの小麦と、そして五エレの絹とはまったくちがった大きさの交換価値である、しかもこうした量的な差異こそ、交換価値としてのそれらに総じてありうる唯一の差異なのである。ちがった大きさの交換価値として、それらは、あるものの多量あるいは少量を、つまり交換価値の実体を形成するかの単純な差異こそ、一様の、抽象的一般的労働の、あるいは大きいあるいは小さい量を表示している。そこでこれらの量をどうしてはかるかが問題となる。というよりむしろ、こういう労働の量的定在はなんであるかが問題になる。なぜならば、交換価値としての諸商品の大きさの差異は、それらのうちに対象化された労働の大きさの差異にすぎないからである。運動の量的な定在が時間であるように、労働の量的な定在は労働時間である。労働の質をあたえられたものとして前提するならば、労働そのものの継続時間の差異が、ありうる唯一の差異である。労働は、労働時間としては、時間、日、週、等の自然的な時間尺度をその尺度としている。労働時間は、労働の形態、内容、個性に無関係な、労働の生きた定在である。それは量的であるとともに、その内在的尺度をもつ労働の生きた定在である。商品の使用価値のうちに対象化された労働時間は、その使用価値を交換価値たらしめ、したがって商品たらしめる実体であるとともに、その一定の価値の大きさをはかる。同じ労働時間が対象化されているいろいろな使用価値のそれぞれの量は等価物である。いいかえれば、すべての使用価値は、それについやされ対象化されている労働時間がひとしくなるような割合において、等価物である。交換価値としては、あらゆる商品は一定量の凝固した労働時間にほかならない。
交換価値が労働時間によって規定されていることを理解するためには、つぎの重要な諸点をしっかりつかんでいなくてはならない。すなわち、諸労働の、単純な、いわば質をもたない労働への還元、交換価値を生みだす、したがって商品を生産する労働が、社会的労働であるための特殊な方式、最後に、使用価値に結実するかぎりでの労働と、交換価値に結実するかぎりでの労働との区別、これである。
商品の交換価値を、そのうちにふくまれている労働時間ではかるためには、さまざまな労働自体が、無差別な、一様な、単純な労働に、要するに質的には同じで量的にだけ差異のある労働に還元されていなければならない。
この還元は、ひとつの抽象としてあらわれるが、しかしそれは、社会的生産過程のうちで日々おこなわれている抽象なのである。すべての商品を労働時間に分解することは、すべての有機体を気体に分解することに比して、よりはなはだしい抽象ではなく、しかもまた同時により非現実的な抽象でもない。このように時間によってはかられる労働は、実際にはさまざまな主体の労働としてあらわれるのではなくて、労働するさまざまな個人が、むしろ同じ労働の単なる諸器官としてあらわれるのである。いいかえれば、交換価値で表示される労働は、一般的人間労働という表現をあたえることができよう。一般的人間労働というこの概念は、あるあたえられた社会のすべての平均的個人がおこなことのできる平均労働、つまり人間の筋肉、神経、脳髄等のある一定の生産的使用のうちに実在している。それはすべての平均的個人が身につけうるような、そしてまたすべての平均的個人があれこれの形態でおこなわざるをえないような単純労働(3)なのである。この平均労働の性格は、国がちがい文化の段階がちがうにしたがってちがっているとしても、ひとつのきまった社会ではあたえられたものとしてあらわれる。単純労働は、どんな統計からでもたしかめうるように、ブルジョア社会のあらゆる労働のうちとびぬけて大きな部分をなしている。Aが六時間のあいだ鉄を、そして六時間のあいだリンネルを生産し、Bもまた同じく六時間のあいだ鉄を、そして六時間のあいだリンネルを生産しようとも、あるいはまたAが一二時間のあいだ鉄を、Bが一二時間のあいだリンネルを生産しようとも、これはあきらかにただ同じ労働時間のちがった用い方にほかならないものとしてあらわれる。けれどもより高い活力をもち、より大きな特別の重さをもつ労働として、平均水準以上にある複雑労働についてはどういうことになるのであろうか。この種の労働は、結局のところ、複合された単純労働、何乗かされた単純労働に帰するのであり、したがってたとえば、複雑労働の一日は単純労働の三日にひとしいということになる。この還元を規制する諸法則はまだここでの問題ではない。だがこの還元がおこなわれていることはあきらかである。なぜならば、もっとも複雑な労働の生産物であっても、交換価値としては、一定の割合において単純な平均労働の生産物にたいする等価物であり、したがってこうした単純労働の一定量に等置されているからである。
(3) イギリスの経済学者たちは、これを「不熟練労働」とよんでいる。
交換価値が労働時間によって規定されるということは、さらにある一定の商品、たとえば一トンの鉄のうちには、それがAの労働であるのかBの労働であるのかには無関係に、いずれも同じ量の労働が対象化されているということ、あるいは、量的質的に一定の使用価値を生産するためには、それぞれの個人が同じ大きさの労働時間を用いるということ、を前提している。いいかえれば、ある商品のうちにふくまれている労働時間とは、それの生産に必要な労働時間、つまりあたえられた一般的生産諸条件のもとで、同じ商品を新たにひとつ生産するのに必要な労働時間である、ということが前提されているのである。
交換価値を生みだす労働の諸条件は、交換価値の分析からあきらかなように、労働の社会的な諸規定、または社会的な労働の諸規定であるが、社会的というのは単純にそうなのではなく、特定の様式においてそうなのである。それは特殊な種類の社会性なのである。まず最初に、労働の無差別な単純性とは、さまざまの個人の労働が同質であり、かれらの労働が同質なものとしてたがいに関連しあうことであって、しかもこの関連は、あらゆる労働が同質な労働に事実上還元されることによっておこなわれているのである。各個人の労働は、交換価値で表示されるかぎり、同質性というこの社会的な性格をもち、またあらゆる他の個人の労働にたいして同質なものとして関連させられているかぎりにおいてのみ、かれらの労働は交換価値で表示されるのである。
さらに交換価値にあっては、ひとりびとりの労働時間が直接そのまま一般的労働時間としてあらわれ、また個別化された労働のこの一般的性格が、その社会的性格としてあらわれるのである。交換価値で表示されている労働時間は、個々人のそれではあるが、他の個々人とは何の区別もない個々人の、同質の労働をおこなっているかぎりでのすべての個々人の労働時間であり、したがってあるひとりにとって一定の商品の生産のために必要とされる労働時間は、ほかのだれでもが同じ商品の生産についやすであろう必要労働時間なのである。それは個々人の労働時間であり、かれの労働時間ではあるが、しかしそれはすべての個人に共通な労働時間としてだけそうなのであり、したがってこの労働時間にとっては、それがだれの労働時間であるかはどうでもよいのである。それは一般的労働時間として、ある一般的生産物で、ある一般的等価物、対象化された労働時間のある一定量で表示される、そしてこの一般的生産物は、ある個人の生産物として直接にあらわれる使用価値の一定の形態にかかわることなく、他のだれかの生産物として表示される使用価値のどんなほかの形態にでも任意におきかえられるのである。それはただ、このような一般的な大きさとしてだけ社会的な大きさなのである。個々人の労働が交換価値に結実するためには、ひとつの一般的等価物に、つまり個人の労働時間が一般的労働時間として表示されることに、あるいは一般的労働時間が個人の労働時間として表示されることに、結実しなくてはならない。それはちょうど、いろいろな個人がその労働時間をよせあつめ、こうしてかれらが共同に処分できる労働時間のさまざまな量を、さまざまな使用価値で表示したようなものである。だから事実上、個々人の労働時間は、ある一定の使用価値をつくりだすために、つまり、ある一定の欲望を満足するために、社会が必要とする労働時間なのである。
だがここで問題なのは、労働が社会的性格をうけとるばあいの特殊な形態だけである。たとえば、紡績工(ぼうせきこう)の一定の労働時間が一〇〇ポンドの亜麻糸に対象化するものとしよう。そして織布工(しょくふこう)の生産物である一〇〇エレのリンネルも同じ量の労働時間を表示するものだとしておこう。そのばあい、これら二つの生産物が一般的労働時間の同じ大きさの量を表示しているかぎり、したがってまた等量の労働時間をふくんでいるどんな使用価値にたいしてでも等価物であるかぎり、おたがい同志、等価物なのである。紡績工の労働時間と織布工の労働時間とが一般的労働時間として、したがってかれらの生産物が一般的等価物として表示されることによってのみ、ここでは、織布工の労働は紡績工のための、また紡績工の労働は織布工のための、一方の労働は他方のためのものとなり、つまり、かれらの労働の社会的な定在がそれぞれのためのものとなるのである。
これに反し、紡(つむ)ぎ手も織り手もひとつ屋根のもとに住み、いわば自家需要のために、家族のうちの女たちは糸をつむぎ、男たちは布を織っていた農村的家父長制的な工業においては、家族という限界のなかで、糸やリンネルが社会的生産物であり、紡績労働や機織(はたおり)労働が社会的労働であった。けれどもその社会的性格は、一般的等価物としての糸が一般的等価物としてのリンネルと交換されること、つまり両者が同じ一般的労働時間の、どちらでもかまわない同じ意味をもつ表現として、たがいに交換されることにあったのではない。むしろ自然発生的な分業をもつ家族的連関こそが、労働の生産物にそれに固有な社会的刻印をおしたのである。あるいはまた、中世の賦役や現物給付をとってみよう。ここでは自然形態にある個々人の一定の労働が、つまり労働の一般性ではなくて特殊性が社会的紐帯(ちゅうたい)となっている。あるいはまた最後に、すべての文化民族の歴史のあけぼのにみられるような、支配的な形態での共同労働をとってみよう(3)。ここでは労働の社会的性格は、あきらかに、個々人の労働が一般性という抽象的形態をとること、あるいはかれの生産物が一般的等価物の形態をとることによって媒介されてはいない。個人の労働が私的労働となること、および個人の生産物が私的生産物となることをさまたげ、むしろ個々の労働をただちに社会有機体の一分肢としてあらわれさせるものは、そこでの生産の前提となっている共同体なのである。交換価値に表示される労働は、個別化された個人の労働として前提されている。それが社会的なものとなるのは、その正反対の形態、つまり抽象的な一般性という形態をうけとることによってなのである。
(3) 自然発生的な共有の形態は、特殊にスラヴ的な形態だとか、あるいはもっぱらロシア的な形態だとかいう見解が、最近ひろめられているが、これは笑うべき偏見である。この共有形態は、ローマ人、ゲルマン人、ケルト人のあいだにもあったことが証明できる原始形態であり、しかもそれについては、一部くずれかかってはいるが、多様の見本をもつ完全な見本台帳ともいうべきものが、いまもなおインド人のあいだに存在している。アジア的な、ことにインド的な共有形態をもっとくわしく研究してみるならば、支配的な共有のさまざまな形態から、その解体がどのようにして生ずるかを証明しえよう。こうしてたとえば、ローマ的およびゲルマン的私有のさまざまな原型をインド的な共有のさまざまな形態からみちびきだすことができる。
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最後に、交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関連が、いわばあべこべに、いいかえれば物と物との社会関係として表示されるという点である。一個の使用価値が交換価値としてほかの使用価値に関連するかぎりにおいてのみ、いろいろな人々の労働が、同質な、一般的なものとしてたがいに関連しあう。だから交換価値とは人と人とのあいだの関係である(5)、というのが正しいとしても、それは物という外被におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。一ポンドの鉄と一ポンドの金とが、物理的化学的な属性を異にしているにもかかわらず同じ量の重さを表示しているように、同じ労働時間をふくんでいる二つの商品の使用価値は、同じ交換価値を表示している。こうして交換価値は、使用価値の社会的な本来的規定として、また使用価値が物としてもっているひとつの規定としてあらわれてくる。そしてまさにその結果、使用価値は、交換過程において一定の量的関係でたがいにおきかえられ、等価物を形成することになるが、それはちょうど単純な化学元素が一定の量的関係で化合して化学当量を形成するのと同じようなものである。社会的生産関係が対象という形態をとり、そのために労働における人と人との関係がむしろ物同志の関係、および物が人にたいしてとる関係として表示されるということ、このことをありふれた自明のことのように思わせるものは、日常生活の習慣にほかならない。商品のばあいにはこのような神秘化はまだまだきわめて単純である。交換価値としての諸商品の関係は、むしろ人々のかれら相互の生産的活動にたいする関係だという考えが、多かれ少なかれ皆の頭のなかにある。もっと高度の生産諸関係にあっては、この単純にみえる概観も消えうせてしまう。重金主義のすべての錯覚は、貨幣*を、ひとつの社会的生産関係を表示するものとはみなさないで、一定の属性をもつ自然物という形態においてみたことに由来している。重金主義の錯覚を嘲笑する最近の経済学者たちでも、かれらがより高度の経済学的諸カテゴリー、たとえば資本をあつかう段になると、たちまち同じ錯覚におちいっていることをさらけだしてしまう。かれらが不細工にもやっと物としてつかまえたと思ったばかりのものが、たちまち社会関係としてみえ、そしてようやく社会関係として固定しおえたものが、またもや物としてかれらを愚弄しにかかるばあいにみられる、かれらの素朴な告白のうちに、はからずもかれらの錯覚がばくろされているのである。
(5) 「富とは、二人の人のあいだの関係である。」ガリアニ『貨幣について』、二二一頁。クストディ編『イタリア経済学古典文献。近世の部』、第三巻、ミラノ、一八〇三年。
* 第一版では金となっていたが、自用本第一で訂正されている。――編集者。
諸商品の交換価値とは、実は、同質で一般的な労働としての個々人の労働相互の関連にほかならず、労働の特殊社会的な形態の対象的表現にほかならないのだから、労働は、交換価値の、したがってまた、富が交換価値からなりたつかぎり、その富の唯一の源泉であるということは同義反復である。自然素材そのものは、労働をふくまないから交換価値をふくんでいない(6)ということも、また、交換価値そのものはすこしも自然素材をふくんでいないということも、おなじく同義反復である。しかしウィリアム・ペティが「労働は富の父であり、土地はその母である」といい、あるいはバークレー僧正が「この四元素〔地水火風〕とそれにふくまれる人間労働とが富の真の源泉ではないのか?(7)」と問うたとき、あるいはまたアメリカ人トーマス・クーパーが「こころみに一塊のパンからそのうえについやされた労働、つまりパン屋、粉ひき、農夫等々の労働をとりさってみよ、あとにははたしてなにが残るか? どんな人間にとってもなんの役にもたたない野草のひとつかみだけだ(8)」と平易な説明をくわえたとき、これらすべての見解で問題にされているのは、交換価値の源泉である抽象的な労働ではなくて、素材的な富のひとつの源泉としての具体的な労働、つづめていえば使用価値をつくりだすかぎりでの労働である。商品の使用価値が前提されているのであるから、商品についやされた労働の特定の有用性、一定の合目的性が前提されているわけであるが、それと同時に商品という立場からいえば、有用労働としての労働にたいするいっさいの考慮はそれでつくされている。使用価値としてのパンにたいしてわれわれが関心をもつのは、食料品としてのそれの諸属性であって、農夫や粉ひきやパン屋等の労働ではけっしてない。もしなにかの発明によって、これら労働の二〇分の一九がはぶかれたところで、パンはまえと同様にわれわれの役にたつであろう。もしそのパンができあがったかたちで天からふってきたところで、その使用価値のわずかでも失われるものではあるまい。交換価値を生みだす労働が、一般的等価物としての諸商品の同質性のうちに実現されるのにたいして、合目的的な生産的活動としての労働は、諸商品の使用価値の無限の多様性のうちに実現される。交換価値を生みだす労働は、抽象的一般的かつ同質な労働であるが、使用価値を生みだす労働は、形態と素材のことなるにしたがって無限にことなった労働様式にわかれる具体的な特定の労働である。
(6) 「その自然状態にあっては、物質はつねに価値をもたない。」マカロック『経済学の起源等々にかんする研究』、プレヴォ訳、ジュネーヴ、一八二五年、五七頁。マカロックのような者でさえも、「物質」その他半ダースにものぼるがらくたを価値の要素なりととらえるドイツのいわゆる「思想家ども」の物神崇拝よりどれほどすぐれているかがわかる。たとえばL・シュタイン『国家学体系』、第一巻、一七〇《一九五》ページを参照。
(7) バークレー『質問者』、ロンドン、一七五〇年《一頁》。"Whether the four elements, and man's labour therein, be not the true source of wealth?"
(8) トマス・クーパー『経済学基礎講義』、ロンドン、一八三一年《コロンビア、一八二六年》、九九頁。
使用価値をつくりだす労働にかぎっていえば、労働が、それによってつくりだされたもの、つまり素材的富の唯一の源泉であるというのはまちがっている。この労働は、あれこれの目的のために素材的なものを手に入れる活動なのであるから、前提として素材を必要とする。いろいろな使用価値によって、労働と自然素材との割合は非常にちがってくるが、しかし使用価値はつねに自然的基礎をふくんでいる。自然的なものをなんらかの形態で手にいれるための合目的的活動としては、労働は人間の生存の自然的条件であり、人間と自然とのあいだの素材転換という、あらゆる社会諸形態とはかかわりあいのない条件である。たとえば裁縫労働が、特定の生産的活動としてのその素材的規定性のもとに生産するものは、上衣であって、上衣の交換価値ではない。裁縫労働が上衣の交換価値を生産するのは、裁縫労働としてではなく、抽象的一般的労働としてであり、そしてこの労働は、裁縫師が縫ってつくったものではないひとつの社会的連関に属している。だから古代の家内工業では、女子は、上衣を、その交換価値を生産することなく生産していた。素材的富の一源泉としての労働は、税官吏アダム・スミスが知っていたのと同様に、立法者モーゼもよく知っていたのである(9)。
(9) F・リストは有用物、つまり使用価値の創造をたすけるかぎりでの労働と、富の一定の社会的形態、つまり交換価値を創造するかぎりでの労働との区別をついに理解することができなかった、というのも、総じて理解するということがかれの打算的で実用的な頭には縁遠いことだったからであるが、そこからかれは、イギリスの近頃の経済学者たちを、エジプトのモーゼの単なる剽窃者(ひょうせつしゃ)にすぎないとしたのである。
さてつぎに、交換価値を労働時間に還元することから生ずる、よりたちいった規定を二三考察しよう。
商品は使用価値としては原因的に作用する。たとえば小麦なら食料として作用する。機械なら一定の関係で労働にとってかわる。商品のこの作用、それによって商品ははじめて使用価値であり消費対象であるのだが、この作用は、これを商品のサーヴィス、商品が使用価値としておこなうサーヴィスとよんでよかろう。ところが交換価値としては、商品はつねに結果の見地からだけ考察される。ここで問題になるのは、商品がするサーヴィスではなくて、商品が生産されるさいに商品自身にむかってなされたサーヴィス(10)である。だから、たとえばある機械の交換価値は、その機械によってとってかわられる労働時間の量によってきまるのではなくて、その機械自身についやされ、したがって同じ種類の新しい機械を生産するのに必要とされる労働時間の量によってきまるのである。
(10) ここで、「サーヴィス」というカテゴリーが、J・B・セーやF・バスティアのたぐいの経済学者に、どのような「サーヴィス」をなさざるをえないかが理解される。すでにマルサスが正しく指摘しているように、かれらは小理窟屋のかしこさで、経済的諸関係の特殊な形態規定性をいたるところで捨象してしまっている。
そこで、もし商品の生産に必要な労働量が不変のままであるならば、その商品の交換価値はかわらないであろう。だが生産の難易はたえずかわるものである。労働の生産力が増大すれば、労働はより短い時間で同じ使用価値を生産する。労働の生産力が減少すれば、同じ使用価値の生産により長い時間が必要になる。それゆえ商品にふくまれている労働時間の大きさ、したがってその交換価値は変動するものであり、労働の生産力の増減に反比例して増減する。労働の生産力は、製造工場で用いられるばあいにはその程度が予定されているのであるが、農業や採取産業では、同時にまた制御することのできない自然的事情によっても制約される。同じ労働であっても、地殻内のいろいろな金属の含有量の相対的な多少によってその金属の産出量は多くも少くもなるであろう。同じ労働でも、豊年には二ブッシェルの小麦に対象化されるであろうが、凶年にはおそらく一ブッシェルの小麦に対象化されよう。こういうばあいには、自然的事情としての希少なり豊穣なりが、特定の現実の労働の、自然的事情にむすびつけられている生産力を規定するために、それらのものが商品の交換価値を規定するようにみえるのである。
いろいろの使用価値は、そのそれぞれにちがった分量のうちに、同じ労働時間あるいは同じ交換価値をふくんでいる。一定量の労働時間をふくんでいるある商品の使用価値の分量が、ほかの使用価値にくらべて小さければ小さいほど、その商品の交換価値の比重は大きい。遠く時をへだてた異なる文化段階をとったさい、そこで一定の諸使用価値が、たとえば金、銀、銅、鉄、といったように、または小麦、ライ麦、大麦、燕麦、といったように、たとえ正確に同一の数的比例ではないまでも、相互のあいだの上位下位の一般的関係を維持しているような、諸交換価値の比重の一系列を形成していることがわかっても、そこからいえることはただ、社会的生産諸力の前進的発展が、これらいろいろの商品の生産に必要な労働時間のうえに一様に、あるいはほぼ一様に作用しているということだけである。
一商品の交換価値は、その商品自身の使用価値にはあらわれてこない。だが一般的社会的労働時間の対象化として、一商品の使用価値は他の諸商品の使用価値との関係のうちにおかれている。こうしてこの商品の交換価値は、他の諸商品の使用価値のうちにみずからを表現する。等価物というのは、実は、ほかの商品の使用価値で表現された一商品の交換価値のことである。たとえば一エレのリンネルは二ポンドのコーヒーにあたいするといえば、リンネルの交換価値はコーヒーの使用価値で、しかもコーヒーの使用価値の一定量で表現される。この比率があたえられていれば、どんな量のリンネルの価値でもコーヒーで表現することができる。しかし、一商品たとえばリンネルの交換価値は、ほかの特定の商品たとえばコーヒーが、その等価物をなしているときの比率だけで表現しつくされるものでないことはあきらかである。一エレのリンネルで表示される一般的労働時間のこの量は、他のあらゆる商品の使用価値の無限に異った分量にも同じく実現される。ほかのどんな商品の使用価値も、同じ大きさの労働時間を表示する比率において、一エレのリンネルにたいする等価物を形成する。この単一な商品の交換価値は、それゆえ、あらゆる他の商品の使用価値がその等価物となる無限に多数の等式において、はじめてあますところなく表現される。これら等式の総和でだけ、つまり一商品がほかのすべての商品と交換されうるばあいのさまざまの比率の総体のなかでだけ、その商品は一般的等価物としてあますところなく表現される。たとえば一系列の等式
1エレのリンネル=1/2ポンドの茶,
1エレのリンネル=2ポンドのコーヒー,
1エレのリンネル=8ポンドのパン,
1エレのリンネル=6エレのキャリコ,
1エレのリンネル=1/8ポンドの茶+1/2ポンドのコーヒー+2ポンドのパン+1と1/2エレのキャリコ。
だから、もしわれわれが、一エレのリンネルの価値があますところなく表現されている等式の完全な総和を知っているならば、われわれはリンネルの交換価値をひとつの系列の形で表示することができよう。商品の範囲はけっしてはっきり区切られているわけではなく、たえずひろがっていくのだから、実際上この系列は無限である。けれども一商品は、こうしてその交換価値をほかのあらゆる商品の使用価値ではかるとともに、逆にほかのあらゆる商品の交換価値は、みずからをそれらによってはかったほうの一商品の使用価値ではかられる(11)。もし一エレのリンネルの交換価値が、二分の一ポンドの茶、二ポンドのコーヒー、六エレのキャリコ、あるいは八ポンドのパン等々で表現されているとするならば、その結果、コーヒー、茶、キャリコ、パン、等々は第三者たるリンネルにひとしい比例でたがいにひとしく、こうしてリンネルは、それら諸商品の交換価値の共通尺度として役立つことになる。対象化された一般的労働時間、つまり一般的労働時間の一定量としての各商品は、その交換価値を順次にあらゆる他の商品の使用価値の一定量で表現し、そしてあらゆる他の商品の交換価値は、逆にこの排他的な一商品の使用価値ではかられる。しかし交換価値としては、どの商品もあらゆる他の商品の交換価値の共通の尺度の役をつとめる排他的な一商品であるとともに、他方では、他のそれぞれの商品が多くの商品の全範囲のなかで直接にその交換価値を表示するばあいの、その多数の商品のうちのただひとつにすぎないのである。
(11) 「はかられるものが、ある仕方ではかるものの尺度になるという関係を、はかられるものとのあいだにもっているということ、これがまた尺度の特質のひとつである。」モンタナリ『貨幣について』、四九頁。クストディ編前掲書、第三巻、古代の部。
−p.40, l.4−
一商品の価値の大きさは、その商品以外に実在しているほかの種類の商品が多いか少いかによっては影響されない。だが、その交換価値がみずからを表現している等式の系列が長いか短かいかは、ほかの商品の多様さの大小にかかっている。たとえばコーヒーの価値が表示されている等式の系列は、コーヒーの交換されうる範囲、コーヒーが交換価値として機能する限界を表現している。一般的社会的労働時間の対象化としての一商品の交換価値にたいしては、無限に異なった諸使用価値によるその等価の表現が対応している。
ある商品の交換価値が、直接その商品そのもののなかにふくまれている労働時間の量とともに変化することは、われわれのすでにみたところである。同様に、一商品の実現された交換価値、つまりほかの商品の使用価値で表現された交換価値は、それ以外のすべての商品の生産にもちいられる労働時間の変化する割合によっても左右されざるをえない。たとえば、一シェッフェルの小麦の生産に必要な労働時間が同じままにとどまっていようとも、それ以外のすべての商品の生産に必要な労働時間が二倍になってとすれば、これらの等価物で表現された一シェッフェルの小麦の交換価値は半減するであろう。このような結果は、一シェッフェルの小麦の生産に必要な労働時間が半減し、それ以外の商品の生産に必要な労働時間が変わらないままでいるのと、実際には同じことであろう。諸商品の価値は、それらが同じ労働時間で生産されうる比率によって規定される。この比率におこりうる変化を知るために、二つの商品AとBとをとろう。第一に、Bの生産に必要な労働時間が変わらないままでいるばあい。このばあいには、Bで表現されるAの交換価値は、Aの生産に必要な労働時間の増減に正比例して増減する。第二に、Aの生産に必要な労働時間が変わらないままでいるばあい。Bで表現されるAの交換価値は、Bの生産に必要な労働時間の増減に反比例して増減する。第三に、AとBとの生産に必要な労働時間がひとしい比率で増減するばあい。このばあいにはBによるAの等価の表現は変化しないままである。もしもなにかの事情によってすべての労働の生産力が同じ度合で減少し、あらゆる商品がその生産に同じ比率でより多くの労働時間を必要とすることになったとすれば、あらゆる商品の価値は増加するだろうが、それらの交換価値の現実の表現はかわらないままであろう。しかも、この社会は、同じ量の使用価値をつくりだすためにより多くの労働時間を必要とすることになるから、社会の現実の富は減少するであろう。第四に、AとBとの生産に必要な労働時間はどちらも増加または減少するがその程度がひとしくない場合、あるいは、Aの生産に必要な労働時間は増加するが、Bの生産に必要な労働時間は減少するばあい、もしくはその反対のばあい。これらのばあいにはいずれも単純に、一商品の生産に必要な労働時間はかわらないままであるのに、ほかの商品の生産に必要な労働時間が増減するばあいに還元することができるであろう。
どんな商品の交換価値でも、ほかのあらゆる商品の使用価値、それは使用価値全体であろうとその一部分であろうと、それでみずからを表現する。交換価値としてはどの商品も、そのうちに対象化されている労働時間そのものと同様に可分なものである。諸商品の等価性が使用価値としてのそれらの物理的可分性と無関係であるのは、ちょうど諸商品の交換価値の和が、それらの商品の使用価値がひとつの新しい商品につくりかえられるさいにどんな現実の形態転換をうけようとも、これにたいして無関係であるのと同様である。
これまで商品は、二重の視点から、使用価値として、また交換価値として、そのつど一面的に考察されてきた。けれども商品は、商品としてはまさに使用価値と交換価値との直接の統一である。同時にそれはほかの諸商品にたいする関連のうちでだけ商品なのである。商品同志の現実的関連は、それらの交換過程である。それはたがいに独立した個人がはいりこむ社会的過程であるが、しかしかれらはこの過程にただ商品所有者としてはいりこむにすぎない。かれらおたがい同志の定在は、かれらの諸商品の定在であり、こうしてかれらは、実際には交換過程の意識的な担い手としてあらわれるにすぎないのである。
商品は、小麦、リンネル、ダイヤモンド、機械、等々の使用価値であるが、それと同時に、商品としては、それは使用価値ではない。もし商品がその所有者にとって使用価値であるならば、つまりそのまま所有者自身の欲望を満足させるための手段であるならば、それは商品ではないであろう。商品所有者にとっては、それはむしろ非使用価値であり、すなわち、交換価値の単なる素材的な担い手、あるいは単なる交換手段である。交換価値の能動的な担い手として、使用価値は交換手段となる。その所有者にとっては、商品はただ交換価値としてのみ使用価値なのである(12)。だから使用価値としては、それは、まずほかの人にとっての使用価値にならなければならない。それは、そのもともとの所有者にとっては使用価値ではないのだから、ほかの商品の所有者にとっての使用価値である。そうでなければ、その商品所有者の労働は無用な労働だったのであり、したがってその労働の成果も商品ではないであろう。他方では、商品は、その所有者自身のための使用価値にならなければならない。なぜならば、その商品以外に、つまり他人の諸商品の使用価値の形で、かれの生活資料は実在するのだから。使用価値となるためには、商品はそれがその満足の対象となるような特定の欲望に出あわなければならない。こうして諸商品の交換価値は、それらが全面的に位置を転換し、それを交換手段とする人から使用対象とする人の手にうつることによって、使用価値となるのである。
諸商品のこのような全面的脱却〔譲渡〕によってはじめて、それにふくまれた労働は有用労働になる。使用価値としての商品同志のこのような過程的関連のなかでは、諸商品はすこしも新しい経済的形態規定性をうけとらない。かえってそれらを商品として特徴づけた形態規定性が消えさるのである。たとえばパンは、パン屋の手から消費者の手にうつってもパンとしてのその定在をかえない。それどころか、それがパン屋の手にあるときは経済関係の担い手であり、感覚のうえでは超感覚的なものであったのに、消費者こそはじめて、使用価値としての、こうした一定の食料としてのパンに関連するのである。それゆえ、商品が使用価値となることによってうける唯一の形態転換は、その所有者にとっては非使用価値で、非所有者にとっては使用価値であったというその形態上の定在の止揚である。商品が使用価値になることは、商品の全面的な脱却〔譲渡〕を、それが交換過程にはいりこむことを、前提とするが、しかし商品の交換のための定在は、その交換価値としての定在である。だから商品は、使用価値として実現されるためには、交換価値として実現されなければならない。
(12) アリストテレス(本書の冒頭〔本訳書二一頁〕を参照せよ)が、交換過程を把握したのは、この規定においてである。
個々の商品は、使用価値という視点のもとでは、ほんらい独立した物としてあらわれたが、これに反して交換価値としては、はじめから他のすべての商品との関連において考察された。だがこの関連は単に理論上のもの、考えられたものにすぎなかった。それが実証されるのはただ交換過程のうちにおいてだけである。他方では、商品は一定量の労働時間がそれについやされているかぎり、したがってそれが対象化された労働時間であるかぎり、たしかに交換価値である。けれどもそれは直接そのままでは、特定の内容をもつ対象化された個人的労働時間であるにすぎないのであって、一般的労働時間ではない。だから商品はそのままただちに交換価値なのではなく、これからそれにならなくてはならない。商品はまず一定の有用に使用された労働時間、つまりある使用価値における労働時間を表示するかぎりにおいてのみ、一般的労働時間の対象化でありうる。商品にふくまれた労働時間が一般的社会的労働時間として前提されたのは、こういう素材的条件のもとにおいてだけであった。だから商品は、交換価値として実現されることによってのみ、はじめて使用価値になりうるのであるが、他方ではまた、その脱却〔譲渡〕においてみずからを使用価値として証明することによってのみ、はじめて交換価値として実現されうるのである。一商品は、それがその人にとって使用価値であるような人、つまり(それがその人にとって)特定の欲望の対象であるような人に対してだけ、使用価値として譲渡されうる。他方ではまた、一商品はほかの商品とひきかえにのみ、譲渡される、あるいはほかの商品の所有者のがわからいえば、かれもやはり自分の商品を、その商品を対象とするような特定の欲望と接触させることによってはじめて、譲渡、つまり実現しうる。だから使用価値としての商品の全面的な脱却〔譲渡〕においては、その特殊な属性によって特定の欲望をみたす特定の物としてのその素材的差異におうじて、諸商品は互いに関連しあう。しかし諸商品は、こうした単なる使用価値としては、おたがいにとってどうでもよい実在であり、むしろ無関係でさえある。それらは、使用価値としては、特定の欲望との関連において交換されうるにすぎない。だが商品が交換されうるのはただ等価物としてだけであり、しかも商品が等価物であるのはただ対象化された労働時間のひとしい量としてだけであるから、商品の使用価値としての自然的な属性についてのいっさいの顧慮、したがってまた特定の欲望にたいする関係についてのいっさいの顧慮はまったく消えさってしまっている。一商品が交換価値であることを証明するのは、むしろそれが等価物としてほかのどんな商品の一定量とも任意にかかわりうるからであり、それがほかの商品の所有者にとって使用価値であるかどうかにはかかわらないのである。けれども一商品はほかの商品の所有者にとっては、それがかれにとって使用価値であるかぎりにおいてのみ商品となるのであり、そしてその商品自体の所有者にとっては、それが他人にとって商品であるかぎりにおいてのみ交換価値となる。だから同じ関連が、〔一方では〕本質的にひとしくただ量的にだけ異なる大きさとしての諸商品の関連でなくてはならず、一般的労働時間の体化物としての諸商品を等置することでなくてはならないが、同時に、〔他方では〕質的に異なるものとしての、特定の欲望をみたす特定の使用価値としての、簡単にいえば諸商品を現実的な使用価値として区別する関連でなくてはならない。だが、この等置と区別とはたがいに排斥しあう。こうして一方の解決が他方の解決を前提とするところから、そこに問題の悪循環が生じてくるばかりでなく、ひとつの条件をみたすことがただちにその反対条件をみたすことと結びついているところから、矛盾しあう諸要求の全体があらわれるのである。
諸商品の交換価値は、これらの矛盾の展開であるとともにその解決でなければならないが、しかしこれらの矛盾は交換過程のうちでは、こうした単純な様式では表示されえない。われわれがみてきたのはただ、諸商品そのものが使用価値としておたがいにどのように関連しあうのか、つまり、どのようにして諸商品が使用価値として交換過程の内部に登場するか、ということだけであった。これにたいして交換過程はこれまで考察してきたところでは、単にわれわれの抽象のなかに、あるいはもしそういいたければ、使用価値としての商品を倉庫に、交換価値としての商品を意識にもっている個々の商品所有者の抽象のなかに、存在していたにすぎない。だが諸商品そのものは、交換価値の内部では、たがいに使用価値としてだけではなく、交換価値としても存在しなければならず、しかも諸商品のこのような定在は、諸商品そのものの相互の関連としてあらわれなければならない。われわれがまずゆきづまった困難は、商品は、それが交換価値として、対象化された労働として表示されるためには、まえもって使用価値として脱却し〔譲渡され〕、人の手にわたっていなければならないのに、商品の使用価値としての脱却〔譲渡〕は、逆に交換価値としてのその定在を前提する、ということであった。だがいまこうした困難が解決されたものと仮定しよう。商品は、その特定の使用価値をぬぎすて、その脱却〔譲渡〕によって、個々人の自分のための特定の労働ではなくて社会的に有用な労働であるという素材的条件をみたしているものとする。このばあいには当然その商品は、交換過程において、ほかの商品にたいして交換価値、一般的等価物、対象化された一般的労働時間とならなければならず、こうしてその商品は、もはや特定の一使用価値のかぎられた作用ではなく、その商品の等価物としてのすべての使用価値で、直接みずからを表示する能力をえなければならない。しかもあらゆる商品が、このようにその特定の使用価値からの脱却により、一般的労働時間の直接の体化物としてあらわれなければならないそういう商品なのである。だが他方では、交換過程で対立するものは、特定の諸商品だけであり、特定の使用価値に体化された私的な個人の労働だけである。一般的労働時間そのものはひとつの抽象であって、それは商品にとってそういうものとしては実在してはいないのである。
一商品の交換価値が現実に表現されている等式の総和、たとえば、
1エレのリンネル=2ポンドのコーヒー,
1エレのリンネル=1/2ポンドの茶,
1エレのリンネル=8ポンドのパン等々,
を考察してみると、これらの等式はなるほど、ひとしい大きさの一般的労働時間が、一エレのリンネル、二ポンドのコーヒー、二分の一ポンドの茶、等々に対象化されていることを意味するにすぎない。しかし実際には、これらの特定の使用価値で表示されている個々人の労働が、一般的な、しかもこの形態で社会的な労働に*なるのは、ひとえにこれらの使用価値が、そのうちにふくまれている労働の継続時間に比例して**、現実にたがいに交換されるからにほかならない。社会的労働時間は、これらの商品のうちにいわばただ潜在的にだけ実在しているのであって、これらの商品の交換過程のなかではじめてその姿をあらわすのである。出発点は共同労働としての個人の労働ではなくて、逆に私的な個人の特定の労働、つまり交換過程のなかで初めてその本来の性格を止揚することによって一般的社会的労働であることを証明する労働である。だから、一般的社会的労働とは、すでにできあがっている前提ではなく、できあがってゆく結果なのである。そこでまた新たな困難が生ずる。というのは、一方では商品は対象化された一般的労働時間として交換過程にはいってゆかなければならないのに、他方では個人の労働時間が一般的労働時間として対象化することそのものが、交換過程の産物にほかならないということである。
* 第一版では「に」には in となっていたが自用本第二によって zu に訂正。 ――編集者。
** 第一版では「それらの継続時間に比例して」とあったが自用本第一でこれを訂正。 ――編集者。
どの商品も、その使用価値の、したがってその元来の実在の脱却〔譲渡〕によって、交換価値としてのそれにふさわしい実在をうけとるべきはずのものである。だから商品は交換過程でその実在を二重化しなければならない。他方では、交換価値そのものとしてのその商品の第二の実在は、ほかの一商品であるよりほかにない。なぜなら交換過程であい対立するのは商品同志だけだからである。それではどういうふうにしてある特定の商品が、直接に対象化された一般的労働時間として表示されるのか、あるいは同じことだが、ある特定の商品に対象化されている個人的労働時間が、どのようにしてそのまま一般性という性格をもつようになるのか? 一商品の、つまり一般的等価物としてのそれぞれの商品の、交換価値の現実の表現は、つぎのような無限の総和であらわされる。
1エレのリンネル=2ポンドのコーヒー,
1エレのリンネル=1/2ポンドの茶,
1エレのリンネル=8ポンドのパン,
1エレのリンネル=6エレのキャリコ,
1エレのリンネル=等々。
商品が一定量の対象化された一般的労働時間としてただ考えられていたにすぎないあいだは、この表示は理論的であった。ひとつの特定の商品の一般的等価物としての定在は、右の等式の系列を単純に顛倒(てんとう)することによって、単なる抽象から交換価値そのものの社会的な結果となるのである。そこでたとえば、
2ポンドのコーヒー=1エレのリンネル,
1/2ポンドの茶=1エレのリンネル,
8ポンドのパン=1エレのリンネル,
6エレのキャリコ=1エレのリンネル。
コーヒー、茶、パン、キャリコ、簡単にいえばすべての商品が、そのもののなかにふくまれている労働時間をリンネルで表現することによって、リンネルの交換価値は、逆に、リンネルの等価物たるほかのすべての商品のうちにみずからを展開し、そしてリンネルそのものに対象化されている労働時間は、直接にほかのすべての商品のさまざまな分量でひとしく表示される一般的労働時間となる。このばあいリンネルは、ほかのすべての商品のリンネルへの全面的なはたらきかけによって、一般的等価物となるのである。交換価値としては、どんな商品もほかのすべての商品の価値の尺度となっていた。ここではそれと逆に、すべての商品がその交換価値を特定の一商品ではかることによって、この除外された一商品が交換価値の恰好な定在、一般的等価物としてのその定在となるのである。これに対して、それぞれの商品の交換価値が表示されていた無限の一系列、あるいは無限に多数の等式は、ただの二項からなる単一の等式に短縮される。2ポンドのコーヒー=1エレのリンネル が、いまやコーヒーの交換価値を完全にしめす表現である。というのは、この表現*では、リンネル**はそのままほかのあらゆる商品の一定量にたいしても等価物としてあらわれるからである。だから交換過程の内部では、いまや諸商品は、リンネルの形態をとった交換価値としておたがいに存在しあい、あるいはおたがいにあらわれあうのである。すべての商品が、交換価値としては、対象化された一般的労働時間の異なった量としてのみたがいに関連しあうということは、いまやそれらの商品が、交換価値としては、リンネルという同じ対象の異なった量のみを表示するにすぎないということとなってあらわれる。だから一般的労働時間もまた、それはそれとして、ひとつの特定の物として、ほかのすべての商品とならんで、しかもその外にある一商品として表示される。けれども同時に、商品が商品にたいして交換価値として表示される等式、たとえば、2ポンドのコーヒー=1エレのリンネル は、なおこれから実現されなければならない等置関係である。使用価値としての商品の譲渡は、商品がひとつの欲望の対象であることを交換過程のなかで実証するかどうかにだけかかっているのであるが、この譲渡によってはじめて、商品は、コーヒーというその定在からリンネルという定在に現実に転化し、こうして一般的等価物の形態をとり、現実にほかのすべての商品にとっての交換価値となるのである。反対に、すべての商品が使用価値として脱却する〔譲渡される〕ことによってリンネルに転化するそのことをつうじて、リンネルはほかのすべての商品の転化した定在となる。しかもすべての商品がリンネルにこのように転化する結果としてのみ、リンネルは直接に一般的労働時間の対象化、つまり全面的脱却〔譲渡〕の産物、個人的労働の止揚の産物となるのである。諸商品がたがいに交換価値としてあらわれあうために、その実在をこのように二重化するとすれば、一般的等価物として除外された商品も、その使用価値を二重化する。それは、特定の商品としてのその特定の使用価値のほかに、ひとつの一般的使用価値をもつにいたる。こういうその使用価値は、それ自体、形態規定性である。つまりそれは、交換過程でほかの商品がこの商品にたいして全面的に働きかける結果この商品が演ずる特殊の役割から生ずるものである。ある特定の欲望の対象としての各商品の使用価値は、さまざまな人の手中でさまざまな価値をもち、たとえば、それを譲渡する人の手にあっては、それを取得する人の手にあるのとは異なった価値をもっている。一般的等価物として除外された商品は、いまや交換過程そのものから生ずるひとつの一般的欲望の対象であって、だれにとっても交換価値の担い手であり、一般的交換手段であるという同じ使用価値をもっている。こうしてこの一商品においては、商品が商品としてそのうちにもつ矛盾、特定の使用価値であるとともに一般的等価物であり、したがってだれにとってもの使用価値、一般的使用価値であるという矛盾が解決されている。したがってほかのすべての商品は、いまや、まずそれらの交換価値を、この排他的な一商品との観念的で、これから実現されるはずの等式として表示するのにたいして、この排他的な商品にあっては、その使用価値は現実的なものであるにもかかわらず、過程そのものにおいては、現実の使用価値に転化してはじめて実現されるべき単なる形態定在としてあらわれるのである。元来商品は、商品一般として、特定の使用価値に対象化された一般的労働時間として自己を表示していた。交換過程においては、すべての商品は、商品一般としての排他的な商品に、特定の使用価値における一般的労働時間の定在としての一定の商品に関連する。だから諸商品は、特定の商品として、一般的商品(12a)としての特定の一商品に対立して関係するのである。したがって、商品所有者たちが一般的社会的労働としてのかれらの労働に相互に関連しあうということは、かれらが交換価値としてのかれらの商品に関連するということに表示され、交換過程における交換価値としての商品同志のあいだの関連は、諸商品の交換価値の恰好な表現としての特定の一商品にたいするそれらの全面的な関連としてあらわれ、そのためにまたひとつの物の、一定の、いわば自然発生的な社会的性格としてあらわれる。このように、すべての商品の交換価値の恰好な定在を表示する特定の商品、あるいは特定の排他的な一商品としての諸商品の交換価値――それが貨幣である。それは、諸商品が交換過程そのものにおいて形成する、諸商品の交換価値の結晶である。だから諸商品は、すべての形態規定性をぬぎすてて、直接の素材的な姿態でおたがいに関連しあうことによって、交換過程の内部でお互いにとっての使用価値となるのであるが、他方交換価値としておたがいにあらわれあうためには、新しい形態規定性をとり、貨幣の形成にまですすんでゆかなければならない。商品としての使用価値の定在が象徴でないように、貨幣も象徴ではない。ひとつの社会的生産関係が諸個人の外部に存在する一対象〔貨幣〕として表示され、またかれらがその社会生活の生産過程においてとりむすぶ一定の諸関連が、ひとつの物の特殊な属性として表示されるということ、このような顛倒と、想像的ではなくて、散文的でリアルな神秘化とが、交換価値をうみだす労働のすべての社会的形態を性格づけている。貨幣のばあいには、それが、商品のばあいより、もっとはっきりとあらわれているだけである。
(12a) 同じ表現はジェノヴェシにもある。《自用本第一の註》
* (インスティテュート版正誤表により訂正。)
** 第一版では「コーヒー」となっている。 ――編集者。
−p.53, l.11−
すべての商品にそなわった貨幣性が、そこに結晶してゆくべき特定の商品に必要な物理的諸属性は、交換価値の本性から直接に生ずるかぎりでは、任意に分離しうること、各部分が一様であること、およびこの商品のひとつひとつが無差別であることである。一般的労働時間の体化物としては、それは、同質の体化物であって、単に量的な区別だけを表示しうるものでなければならない。さらにもう一つの必要な属性は、その使用価値の耐久性である。というのは、それは交換過程の内部につねにとどまらなければならないからである。貴金属はこれらの諸属性を非常によくそなえている。貨幣は、省察や協定の産物ではなくて、交換過程のうちで本能的に形成されるのであるから、きわめてさまざまの、多少とも不適当な諸商品が、かわるがわる貨幣の機能をはたしてきた。交換過程が発展してある段階にたっすると、たとえばひとつの商品は交換手段として機能するのに、ほかの商品は使用価値として譲渡されるというように、交換価値と使用価値という二つの規定が諸商品のあいだに両極的に配分される必然性が生じ、それにともなってどこでも、もっとも一般的な使用価値をもっているひとつまたはそれ以上の商品が、さしあたり偶然的に貨幣の役割を演ずるようになってくる。こういう商品が、直接に当座の欲望の対象ではないにしても、素材のうえからいって富のもっとも重要な構成部分として定在することが、ほかの諸使用価値よりもそれに、いっそう一般的な性格を保証しているのである。
交換過程の支配的な形態である直接的交換取引〔物々交換〕は、商品の貨幣への転化がはじまっているということよりも、むしろ使用価値の商品への転化がはじまっていることをしめす。交換価値はすこしも自由な姿態をえておらず、まだ直接、使用価値にむすびつけられている。このことは二重にしめされる。生産そのものは、その全構造において、使用価値を目的とし交換価値を目的として居ない。だから、ここで使用価値が使用価値であることをやめて、交換の手段、商品になるのは、ただ生産が消費のために必要とされる程度をこえることによってだけである。他方、いろいろの使用価値は、たとえ両極的に配分されているとしても、ただ直接の使用価値の限界内でだけ商品そのものとなるにすぎない。したがって商品所有者たちによって交換される諸商品は、双方にとって、使用価値でなければならず、しかも各商品は、それを所有していない者にとっての使用価値でなければならない。事実、諸商品の交換過程は、もともと自然発生的な共同体の胎内にあらわれるものではなくて(13)、こういう共同体がつきるところで、その境界で、それがほかの共同体と接触する少数の地点であらわれるものである。この地点で交換取引がはじまり、そしてそこから共同体の内部に反作用し、これを解体するような作用をおよぼす。だから異なった共同体のあいだの交換取引において商品となる特定の使用価値、たとえば奴隷、家畜、金属等々は多くのばあい、共同体そのものの内部における最初の貨幣を形成する。すでにみたように、一商品の交換価値は、その等価物の系列が長ければ長いほど、またはその商品にとって交換の範囲が大きければ大きいほど、それだけますます高度に交換価値としてみずからをあらわす。だから交換取引がだんだんとひろがり、交換が増加し、そして交換取引にはいってくる商品が多様になるにつれ、商品は交換価値として発展し、貨幣を形成するまでになり、こうして直接的交換取引にそれを分解させるような作用をおよぼすようになる。経済学者たちは、貨幣を、交換取引がひろがるときにつきあたる外的な困難からみちびきだすのが普通であるが、そのさいかれらは、これらの困難は交換価値の、したがってまた一般的労働としての社会的労働の発展から生ずるものだということを忘れている。たとえば、〔かれらはいう、〕商品は使用価値としては任意に分割できないが、交換価値としては任意に分割できなければならない、と。あるいは、Aの商品はBにとって使用価値であっても、Bの商品はAにとって使用価値でないかもしれない、と。あるいは、商品所有者たちがたがいに交換しようとする分割できない商品を、ひとしくない価値比率で需要するばあいがある、と。言い替えれば、経済学者たちは、単純な交換取引を考察するという口実のもとに、実は使用価値と交換価値との直接的統一としての商品の定在が包蔵している矛盾の二三の側面を、具体的にしめしているのである。しかも他方、かれらは一貫して、交換取引は商品の交換過程の恰好の形態であるとしてそれに固執し、ただそれには二三の技術的不便がむすびついているだけであり、それをまぬかれる手段としてたくみに考案されたものが貨幣だ、と主張する。このようにまったく浅薄な立場にたてば、イギリスの機知にトンだ一経済学者が、貨幣は、船舶や蒸気機関のようにひとつの単なる物質的な用具であって、社会的生産関係の表示ではなく、したがってまったく経済学カテゴリーではない、だから技術学とはなんの共通点ももたない経済学で、貨幣がとりあつかわれているのはただあやまってそうされているにすぎない、と主張したのももっともだというべきであろう(14)。
(13) アリストテレスは、原始的共同体としての私的家族について同じことをのべている。だが家族の原始的形態は種族的家族そのものであって、その歴史的分割からはじめて私的家族が発展するのである。「なぜならば、原始的な共同社会では(これは家族であるが)あきらかに、これ(つまり交換)にたいする必要はすこしもなかった。」(『国家について』《前掲ベッケリ編、著作集、オクスフォード、一八三七年、第一〇巻、一四頁》。)
(14) 「貨幣は、実際には売買をおこなうための用具にすぎないのであって、」(だが失礼ながら売買とは一体なんですか?)「貨幣を考察することが経済学という学問の一部をなさないのは、船舶とか蒸気機関とか、あるいは富の生産と分配とを容易にするために用いられるそのほかのなんらかの用具を考察することが、経済学の一部をなさないのと同じことである。」(トマス・ホジスキン『通俗経済学』、ロンドン、一八二七年、一七八、一七九頁。)
商品世界では、発展した分業が前提されている。あるいはむしろ、発展した分業が、特定の諸商品として対立しあい、しかも同様に多様な労働様式をふくんでいる諸使用価値の多様さという形で、直接に表示されている。あらゆる特定の生産的な仕事の様式の総体としての分業は、使用価値を生産する労働として、その素材の面から観察された社会的労働の全姿態である。しかしこういうものとしての分業は、商品という立場からすれば、また交換過程の内部では、ただその結果のなかにだけ、諸商品そのものを特定のものにすることのうちにだけ、実在している。
諸商品の交換は、社会的な素材転換、つまり私的個人の特定の生産物の交換が、同時に個々人がこの素材転換のなかでとりむすぶ一定の社会的生産諸関係の創出でもあるような過程である。商品同志の過程的な関連は、一般的等価物のさまざまな諸規定となって結晶し、こうして交換過程は、同時に貨幣の形成過程でもある。さまざまの過程のひとつの流れとして表示されるこの過程の全体が、流通である。
−p.57, l.13−
商品を分析して二重の形態の労働に帰すること、つまり使用価値を現実の労働または合目的的な生産的活動に帰し、交換価値を労働時間または同質の社会的労働に帰することは、イギリスではウィリアム・パティ、フランスではボアギュベールにはじまり(15)、イギリスではリカアド、フランスではシスモンディにおわる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判的な成果である。
(15) パティとボアギュベールの著作と性格についての比較研究は、それをやれば一七世紀と一八世紀はじめのイギリスとフランスの社会事情が正反対であったことがはっきりするだろうという点はべつにしても、イギリス経済学とフランス経済学とのあいだの国民的な対照を発生的に説明することになるであろう。同じ対照は、両経済学をしめくりつつ、リカアドとシスモンディとのあいだでもくりかえされている。
パティは、労働の創造的な力が自然によって制約されているということにまどわされることなく、使用価値を分解して労働に帰している。かれは、現実的労働を、ただちにその社会的全姿態において、分業としてとらえた(16)。素材的富の源泉についてのこの見解は、たとえばかれの同時代人ホッブスにおけるように、多かれ少なかれ実をむすばずにおわることなく、かえってかれをみちびいて、経済学が独立の科学として分離した最初の形態である政治算術にいたらせた。けれどもかれは、交換価値については、それが商品の交換過程にあらわれるままに、これを貨幣と解し、しかも貨幣そのものについては、これを実在する商品、つまり金銀と解した。かれは重金主義の表象に捉われて、金銀をうるという特定の種類の現実の労働を、交換価値をうみだす労働だと説明した。実際かれは、ブルジョア的な〔社会での〕労働が生産しなければならないものは、直接の使用価値ではなくて、商品であり、交換過程におけるその脱却〔譲渡〕によって、金銀として、つまり貨幣として、つまり対象化された一般的労働として表示される使用価値であると考えた。とにかくかれのばあいは、労働を素材的富の源泉として認識したからといって、労働が交換価値の源泉であるような一定の社会形態についても認識をあやまることはないとするわけにはいかない、という実例をはっきりとしめしている。
(16) ペティは、分業をまた生産力として、しかもアダム・スミスよりも大規模な構想で展開した。『人間の増殖その他に関する試論』、第三版、一六八六年、三五〜三六頁を参照。かれはこの書のなかで後にアダム・スミスがピンの製造についてしたように、懐中時計の製造について、生産にとっての分業の利益をしめしているばかりでなく、同時にまたひとつの都市やひとつの国全体を大工場施設という観点から考察することによってこの利益をしめしている。一七一一年一一月二六日の「スペクテーター」紙は、この「すばらしいサー・ウィリアム・ペティの例証」を引用している。だからマカロックが、「スペクテーター」紙は、ペティと四〇ほどわかい一著述家とを混同している、と推定したのはまちがいであった。マカロック『経済学文献、文献目録』、ロンドン、一八四五年、一〇五頁参照。ペティは、自分を新しい一科学の創始者だと自覚していた。かれは、自分の方法は「ありきたりのものではない」という。自分は、比較級や最上級の言葉をならべ、思弁的な議論を弄したりするかわりに「数や重量や尺度で」語り、感覚的な経験からみちびきだされた立場だけをもちい、また自然のなかでみることのできる基礎をもつような原因だけを考察しようとした。個々の人のかわりやすい心理、意見、好み、情熱に左右される原因は、これを他人の考察にまかせた、と。(『政治算術……』、ロンドン、一六九九年、序文〔大内兵衛・松川七郎訳『政治算術』(岩波文庫版)、二四頁〕。かれの天才的な大胆さは、たとえば、アイルランドとスコットランド高地のすべての住民や動産を、グレート・ブリテンのほかの地方にうつそうという提唱にあらわれている。そうすれば労働時間は短縮され、労働の生産力はたかめられ、そして「国王とその臣民とはいっそう富強になる」であろう、と。(『政治算術』、第四章《二二五頁》〔訳本、九七頁〕。)かれはまた『政治算術』のある章のなかで、オランダが商業国民としてなお重要な役割を演じており、フランスがまさに支配的な商業強国になりそうにみえていたその時代において、イギリスの使命は世界市場の征服にあることを証明して、「イギリス国王の臣民は、全商業世界の貿易をやっていくのに充分かつ適当なもとでをもっている。」(前掲書、第一〇章《二七二頁》〔訳本、一四六頁〕。)「イギリス国王の偉大さをさまたげているのは、偶然の、除去できるものでしかない」(二四七頁以下〔第五章。訳本、一一九頁以下〕。)といっているが、ここにもかれの天才的な大胆さがあらわれている。かれのすべての著作には特有のユーモアがながれている。たとえばかれは、こんにちイギリスが大陸の経済学者たちにとって模範国であるのとまったく同じように、当時イギリスの経済学者たちにとって模範国であったオランダが「何人かの人々によって、オランダ人がもっているといわれている天使のような知慧と理解力とを、実際はもっていないのに」(前掲書、一七五、一七六頁〔訳本、四八頁〕。)世界市場を征服したのは自然のなりゆきであった、ということを指摘している。かれは信仰の自由を商業の条件として弁護する。「なぜならば、富をもつことの少いものが神のことがらについては多くの知慧と理解力をもっており、これが貧しい者のもつ特別の財産だ、と考えることが貧しい人々に許されているかぎり、貧しい者は勤勉であり、労働と勤勉とを神にたいする義務だと考えるからである。」だから商業は「どれかひとつの宗教と結びついているものではなく、むしろつねに全体のうちの異端な部分と結びついているものである。」(前掲書、一八三〜一八六頁〔訳本、五六〜五八頁〕。)かれは無頼の徒のためにする独特の公課を提唱しているが、それは無頼の徒のために自分から進んで税をはらう方が、これら無頼の徒自身の手で課税されるよりも公衆にとってはましだからである。(前掲書、一九九頁〔訳本、六九頁〕。)これに反してかれは、富を勤勉の人の手から奪って「食ったり飲んだり勝負事をしたり、踊ったり形而上学にふけったりすることのほかには何もしない」人たちの手にうつすような租税を非難している。ペティの著作はほとんど古本屋の珍宝であって、粗悪な古版本で散見されるにすぎないが、この事実は、ウィリアム・ペティがただイギリス経済学の父であるばかりでなく、同時に、イギリスのホイッグ党の長老であるヘンリ・ペティ、別称ランズダウン侯の祖先であるだけに、いっそうふしぎに思われる。しかしランズダウン家は、ペティの全集を刊行しようとすれば、そのはじめにペティの伝記をのせないわけにもいかないだろうが、このばあいにもホイッグ党のたいていの名門の素性についても同じように、「いわぬが花」なのである。ペティは考えは大胆だが、ごくくだらない一軍医であり、クロムウェルの威をかりてアイルランドで掠奪しようとしたり、またチャールズ二世にとりいって掠奪に必要な準男爵の称号をえようとしたりするような男だから、こういう祖先の姿は、公の展覧にはまずふさわしくない。その上にペティは、生前に出版したたいていの著作のなかで、イギリスの隆盛期はチャールズ二世の治下にあたることを証明しようとつとめているが、これは代々「名誉革命」のおかげをこうむっている一族にとっては異端の見解である。
ボアギュベールの方は、個々人の労働時間が特定の商業部門に配分される正しい割合によって「真実価値」(la juste valeur)を規定し、かつ自由競争を、この正しい割合をつくりだす社会的過程として述べることによって、意識的ではないにしても、事実上、商品の交換価値を労働時間に分解している。しかしそれと同時にかれは、パティとは逆に、貨幣は、その介入によって商品交換の自然的均衡や調和を撹乱し、架空のモーロク〔フェニキア人が子供を人身御供として祀(まつ)った牛身神〕のようにすべての自然の富をいけにえとして要求するものだとして、これを熱狂的に攻撃している。貨幣にたいするこの論難は、一面では一定の歴史的事情と連関しており、パティが黄金欲をもって、一国民を刺激して産業の発展や世界市場の征服におもむかせる力強い衝動として讃美したのにたいし、ボアギュベールは、ルイ一四世の宮廷やその徴税請負人やその貴族などの盲目的破壊的な黄金欲を攻撃した(17)のだとしても、同時にまたここには、純イギリス的な経済学と純フランス的な経済学(18)との不断の対照としてくりかえされるもっと深刻な原理的対立が浮きだしている。ボアギュベールは実際のところ、ただ富の素材的内容、使用価値、その享受(19)だけに注目して*、労働のブルジョア的形態、つまり商品としての使用価値の生産とその商品の交換過程を、個人的労働がその目的をたっする自然にかなった社会形態だとみなしている。だから貨幣のばあいのように、特殊な性格をもったブルジョア的富が目のまえにあらわれると、かれはそれを僭越な異分子がとびこんできたのだと信じ、ある形態でのブルジョア的労働を空想家的に美化しながら、同時にほかの形態でのそれに憤激するのである(20)。ボアギュベールは、商品の交換価値に対象化され、時間ではかられる労働を、個人の直接の自然的活動と混同しながらも、労働時間は商品の価値の大きさの尺度としてとりあつかわれうるものだということを、われわれに証明している。
(17) ボアギュベールは当時の「いんちき財政術」に反対して「財政術は農業と商業の利益についての深遠な知識にほかならない」といっている。(『フランス詳論』、≪一六九七年≫、ユージェーヌ・デール版『一八世紀の財政経済学者』、パリ、一八四三年、第一巻、二四一頁。)
(18) ラテン系経済学というわけではない。というのは、イタリア人はナポリ、ミラノ両学派という形で、イギリス経済学とフランス経済学との対立をくりかえしており、また初期のスペインの学者は、ただの重商主義者かウスタリッツのような修正重商主義者であるか、それともホヴェリャノスのように(かれの『著作集』、バルセロナ、一八三九〜四〇年を参照)、アダム・スミスと同様「中庸」をまもっているか、どちらかだからである。
(19) 「真の富は……生活必需品だけでなく、さらに奢侈品(しゃしひん)や官能をよろこばせうるいっさいのものの完全な享受である。」(ボアギュベール『富の性質その他に関する研究』、前掲書、四〇三頁。)ペティがくだらない、掠奪欲にもえた、無節操な冒険家であったのにたいし、ボアギュベールはルイ一四世の経理官の一人であったにもかかわらず聡明さとこれにおとらぬ大胆さとをもって、被抑圧階級の味方をしたのであった。
(20) プルードン型のフランス社会主義は、同じ国民的な世襲的弊害に悩んでいる。
* 初版では「をもとめて」となっていたが自用本第二によって訂正した。――編集者。
交換価値をはじめて意識的に、ほとんどだれにもわかるほど明晰に分析して労働時間に帰したのは、ブルジョア的生産諸関係がその担い手とともに輸入され、歴史的伝統の欠如をおぎなってありあまる沃土をもった地盤のうえに、急速に成長した新世界のひとりの人であった。その人こそベンジャミン・フランクリンであって、かれは一七一九年に書いて一七二一年に印刷に付した青年時代の論文のなかで、近代的な経済学の根本法則を定式化した(21)。かれは、価値の尺度を貴金属以外に求める必要をはっきりさせた。労働こそそれだ、というのである。「銀の価値も、ほかのすべてのものの価値と同じように、労働によってはかることができる。たとえば、あるものは穀物の生産に従事し、ほかのものは銀を採掘し精練するものとしよう。一年の終り、またはほかの任意の一定期間ののちには、穀物の全生産高と銀の全生産高とは、それぞれおたがいの自然価格である、そしてもし穀物が二〇ブッシェル、銀が二〇オンスだとすれば、一オンスの銀は一ブッシェルの穀物の生産に用いられた労働のねうちがある。だが、いまもしもっと近く、もっと採掘しやすく、もっと豊穣な鉱山が発見されたために、以前の二〇オンスの銀を生産するのと同じ容易さで四〇オンスの銀が生産できるものとし、しかも二〇ブッシェルの穀物を生産するにはやはり以前と同じ量の労働が必要だとすると、もはや二オンスの銀は一ブッシェルの穀物の生産に用いられた以前と同じ労働以上のねうちはなく、以前は一オンスの銀のねうちがあった一ブッシェルの穀物は、ほかの事情がかわらなければ(caeteris paribus)いまでは二オンスの銀のねうちがあるであろう。したがって一国の富は、その国の住民が買うことができる労働量によって評価されるべきものである(22)。」フランクリンにあっては、経済学者らしい一面的見方でただちに価値の尺度として表示される。現実の生産物が交換価値に転化するのは自明のことであって、問題はただ、その価値の大きさをはかる尺度を発見することである。「商業は一般に労働と労働との交換にほかならないのだから、あらゆるものの価値は労働によってもっともただしく評価される(23)」とかれはいう。このばあい、労働というかわりに現実的労働という言葉をおきかえると、ひとつの形態の労働とほかの形態の労働とが混同されていることがただちに発見されるであろう。商業とは、たとえば靴屋の労働、採鉱労働、紡績労働、画家の労働等々を交換することだからといって、長靴の価値が画家の労働によってもっとも正しく評価されるであろうか? フランクリンは逆に、長靴、鉱産物、紡糸、絵画等の価値は、少しも特定の質をもたない、したがって単なる量によってはかられうる抽象的労働によって規定される、と考えていた(24)。しかしかれは、交換価値にふくまれている労働を、抽象的一般的な、そして個人的労働の全面的脱却〔譲渡〕から生ずる社会的労働として発展させなかったから、必然的に、貨幣がこの脱却した〔譲渡された〕労働の直接的な実在形態であることに気付かなかった。だからかれにとっては、貨幣と交換価値を生みだす労働とはなんの内的な連関をもたないどころか、むしろ貨幣は、技術的な便宜のために外から交換のなかにもちこまれた用具なのである(25)。フランクリンがした交換価値の分析は、経済学の一般的な歩みには直接の影響をあたえないでおわった。なぜならば、かれは、経済学の個々の問題を、一定の実践上の機会にふれて論じているにすぎないからである。
(21) B・フランクリン『著作集』、I・スパークス編、第二巻、ボストン、一八三六年、「紙幣の性質と必要にかんする小論」
(22) 前掲書、二六五頁。"Thus the riches of a country are to be valued by the quantity of labour its inhabitants are able to purchase"
(23) "Trade in genaral being nothing else but the exchange of labour for labour, the value of all things is, as I have said before, most justly measured by labour."(前掲書、二六七頁)。
(24) 前掲書。『アメリカの紙幣についての批評と事実』一七六四年。
(25) 『アメリカ政治論』参照。『アメリカの紙幣についての批評と事実』、一七六四年(前掲書)。
現実的な有用労働と交換価値を生みだす労働との対立は、どんな特定種類の現実の労働がブルジョア的富の源泉であるか、という形の問題として一八世紀中、ヨーロッパをさわがせた。だからそこでは、使用価値に実現される労働、あるいは生産物をつくる労働のすべてが、ただそれだけの理由でただちに富を創造するわけではない、ということが前提されていたのである。ところが、フィジオクラートにとっては、その論敵にとってと同じに、最重要な論争点は、どのような労働が価値を創造するかということではなく、どのような労働が剰余価値を創造するかということであった。あらゆる科学の歴史的進行がたくさんの曲り道や横道やを経てはじめて真の出発点に到達するように、かれらも、問題をその基本的な形態で解決しないうちに、これを複雑な形態で論じたのであった。科学というものは、ほかの建築師とちがって、単に空中楼閣をえがくばかりでなく、建物の土台石をすえないうちに、住居になるひとつひとつの階層をきずきあげるものである。われわれはここでは、これ以上論ずるのはやめて、また多かれ少かれ適切な思いつきで商品の正しい分析にふれているイタリアの経済学者(26)をも全部省略して、ただちに、ブルジョア経済学の全体系をあみだした最初のイギリス人、サー・ジェイムズ・ステュアート(27)にむかうことにしよう。かれにあっては、経済学の抽象的諸カテゴリーは、まだその素材的内容から分離する過程にあり、そのために混合しかつ動揺しつつあらわれているが、交換価値というカテゴリーもまたそうである。ある箇所では、かれは、現実価値を労働時間(what a workman can perform in a day, 一人の労働者が一日のうちに果すことのできるもの)によって規定しているが、それとならんで Salair(賃金)と原料とが登場して混乱をきたしている(28)。ほかのあらゆる箇所では、素材的内容との格闘がさらにはっきりとあらわれている。つまりかれは、商品にふくまれている自然的材料、たとえば銀製の網細工における銀を、その内在的価値(intrinsic worth)とよび、他方商品にふくまれている労働時間をその使用価値(useful value)とよんでいる。「前者はそれ自身現実のものであるが、……これに反して使用価値は、それを生産するためについやされた労働にしたがって評価されなければならない。素材の変形に用いられた労働は、ある人の時間の一部分を代表している云々(29)」と、かれはいう。ステュアートがその先行者や後継者からぬきんでていた点は、交換価値に表示される特殊社会的労働と、使用価値を目的とする現実の労働とをはっきり区別した点である。「その脱却(alienation)によって一般的等価物(universal equivalent)を創造する労働を、わたしは勤労(インダストリー)とよぶ。」と、かれはいう。かれは、勤労(インダストリー)としての労働を現実の労働から区別するばかりでなく、労働のほかの社会的形態からも区別する。それは、かれによれば、労働の古代的および中世的形態に対立する労働のブルジョア的形態なのである。とくにかれが関心をもっていたのは、ブルジョア的労働と封建的労働との対立であり、没落の段階にあるこの封建的労働を、かれは祖国スコットランドでも、また大陸における広範囲の旅行ででも観察したのであった。むろんステュアートは、ブルジョア時代より前の時代でも、生産物は商品の形態をとり、商品は貨幣の形態をとることを充分に知っていた。しかしかれは、富の原基的基礎形態としての商品と、入手の支配的形態としての脱却〔譲渡〕とは、ブルジョア的生産の時代にだけ特有のものであり、したがって交換価値を生みだす労働の性質は、特殊的ブルジョア的なものであるということを、くわしく証明している(30)。
(26) たとえば、ガリアニ『貨幣について』、クストディ編『イタリア経済学古典文献。近世の部』、第三巻、ミラノ、一八〇三年を参照。かれは「ほねおり(fatica)だけが物に価値をあたえる唯一のものである。」という。七四頁。労働を fatica とよぶのは南国人の特徴である。
(27) ステュアートの著作『経済学の諸原理に関する研究、自由諸国民の国内政策学についての一論』は、はじめ一七六七年に四折判二冊でロンドンで刊行されたが、それは、アダム・スミスの『国富論』の一〇年前であった。わたくしは、一七七〇年のダブリン版から引用している。
(28) ステュアート、前掲書、第一巻、一八一頁〜一八三頁。
(29) ステュアート、前掲書、第一巻、三六一頁〜三六二頁。"represents a portion of a man's time."
(30) ここからかれは、土地の持主のために使用価値を創造することを直接の目的とする家父長制的な農業は、なるほどスパルタやローマではもちろん、アテネでもなお「誤用」だとはいえないであろう、だが、一八世紀の産業諸国では、「誤用」であると説いている。かれによれば、こういう "abusive agriculture"(誤用された農業)は、"trade" ではなくて「単なる生計の手段」である。ブルジョア的農業が土地から余分な人口を一掃するように、ブルジョア的工業は工場から余分な労働者を一掃する、というのである。
農業、工業、海運業、商業等々のような現実の労働の特定の諸形態をつぎつぎに富の真の源泉だと主張したあとで、アダム・スミスは、労働一般が、しかもその社会的な全姿態、つまり分業としての労働一般が、素材的富、または諸使用価値の唯一の源泉であると宣言した。このばあいかれは、自然要素をすっかりみすごしているうちに、単に社会的な富の、つまり交換価値の領域においこまれることとなった。いかにもアダムは、商品の価値を、それにふくまれている労働時間によって規定してはいるが、そのあとでまたこの価値規定の現実性をアダム以前の時代にまでおしもどしてしまうのである。言い替えれば、かれにとって、単純商品の立場では真実だと思われたことが、単純商品にかわって、資本、賃労働、地代等々のもっと高度で複雑な諸形態が登場するやいなや、はっきりしなくなるのである。このことをかれはこう表現する。すなわち、商品の価値がそのうちにふくまれている労働時間に寄ってはかられたのは、ブルジョアの paradies lost(失われた楽園)、つまり、人間がまだ資本家や賃労働者や土地所有者や借地農業家や高利貸などとしてではなく、ただ単純な商品生産者および商品交換者としてむかいあっていたにすぎないところにおいてのことである、と。かれは、商品の価値がそれにふくまれている労働時間によって規定されるということと、商品の価値が労働の価値によって規定されるということとをたえず混同して、くわしく説明するときにはいつも動揺しており、そして、社会的過程が同質でない労働のあいだで強力に遂行する客観的な同質化を、個人的諸労働の主観的な同格化であると*誤認している(31)。現実的労働から交換価値を生みだす労働、つまり基本形態におけるブルジョア的労働への移行を、かれは分業によって成就しようとしている。ところが私的交換が分業を前提としているというのはまちがいである。たとえばペルー人のあいだでは、私的交換、商品としての生産物の交換がすこしもおこなわれなかったにもかかわらず、労働は非常に分割されていたのであった。
(31) そこでアダム・スミスは、たとえばこういっている。「労働の相等しい量は、いつどんなところでも、労働するものにとっては相等しい価値をもつといっていいであろう。健康と体力と精神が正常の状態にあり、熟練と技巧の程度もまた平均しているならば、かれは、同一の労働にたいしては、いつも同一量の安楽と自由と幸福とをぎせいにしないわけにはいかない。かれが支払う価格は、かれがそれの報酬として受取る商品の量がどうであろうとも、いつも同一でなければならない。その労働で買うことのできる商品は、実際、あるときはより多くあるときはより少いであろうが、変化するのはそれら商品の価値であってそれを買う労働の価値ではないのである。それゆえ、ただ労働だけはその固有の価値を決してかえない。だから労働は商品の真実価格である、云々」(『国富論』、第一編、第五章、ウェークフィールド版、ロンドン、一八三五〜三九年、第一巻、一〇四頁以下。〔大内兵衛訳『国富論』(岩波文庫版)、第一分冊、七二〜七三頁〕)
* 第一版では「と」は mit となっていたが、自用本第二によって für と訂正した。 ――編集者。
アダム・スミスとは反対に、デイヴィッド・リカアドは、努力の結果、労働時間による商品価値の規定を純粋にしあげ、しかもこの法則が、それともっとも矛盾するようにみえるブルジョア的生産諸関係をも支配することを示した。リカアドの研究は、もっぱら価値の大きさにだけかぎられているが、この点ではかれはすくなくとも、この法則の実現が一定の歴史的前提に依存するものであることに感づいていた。すなわちかれは、労働時間による価値の大きさの規定は、「勤労によって任意に増加することができ、しかもその生産が無制限な競争によって支配されている(32)。」ような商品にだけ妥当する、といっている。このことが意味するのは、実は、価値法則が完全に発展するには、大工業生産と自由競争との社会、つまり近代ブルジョア社会を前提する、ということにほかならない。そのほかの点では、リカアドは、労働のブルジョア的形態を、社会的労働の永遠の自然形態だとみなしている。かれは、原始時代の漁夫と猟師とをいきなり商品所有者として、魚と獣とをそれらの交換価値に対象化された労働時間に比例して交換させている。このばあいかれは、原始時代の漁夫と猟師とがかれらの労働用具〔の価値〕を計算するのに、一八一七年のロンドン取引所でつかわれている年利計算表を参考にするというアナクロニズムにおちいっている。「オーウェン氏の平行四辺形〔オーウェンのユートピア的失業解決策〕」が、ブルジョア的社会形態のほかにかれの知っていた唯一の社会形態であるように思われる。こういうブルジョア的限界にかぎられていたにもかかわらず、リカアドは、底のほうでは表面にあらわれるものとは全く別のものの観があるブルジョア経済を、理論的にするどく解剖したので、ブルーム卿はかれについて、"Mr. Ricardo seemed as if he had dropped from an other planet."(リカアド氏はまるでほかの遊星から落ちてきたひとのようだ)といいえたほどであった。シスモンディは、リカアドとの直接の論争で、交換価値を生みだす労働の特殊社会的性格を強調する(33)とともに、価値の大きさを必要労働時間に還元すること、つまり「全社会の需要とこの需要をみたすにたりる労働量とのあいだの比例」に還元することを、「われわれの経済的な進歩の性格(34)」として特徴づけている。シスモンディはもはや、交換価値を生みだす労働が貨幣によって偽造されるというボアギュベールの考え方にはとらわれてはいないが、ボアギュベールが貨幣を非難したように、かれは大産業資本を非難している。リカアドにおいて、経済学がためらうことなくその最後の結論をひきだし、それによって終結を告げたとすれば、シスモンディは経済学の自分自身にたいする疑問を表示することによって、この終結を補完しているわけである。
(32) デイヴィッド・リカアド『経済学および課税の原理』、第三版、ロンドン、一八二一年、三頁。〔小泉信三訳『経済学および課税の原理』(岩波文庫版)上巻、一五頁〕
(33) シスモンディ『経済学研究』第二巻、ブリュッセル、一八三七年。「それは使用価値と交換価値との対立であって、商業はいっさいのものを交換価値に帰している。」一六一頁。
(34) シスモンディ、前掲書、一六三頁〜一六六頁以下。
リカアドは古典派経済学の完成者として、労働時間による交換価値の規定をもっとも純粋に定式化して発展させたのであるから、経済学のがわからおこされた論争が、かれにむかって集中するのは当然である。この論争からその大部分をしめるばかげた形態のもの(35)をのぞけば、それはつぎの点に要約される。
(35) おそらくもっともばかげたものといえば、コンスタンチオによるリカアドのフランス語訳にJ・B・セーがつけた註釈であり、もっともペダンチックで傲慢なものといえば、最近でたマクロード氏の『為替の理論』、ロンドン、一八五八年、であろう。
第一。労働そのものが交換価値をもっており、さまざまな労働はさまざまな交換価値をもっている。交換価値を交換価値の尺度にするのは悪循環である。なぜならば、他のものをはかる交換価値そのものがさらに尺度を必要とするわけだから。この反対論は、労働時間が交換価値の内在的尺度としてあたえられており、その基礎の上に労賃を展開する、という問題に帰着する。賃労働の理論がこれに正解をあたえるのである。
第二。もしある生産物の交換価値がそれにふくまれている労働時間にひとしいとすれば、一労働日の交換価値は一労働日の生産物にひとしいことになる。いいかえれば、労賃は労働の生産物にひとしくなければならない(36)。Ergo(だから)……。この反対論は、ただ労働時間だけによって規定される交換価値を基礎とする生産が、どうして、労働の交換価値がその労働の生産物の交換価値よりも小さいという結果をうむのであるか、という問題に帰着する。この問題をわれわれは、資本を考察するさいに解決することにする。
(36) ブルジョア経済学のがわからリカアドにたいしてむけられたこの反対論は、のちに社会主義者のがわからとりあげられた。かれらはこの定式を理論的に正しいものとして前提したうえで、理論と矛盾している罪は事実にあり、ブルジョア社会はその理論的原則から考えられる結論を事実のうえでひきだすべきだとしたのである。少くともイギリスの社会主義者たちは、こういうやりかたでリカアドの交換価値の定式を逆用して経済学を攻撃した。プルードン氏に残された仕事は、ふるい社会の基本原則を新しい社会の原則だと宣言するばかりでなく、同時にまた、自分こそ、すでにリカアドがイギリス古典派経済学の総成果を要約して示したこの定式の発見者であると宣言することであった。プルードン氏が海峡のかなたでリカアドの定式を「発見した」ときには、イギリスではすでにその空想家的解釈ですら忘れられていたということはさきに指摘したとおりである。(わたくしの著作『哲学の貧困』、パリ、一八四七年、「構成された価値」に関する節を参照〔山村喬訳『哲学の貧困』、(岩波文庫版)、三〇頁〕。)
第三。商品の市場価格は、需要と供給の関係の変動とともに、その交換価値以下に下落したり、それ以上に上昇したりする。だから商品の交換価値は、需要と供給の関係によって規定されているのであって、そのうちにふくまれている労働時間によって規定されているのではない。実際、この奇妙な推論では、どうして交換価値の基礎のうえにそれとちがう市場価格が展開されるのか、もっと正しくいえば、どうして交換価値の法則はそれ自身の反対物の形でしか実現されないのか、という問題がひきおこされるだけである。この問題は、競争の理論で解決される。
第四。最後の反対論で、もしいつもされるように奇妙な実例の形でもちだされさえしなければ、見たところもっとも痛烈な反対論は、もし交換価値が商品にふくまれている労働時間にほかならないとすれば、少しの労働もふくまない商品はどうして交換価値をもつことができるのか、いいかえれば、単なる自然力の交換価値はどこから生ずるのか、という問題である。この問題は地代の理論で解決されるのである。
−p.74−
一八四四年および一八四五年のサー・ロバート・ピールの銀行条例に関しての議会のある討論のさいに、グラッドストーンは、恋すらも貨幣の本質に関するせんさくほどに多くのひとびとを愚かにしたことはない、とのべた。かれはイギリス人のことをイギリス人にむかって語ったのである。これに反して、オランダ人は、ペティが疑いをさしはさんでいるにもかかわらず、むかしから貨幣投機(スペクラチオン)について「神のような智慧」をもっていたひとびとであるが、貨幣についての思弁(スペクラチオン)においても、けっしてその知慧をうしなわなかった。
貨幣の分析にあたってのおもな困難は、貨幣が商品そのものから発生するということが理解されれば、すぐに克服される。この前提のもとで、なお問題になるのは、貨幣の固有な形態規定性を純粋に把握することだけであるが、この把握は、すべてのブルジョア的諸関係が、金や銀でめっきをされて貨幣関係としてあらわれ、したがって貨幣形態が、それ自身とは関係のない無限に多様な内容をもっているようにみえるために、かなりむずかしくなるのである。
以下の研究で厳守されなければならないことは、単に商品の交換から直接に発生する貨幣の諸形態だけをとりあつかい、生産過程のもっと高い段階に属する諸形態、たとえば信用貨幣のようなものについては論じないということである。問題を簡単にするために、どんな場合にも金が貨幣商品であると仮定しておく。
−p.75−
流通の最初の過程は、いわば現実の流通のための理論的準備段階である。使用価値として実在する諸商品は、まず、それらが互いに観念のうえで交換価値として、対象化された一般的労働時間の一定量としてあらわれるような形態を自分で創造する。この過程に必要な最初の行為は、われわれが知っているように、諸商品が特殊の一商品、たとえば金を、一般的労働時間の直接の体化物、または一般的等価物として除外することであり、われわれは、しばらくのあいだ、商品が金を貨幣に転化させる形態にもどることにしよう。
1トンの鉄=2オンスの金,
1クォーターの小麦=1オンスの金,
1ツェントネルのモカコーヒー=1/4オンスの金,
1ツェントネルの炭酸カリ=1/2オンスの金,
1トンのブラジル産木材=1と1/2オンスの金,
Y商品=Xオンスの金,
この等式の系列では、鉄、小麦、コーヒー、炭酸カリ等々は、たがいに一様な労働、つまり金に物質化された労働の体化物としてあらわれ、そこでは、それらのさまざまな使用価値で表示されている現実的労働のすべての特質は、まったく消えている。価値としては、これらは同一であり、同じ労働の体化物または労働の同じ体化物、すなわち金である。同じ労働の一様の体化物としてこれらは、ただひとつの区別、つまり量的な区別だけを示している。いいかえれば、これらの商品が異なった価値の大きさとしてあらわれるのは、それらの使用価値にひとしくない労働時間がふくまれているからなのである。こういった個々の商品としては、これらは、ひとつの除外された商品、すなわち金としての一般的労働時間そのものと関係することによって、同時に、一般的労働時間の対象化としてたがいに関係しあう。これらがたがいに交換価値として表示しあうのと同じ過程的関連が、金にふくまれている労働時間を一般的労働時間として表示し、この一般的労働時間の一定量が、さまざまな量の鉄、小麦、コーヒー等々で、要するにすべての商品の使用価値で、自分をあらわし、あるいは直接に商品等価物の無限の系列として自分を展開する。諸商品がそれらの交換価値を全面的に金で表現することによって、金は直接その交換価値をすべての商品で表現する。諸商品はたがいに交換価値の形態をあたえあうことによって、金に一般的等価物の形態、つまり貨幣の形態をあたえるのである。
すべての商品がその交換価値を金で、一定量の金と一定量の商品とがひとしい労働時間をふくむような割合でもってはかるので、金は貨幣の尺度となる。しかも金は、さしあたり、ただ価値の尺度としてのこの規定によってのみ、一般的等価物または貨幣となるのであって、価値の尺度としての金自身の交換価値は、直接に商品等価物の範囲全体ではかられうるのである。他方、いまやすべての商品の交換価値は、金で自分を表現する。この表現においては、質的な要因と量的な要因とが区別されなくてはならない。商品の交換価値は、同じ労働時間の体化物として現存している。商品価値の大きさは、商品同志、それが金と等置される割合におうじてたがいに等置されているのだから、あますところなく表示されている。一方では、商品にふくまれている労働時間の一般的性格が、他方ではその量が、それらの金等価物にあらわれている。このように商品の交換価値が、一般的等価として、同時にまたこの等価の度盛り(どもり)として、特殊な一商品で、または諸商品と特殊な一商品とのあいだのただ一つの等式で、表現されたものが、価格である。価格とは、商品の交換価値が流通過程のなかであらわれる転化された形態である。
こうして商品は、その価値を金価格として表示するのと同じ過程をつうじて、金を価値の尺度として、したがって貨幣として表示する。もし諸商品が全面的にそれらの価値を、銀なり小麦なり銅なりではかり、したがってそれを銀価格、小麦価格、あるいは銅価格として表示するならば、銀、小麦、銅は価値の尺度となり、こうして一般的等価物となるであろう。流通のなかで価格としてあらわれるためには、商品は流通にたいして交換価値として前提されているわけである。金が価値の尺度となるのは、すべての商品がそれらの交換価値を金で評価するからにすぎない。けれども、尺度としての性格の唯一の源泉であるこの過程的関連の全面性は、個々の商品のどれもが、自分と金との双方にふくまれている労働時間の割合におうじて金ではかられるということ、したがって、商品と金とのあいだの現実的な尺度は労働そのものであるということ、または、商品と金とが直接的交換取引によってたがいに交換価値として等置されるということ、を前提とする。この等置が実際どのようにおこなわれるかは、単純流通の領域では説明できない。しかし、金銀を生産する国々では、一定の労働時間が一定量の金銀に体化されるのにたいして、金銀を生産しない国々では、まわり道をして、いいかえれば国産品、、つまり国民的平均労働の一定部分を、鉱山をもつ国々の金銀に物質化された労働時間の一定量と、直接にか間接にか交換することによって、同じ結果が達成されるということだけはあきらかである。価値の尺度として役だつことができるのためには、金は、できるだけ変りうる価値でなければならない、なぜならば、金はただ労働時間の体化物としてのみ、ほかの商品の等価物となることができるのであるが、同一の労働時間は、現実の労働の生産諸力の変動につれて、同一の使用価値の異なる分量として実現されるものだからである。おのおのの商品の交換価値をほかの一商品で表示するばあいと同じように、すべての商品を金で評価するばあいにも、金は、あるあたえられた瞬間にあるあたえられた量の労働時間を表示しているということが前提されているにすぎない。金の価値変動については、まえに展開した交換価値の法則があてはまる。諸商品の交換価値が変らないままならば、それらの金価格の一般的騰貴は、ただ金の交換価値が下落するばあいにだけ可能である。金の交換価値が変らないままであるならば、金価格の一般的騰貴は、ただすべての商品の交換価値が騰貴するばあいにだけ可能である。商品価格の一般的下落のばあいは、その逆である。一オンスの金の価値が、その生産に必要な労働時間の変動のために、下るか上るかするなら、それはほかのすべての商品にたいして一様に下るか上るかし、したがってそれは、すべての商品にたいして、いぜんとしてあたえらえた大きさの労働時間を表示している。同じ交換価値は、このときには、以前よりもっと大きいかもっと小さい金量で評価されるわけだが、しかしそれらは、それぞれの価値の大きさに比例して評価され、したがっておたがいのあいだでは同じ価値比例がたもたれている。2:4:8 の比例は、1:2:4 あるいは 4:8:16 と同じままである。交換価値を評価する金の量は、金の価値が変動するにつれて変化するが、このことが価値の尺度としての金の機能をさまたげるものでないのは、ちょうど金の一五分の一しか価値のない銀が、価値の尺度としての機能から金をおいだすことをさまたげないのと同じである。労働時間が金と商品とのあいだの尺度であり、かつ金はすべての商品が金ではかられるかぎりにおいてのみ価値の尺度となるにすぎないのだから、貨幣が諸商品を通約できるものにしているようにみえるのは、流通過程の単なる仮象にほかならない(37)。むしろ対象化された労働時間としての諸商品が通約できるということこそ、金を貨幣にしているものにほかならないのである。
(37) アリストテレスは、たしかに商品の交換価値が商品価格の前提であるということをみぬいていた。「貨幣ができるまえに交換があったことはあきらかである。なぜなら、五枚の褥(しとね)が一軒の家と交換されようと、また褥五枚分の貨幣と交換されようと、なんの区別もないのだから。」他方、商品は価格においてはじめてたがいに交換価値の形態をもつところから、かれは、商品は貨幣によって通約できるものとなるとした。「すべてのものは価格をもたなければならない、なぜならば、そうしてこそともかく交換がおこなわれ、したがってまた社会も存立するであろうから。貨幣は、ものさしと同じように、実際にものを通約できるものにし、そしてそれらをたがいに等置する。というのは、交換なしには社会はないが、しかも同質性なしには交換はなく、通約性なしには同質性もありえないのだから。」かれは、貨幣ではかられるこれらのいろいろのものが、とうてい通約できない大きさのものであることをみとめないわけにはいかなかった。かれが求めたものは、交換価値としての諸商品の単位であるが、古代ギリシャ人であったかれは、これを見いだすことができなかった。かれは、そのままでは通約できないものを、実際の要求にとって必要なかぎり貨幣によって通約できるものとすることによって、この困難からぬけだしている。「たしかにこれほどさまざまなものが通約できるということは、ほんとうはありえないことだが、しかし実際の要求にこたえてそれがなされるのである。」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』、第五巻、第八章、ベッケリ編、オクスフォード、一八三七年《著作集、第九巻、九九頁以下》)
商品が交換過程にはいっていく現実の姿態は、その使用価値の姿態である。商品は、その脱却〔譲渡〕によってはじめて、現実的な一般的等価物となるはずのものである。商品の価格規定は、商品がただ観念のうえで一般的等価物に転化したものにすぎず、これからなお実現されなくてはならない、金との等置なのである。だが商品は、その価格においては、ただ観念のうえで金に、つまり表象されたにすぎない金に転化されているだけであって、商品の貨幣存在は、その現実の存在からまだ実際に分離されていないのだから、まだ金は、ただ観念的な貨幣に、ただ価値の尺度に転化されているにすぎない、そして一定量の金は、事実上まだなお、一定量の労働時間にたいするよび名として機能しているにすぎない。金が貨幣として結晶する形態規定性は、いつでも、商品がたがいに自分の交換価値を表示しあう一定の仕方にかかっている。
商品は、いまや二重の実在として、すなわち現実的には使用価値として、たがいに対立しあっている。商品はいまや、そのなかにふくまれている労働の二重形態をたがいに表示しあう。つまり、特定の現実の労働が商品の使用価値として現実に存在する一方、一般的抽象的労働時間は商品の価格のなかに表象された定在をうけとる。この場合の商品は、同一の価値実体の同質な、ただ量的にだけ異なる体化物なのである。
交換価値と価格との区別は、アダム・スミスが、労働は商品の真実価格であり、貨幣はその名目価格であるといっているように、一方ではただ名目的な区別としてあらわれるにすぎない。もし一オンスの金が三〇労働日の生産物であるとするならば、そのときには、一クォーターの小麦は三〇労働日で評価されるかわりに、こんどは一オンスの金で評価される。けれども他方では、この区別は、ただよび名のうえの区別だけのものではなく、そこにはむしろ現実の流通過程で商品をおびやかすあらゆる暴風雨が集中しているのである。一クォーターの小麦のなかには三〇労働日がふくまれているのだから、その小麦はいまさら労働時間で表示される必要はない。しかし金は小麦とはちがった商品であって、一クォーターの小麦が、その価格において予想されているごとく、現実に一オンスの金になるかどうかは、ただ流通のなかでしか立証できないことである。このことは、一クォーターの小麦が使用価値であることを立証するかしないか、それにふくまれている労働時間の量が、社会によって小麦一クォーターの生産のためにどうしても必要とされる労働時間の量であることを立証するかしないか、にかかっている。商品はそのものとしては交換価値であり、それは価格をもっている。交換価値と価格とのこの区別にあらわれていることは、商品にふくまれている特定の個人的労働は、脱却〔譲渡〕の過程をつうじてはじめて、その反対物である個性のない抽象的一般的な、しかもただこの形態においてのみ社会的な、労働として、つまり貨幣として、表示されなければならないということである。個人的労働がこのような表示をなしうるかいなかは、偶然であるように思われる。それだから、商品の交換価値は、価格としては、ただ観念のうえで商品とちがった実在をうるにすぎないし、商品にふくまれている労働の二重の定在*は、まだ単に異なった表現の仕方として実在するにすぎないのであるが、他方ではまたそれだから、一般的労働時間の体化物である金は、まだ表象された価値尺度としてのみ現実的な商品に対立しているにすぎないのである、だがそれにもかかわらず、交換価値の価格としての定在、または価値尺度としての金の定在のなかには、商品が山吹色の金にむかって脱却し〔譲渡され〕なければならないという必然性と、その商品が譲渡できないかもしれないという可能性とが、要するに生産物が商品であるということから生ずる、あるいは、私的個人の特定の労働が社会的効果をもつためにはその直接の反対物として、抽象的一般的労働として表示されなければならないということから生ずる、あらゆる矛盾が潜在的にふくまれているのである。だから、商品は欲するが貨幣は欲しないといった、すなわち私的交換にもとづく生産を、この生産の必然的な諸条件をぬきにして希望するといった類の空想家どもが、貨幣を、それが手にふれるような形態となったときにはじめて「破棄する」のではなくて、価値の尺度としてもやもやとしたまぼろしのような形態にあるときに、はやくもこれを「破棄する」のであれば、それはすじのとおったことである。目にみえない価値の尺度のなかには、硬貨がまちぶせているのである。
* 第一版では「二重の労働」となっていたが、自用本第二版によって訂正。 ――編集者。
金が価値の尺度となり、交換価値が価格となった過程を前提すれば、すべての商品は、その価格においては、まだ表象されているだけではあるが、さまざまな大きさの金量である。金という同一の物のこのようなさまざまな量として、すべての商品は、たがいに同列におかれ、くらべられ、はかられるのであるが、こうして商品を度量単位としての金の一定量に関連させる必然性が技術的に発展してくる、そして、この度量単位は、可除部分がさらにまたその可除部分に分割されることによって、度量標準にまで発展させられる(38)。だが金量そのものは、重さによってはかられる。そこでこの度量標準は、金属の一般的な重量尺度の形で、すでにできあがったものとして存在しており、したがってまたこの重量尺度は、すべての金属流通において、もともと価格の度量標準としても役だっているのである。商品は、もはや労働時間によってはかられるべき交換価値としてではなく、金ではかられる同じよび名の大きさとして、たがいに関連しあうのであり、それによって、金は価値の尺度から価格の度量標準に転化する。こうしてさまざまな金量としての商品価格同志のあいだにおこなわれる比較は、つぎのような表現に、つまりある考えられた金量に記入され、これを可除部分の度量標準として表示する表現に、結晶するのである。価値の尺度としての金と、価格の度量標準としての金は、まったくちがった形態規定性をもつが、この一方を他方と混同することによって、ひどくばかばかしい理論がうみだされている。金は、対象化された労働時間としては価値の尺度であり、一定の金属重量としては価格の度量標準である。金が価値の尺度となるのは、交換価値としての金が交換価値としての商品と関連するからであり、価格の度量標準にあっては、一定量の金は、ほかのいろいろな量の金*のために単位として役だつのである。金が価値尺度であるのは、金の価値が変りうるからであり、金が価格の度量標準であるのは、それが不変の重量単位として固定されるからである。あとのばあいには、すべて同じよび名の大きさの度量規定のばあいにそうであるように、度量諸関係が固定し、しかも確定していることが決定的に重要である。ある量の金を度量単位としてさだめ、そしてその可除部分をこの単位の補助単位としてさだめる必要は、あたかも、一定の、もちろん可変の価値をもった金量が、商品の交換価値にたいしてある固定した価値比例におかれるかのような考えを生みだしたが、この考えにおいては、金が価格の度量標準として発展するまえに、商品の交換価値がすでに価格、つまり金量に転化されていることがまったくみのがされていた。金価値がどう変動しようとも、いろいろの金量は、いつもたがいに同じ価値比例を表示する。かりに金の価値が一〇〇〇パーセント下落したとしても、一二オンスの金は、従来どおり一オンスの金より一二倍大きい価値をもつことであろう。そして価格においては、ただいろいろの金量どうしの比例だけが問題なのである。他方、一オンスの金は、その価値がさがってもあがっても、その重さをかえるものではないから、その可除部分の重さも同様にすこしも変化せず、こうして金は、その価値がどんなに変動しようとも、価格の固定した度量標準として、いつも同じ役目をはたすのである。
(38) イギリスでは、貨幣の度量単位としての一オンスの金が可除部分に分割されていないという奇妙な事情があるが、それはつぎのように説明される。「わが国の鋳貨制度は、がんらい銀だけの使用に適合するようにしかできていなかった。――だから一オンスの銀は、いつもある適当な数の鋳貨片に分割することができる。けれども金は、ずっとのちになってから銀だけに適合させられていた鋳貨制度のなかに採りいれられたので、一オンスの金は適当な数の鋳貨片に鋳造されることができないのである。」(マクラレン『通貨史』、一六頁、ロンドン、一八五八年。)
(39) 「貨幣はたえず価値では動揺しながらも、それがまるで価値を変えないままでいるばあいと同様に、よく価値の尺度でありうる。たとえばその価値が減少したとしよう。減少のまえには、一ギニーで三ブッシェルの小麦または六日の労働しか買えないであろう。どちらのばあいにも、小麦や労働の貨幣にたいする比率はあたえられているのだから、それらのおたがいの比率は確定することができる、いいかえれば、一ブッシェルの小麦が二日の労働にあたいすることをたしかめることができる。このことが価値をはかるということの意味するすべてであり、これは減少ののちにも、まえと同じようにたやすくできるのである。ある物が価値の尺度としてすぐれているかどうかは、そのもの自身の価値が変りうるということにはまったく関係がない。」(ベイリー『貨幣とその価値変動』、ロンドン、一八三七年、九、一〇頁。)
* 第一版では「の金」がなかった。自用本第二で訂正。 ――編集者。〔これはマルクス自身が第一版につけた正誤表ですでに訂正されている。〕
のちに金属流通の性質から説明するような歴史的過程は、貴金属が価格の度量標準として機能するさいにその重さがたえず変動し減少しても、これにたいして同じ重量名がそのままつかわれるという結果をもたらした。たとえば、はじめの重さにくらべて、イングランドのポンドは三分の一以下を、スペインのマラヴェディは一〇〇〇分の一以下を、ポルトガルのレーはさらにずっと小さい割合を、それぞれそうよんでいるにすぎない。こうして金属重量の貨幣名は、その一般的な重量名から歴史的に分離する(40)。度量単位、その可除部分およびそのよび名の規定は、一方では純粋に習慣上のものでありながら、他方では流通のなかで一般性と必然性という性格をもたなければならないから、それらは法律的に規定されなくてはならなかった。だから純粋に形式的な運用は政府の仕事になった(41)。貨幣の材料として役だった一定の金属は、社会的にあたえられていた。国がちがうにしたがって、価格の法定の度量標準もとうぜんちがっている。たとえばイギリスでは、金属重量としてのオンスは、ペニーウェイト、グレイン、およびカラット・トロイにわけられるが、貨幣の度量単位としての金一オンスは三ソヴリン八分の三に、1ソヴリンは二〇シリング、一シリングは一二ペンスにわけられている。そこで二二カラットの金一〇〇ポンド(一、二〇〇オンス)は、四、六七二ソヴリン一〇シリングにひとしい。しかし国境が消えさる世界市場では、貨幣尺度のこうした国民的性格はふたたび消えさり、金属の一般的な重量尺度にその座をゆずるのである。
(40) 「こんにちではそのよび名がただ名目上のものであるような貨幣の種類は、どの国民のもとでももっとも古いものであり、それらはすべてある時期には現実的なものであった。」(この後半は、このように広くいうのは正しくない)「そしてそれらのものが現実的であったからこそ、ひとびとはそれで計算をしたのである。」(ガリアニ『貨幣について』、前掲書、一五三頁。)
(41) ロマンティストであるA・ミュラーはいう。「われわれの意見ではすべて独立の主権者は、金属貨幣をさだめ、それに社会的な名目価値、等級、単位、および称号をあたえる権利をもっている。」(A・H・ミュラー『政治学要綱』、ベルリン、一八〇九年、第二巻、二八八頁〔カウツキー版では二七六頁となっている〕。)称号に関するかぎりでは、この宮廷顧問官殿のおっしゃるとおりであるが、ただかれは、その内容をわすれている。かれの「意見」がどれほど混乱していたかは、たとえばつぎの文章にもあらわれている。「鋳貨価格の正しい規定がどれだけ大切かということは、とくにイギリスのように、政府が崇高な寛大さをもって無料で鋳造し(ミュラー氏はイギリスの役人がポケットから鋳造費をだすと信じているらしい)、すこしも鋳造手数料をとらない国では。だれでも知っている、……だからもし政府が、金の鋳貨価格をその市場価格よりもとくに高くさだめるならば、たとえば政府が一オンスの金にいまのように三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一を支払うかわりに、一オンスの金の鋳貨価格を三ポンド一七シリングとさだめるならば、すべての貨幣は造幣局に流入して、そこでえられた銀は、市場で価格の安い金ととりかえられ、こうして金はあらたに造幣局にもちこまれることになって、鋳貨制度は無秩序におちいるであろう。」(同書、二八〇、二八一頁。)イギリスの鋳貨の秩序を維持しようとして、ミュラーは自分を「無秩序」におとしいれた。シリングとかペンスとかは単なるよび名であり、一オンスの金の一定部分の、銀または銅表章によって表現されたよび名であるにすぎないのに、かれは、一オンスの金が金、銀、および銅で評価されていると想像し、こうしてイギリス人が三重の standard of value(本位)をもっていることを祝福しているのである。金とならんで銀を貨幣尺度として用いることは、なるほど正式には一八一六年、ジョージ三世の治世第五六年に法令第六八号によってはじめて廃止されたことになっている。だが実際には、すでに一七三四年、ジョージ二世の治世第一四年に〔おそらくジョージ三世の治世第一四年、つまり一七七四年のまちがいであろう〕法令第四二号によって法律上廃止されているし、実際生活ではそれよりずっとまえになくなっていたのである。A・ミュラーが経済学の、いわゆる高級な理解にとくにたっすることができたわけは二つあった。一つは経済学的諸事実にたいするかれの広汎な無知、もう一つは哲学にたいするかれの単なるディレッタント的なおぼれかたである。
したがって一商品の価格、あるいはその商品が観念のうえで転化されている金量は、いまや金の度量標準の貨幣名で表現される。そこでイギリスでは、一クォーターの小麦が金一オンスにひとしいというかわりに、三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一にひとしいという。こうしてすべての価格は同じよび名で表現される。商品がその交換価値にあたえる固有の形態は、貨幣名に転化されており、その貨幣名によって商品は、たがいに自分がどれだけに値するかを語りあう。貨幣のほうでは、計算貨幣となるのである(42)。
(42) 「ひとがアナカルシスにむかって、ヘラスの人(ギリシャ人のこと)はなんのために貨幣をもちいるのか、と問うたとき、かれは答えていった。『計算のために』と。」(アテナイオス『学者の晩餐』、第四部、第四九節、シュヴァイクホイザー版、一八〇二年、第二巻《一二〇頁》。)
頭のなかや、紙のうえや、言葉のうえでの商品の計算貨幣への転化は、なんらかの種類の富が交換価値の視点のもとに固定されれば、いつでもすぐおこなわれる(43)。この転化のためには金という材料が必要であるが、それはただ表象された金として必要であるにすぎない。一、〇〇〇梱の綿花の価値を一定数のオンスの金で評価し、そしてこの一定数の金のオンスそのものをふたたびオンスの計算名、すなわちポンド、シリング、ペンスで表現するためには、現実の金はすこしも必要でない。こうして、一八四五年のサー・ロバート・ピールの銀行条例以前のスコットランドでは、一オンスの金が価格の法定尺度として役だっており、しかもそれがイングランドの計算度量標準と同じに三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一で表現されていたにもかかわらず、実際には一オンスの金も流通してはいなかったのである。またたとえば、シベリアと中国とのあいだの商品交換では、実際の取引は単なる〔物々〕交換取引にすぎないのに、銀が価格の尺度として役だっている。だから計算貨幣としての貨幣にとっては、その度量単位そのものなりその小部分なりが、実際に鋳造されているかどうかはどうでもよいことなのである。イギリスでは、ウィリアム征服王の時代には、当時一ポンドの純銀であった一ポンド・スターリングと、一ポンドの二〇分の一であったシリングとは、ただ計算貨幣として実在しているにすぎなかったが、他方これにたいして、二四〇分の一ポンドの銀であるペニーは、実在する最大の銀鋳貨であった。反対に今日のイギリスでは、シリングやペニーは一オンスの金の一定部分にたいする法定の計算名であるが、それらのものはすこしも実在してはいない。現実に実在している貨幣がまったく別の度量標準にしたがって鋳造されていながら、計算貨幣としての貨幣が一般に観念のうえにおいてのみ実在していることもありうる。たとえば北アメリカにおける多くのイギリスの植民地では、流通している貨幣は、一八世紀にはいってからもずっとスペインやポルトガルの鋳貨からなっていたが、計算貨幣はどこでもイギリスにおけるものと同じであった(44)。
(43) アダム・スミスの初期のフランス語訳者の一人であるG・ガルニエは、計算貨幣の使用と現実貨幣の使用とのあいだに割合を確定しようという奇妙な思いつきをもっていた。この割合は一〇対一である。(G・ガルニエ『古代以来の貨幣の歴史……』、第一巻、七八頁。)
(44) 一七二三年のメアリーランドの条例は、煙草を法定の貨幣としたが、その価値はイギリスの金貨に約元された。つまり煙草1ポンドにつき一ペニーであった。この条例はローマの民族法を思いださせるが、この法律では、逆に一定の貨幣量がふたたび牡牛や牝牛に等置されている。このばあいには、金でも銀でもなくて、牡牛や牝牛が計算貨幣の実際の材料だったのである。
価格の度量標準としての金は、商品価格と同じ計算名をもってあらわれるから、したがって、たとえば一オンスの金は、一トンの鉄と同様に、三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一として表現されるから、金のこの計算名は金の鋳貨価格とよばれてきた。そこであたかも金がそれ自体の材料で評価され、またほかのどんな商品ともちがって国家によってある固定した価格をあたえられるかのようなおどろくべき考えがでてきた。一定の重さの金にたいして計算名を固定することが、この重さの金にたいして計算名を固定することだと思いちがいされたのである(45)。金は、それが価格規定の要素として、したがってまた計算貨幣としての役割をはたすばあいには、単になんらかの固定した価格を持たないばかりではなく、総じて価格というものをまったくもたない。金がある価格をもつためには、つまり特殊な一商品によって自分自身を一般的等価物として表現するためには、この金以外の一商品は、流通過程で金と同様な排他的役割を演じなければならないであろう。けれどもほかのすべての商品を排除する二つの商品は、たがいに排除しあう。だから、銀と金とが法定の貨幣として、つまり価値尺度としてならんであるところでは、それらをひとつの同じ物質としてとりあつかおうとするむだなこころみがたえずなされてきた。同じ労働時間が同じ割合の銀と金とにつねにかわることなく対象化されていると仮定することは、実は、銀と金とは同じ物質であって、価値のより少ない金属である銀は、金のつねにかわることのない一部分であると仮定することである。エドワード三世の治世からジョージ二世の時代までのイギリスの貨幣制度の歴史は、金銀の比価の法律的な確定とそれらの実際の価値変動との衝突からおこった一連のたえまない混乱のうちに経過した。あるときは金があまりに高く評価され、あるときは銀があまりに高く評価された。あまりに低く評価された金属は流通からひきあげられ、いつぶされ、輸出された。そこで両金属の比価がふたたび法律によって変更されたが、そのあたらしい名目価値は、やがて実際の比価とのあいだにまえと同じような衝突をはじめた。現代になってからは、インドシナの銀需要から生じた銀にたいする金のごくわずかな一時的下落が、フランスで右と同じ現象を、つまり銀の流出と金による銀の流通過程からの駆逐とをきわめて大規模に生ぜしめた、一八五五年、一八五六年、一八五七年のあいだに、フランスにおける金の輸入超過は、四、一五八万ポンド・スターリングにたっしたが、同時に銀の輸出超過は、一、四七〇万四、〇〇〇ポンド・スターリングにおよんだ。実際フランスのように、二つの金属が法定の価値尺度であり、支払われるときには両方とも受けとらなければならないが、しかも各人は勝手にどちらでも支払いうるような国々では、価値が騰貴した金属は打歩(うちぶ)を生じ、ほかのあらゆる商品と同じように、過大に評価された金属でその価値をはかるのであって、この過大に評価された金属だけが価値尺度として役だつことになる。この領域でのいっさいの歴史的経過は、要約すれば、法律によって二つの商品が価値尺度の機能をいとなむばあいには、事実上はつねにただ一つの商品だけが価値尺度としての地位を主張するにすぎない、ということに帰着する(46)。
(45) だからたとえばデイヴィッド・アーカート氏の『日常用語集』にはこう書いてある。「金の価値はそれ自身によってはかられるべきである。どうしてあるものがほかのもので自分の価値をはかることができるのか? 金の価値は、金そのものの重さによって、この重さにあたえられた仮りのよび名のもとに、確定されるべきである――しかも一オンスは何ポンド何分の一に値するとされるべきである。これは尺度を仮りにつくるということであって、度量標準の確定ではない。」《ロンドン、一八五六年、一〇四ページ以下》――
(46) 「商業の尺度としての貨幣は、ほかのすべての尺度と同じように、できるだけ一定不変にたもたれるべきものである。もし諸君の貨幣が二つの金属からなり、その比価がたえず変動するならば、このことは不可能である。」(ジョン・ロック『利子の引下げについての若干の考察……』、一六九一年。かれの『著作集』、第七版、ロンドン、一七六八年、第二巻、六五頁。)
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商品は、価格としては、ただ観念のうえでだけ金に転化され、したがって金はただ観念のうえでだけ貨幣に転化されるという事情は、貨幣の観念的度量単位説がうまれる動機となった、価格規定にさいしては、単に表象された金か銀が、つまりただ計算貨幣としての金や銀が機能するだけだから、ポンド、シリング、ペンス、ターレル、フランなどのよび名は、金か銀の重量部分、またはなんらかの仕方で対象化された労働につけられたものではなく、むしろ観念のうえでの価値諸原子に名づけられたものである、という主張がなされた。そこで、たとえば一オンスの銀の価値が騰貴したとすれば、一オンスの銀はより多くのこういう原子をふくむことになり、そのためにより多くのシリングとして計算され、鋳造されなくてはならない、というのである。この学説は最近のイギリスの商業恐慌のあいだにふたたび有力となり、議会においてさえも一八五八年の銀行条例委員会の報告にそえられた二つの特別報告のうちに代表されるまでになったが、それはすでに一七世紀末からはじまっているのである。ウィリアム三世即位当時には、銀一オンスのイギリスの鋳貨価格は五シリング二ペンスであった。すなわち六二分の一オンスの銀が一ペニーとよばれ、このペニーの一二個がシリングとよばれていた。この度量標準によって、たとえば重さ六オンスの銀がシリングという名の三一個の小片に鋳造されていた。ところが、一オンスの銀の市場価格がその鋳貨価格以上に騰貴し、五シリング二ペンスから六シリング三ペンスを支払わなければならなくなったのである。鋳貨価格とは一オンスの銀の可除部分にたいする単なる計算名にすぎないのに、どうして一オンスの銀の市場価格がその鋳貨価格以上に騰貴することができたのであろうか? このなぞは簡単にとける。当時流通していた五六〇万ポンドの銀貨のうち、四百万ポンドは摩滅し、けずられ、変造されていた。ある検査の結果、二二万オンスの重さをもっているはずの五七、二〇〇ポンドの銀が、わずかに一四一、〇〇〇オンスの重さしかないことがあきらかになった。鋳貨はつねに同じ度量標準にしたがって鋳造されていたが、現実に流通している軽いシリングは、その名目がおもてむきしめすものよりもいっそう小さい一オンスの可除部分をあらわしていた。その結果、市場では、一オンスの銀地金にたいしては、この小さくなったシリング貨のいっそう大きな量が支払われなくてはならなかった。こうして生じた混乱の結果、一般的改鋳がきめられたとき、蔵相ラウンズは、一オンスの銀の価値が騰貴したのだから、それはこれからは、それまでのように五シリング二ペンスにではなく、六シリング三ペンスに鋳造されなければならない、と主張した。だから事実上、かれは、一オンスの価値が騰貴したからその可除部分の価値は下落したと主張したわけである。しかしかれのこのまちがった理論は、ひとつの正しい実際上の目的を美化したものにほかならなかった。国債は軽いシリングで契約されたものなのに、重いシリングで償還されなくてはならないのであろうか。名目上は五オンスでも実際には四オンスしか受けとっていなかったばあい、四オンスの銀をかえせというかわりに、逆にかれは、名目上では五オンスをかえせ、だが金属実質上はそれを四オンスに減少し、いままで五分の四シリングとよばれていたものを一シリングとよぶことにせよ、といったのである。だからラウンズは理論のうえでは計算名を固執しながら、事実上は金属実質を固守したのである。これに反して、ひたすら計算名に固執し、そのため二五パーセントないし三〇パーセントも軽いシリングを重さの完全なシリングと同一なのだと言明したかれの反対論者は、金属実質だけに固執することを主張したことになる。あらゆる形態の新しいブルジョアジーを代表したジョン・ロック、すなわち労働者階級と貧民にたいしては工業家を、旧式の高利貸にたいしては商業家を、国家債務の負担者〔国民のこと〕にたいしては金融貴族を代表し、かつまたその著作のひとつではブルジョア的悟性をもって人間の正常な悟性であるという証明までをしたかれも、ラウンズの挑戦におうじた。ジョン・ロックが勝って、1ギニーにつき一〇ないし一四シリングで借りられた貨幣が、1ギニーにつき二〇シリングでかえされた(47)。サー・ジェームズ・ステュアートは、この取引全体を皮肉って、つぎのように要約している。「政府は租税で、債権者は資本と利子とで、大いにもうけた、そしてひとりごまかされた国民は、かれらの本位(かれら自身の価値の度量標準)が引きさげられなかったので、大よろこびであった(48)。」と。ステュアートは、商業がさらに発展すると国民はさらにぬけめがなくなるだろうと考えていた。けれどもかれはまちがっていた。およそ一二〇年ののちにも同じ Quidproquo《とりちがえ》がくりかえされたのである。
(47) ロックはとくにつぎのようにいっている。「まえに二分の一クラウンとよばれているものを一クラウンとよぶことにしよう。価値はまえのとおり金属実質によって規定されている。もし諸君が鋳貨の価値を減らさずにその銀重量の二〇分の一をとりさることができるならば、同様にその銀重量の二〇分の一九をとりさることができるはずである。もしもこの理論にしたがうとすれば、1ファージング〔四分の一ペニー〕は、それをクラウンとなづけさえすれば、その六〇倍の銀をふくむ一クラウン貨が買うのとおなじだけの香料や絹やそのほかの商品を買うにちがいないということになるだろう。諸君ができることは、ただ少ない量の銀により多い量の刻印とよび名をあたえることだけである。だが債務を支払ったり商品を買ったりするのは、銀であってよび名ではない。もし諸君のいわゆる貨幣価値の引きあげが、銀片の可除部分に勝手なよび名をあたえることにすぎないならば、たとえば八分の一オンスの銀をペニーとよぶことにすぎないならば、諸君は事実上、貨幣の価値を勝手な高さに定めることができるわけである。」と。これと同時にロックは、ラウンズに答えてつぎのようにいっている。市場価格が鋳貨価格以上に騰貴することは「銀価値の騰貴からではなくて、銀鋳貨の軽くなったことから」おこるのである。けずられ、変造された七七シリングは、完全な重さの六二シリングよりびた一文も多くはない、と。最後にかれは、正当にも、流通銀量減損は度外視するとしても、イギリスでは銀地金の輸出はゆるされているが、銀鋳貨の輸出は禁止されているのだから、銀地金の市場価格は、ある程度までその鋳貨価格をこえて騰貴することができることを強調した。(『若干の考察……』、五四〜一一六頁の諸所を参照。)ロックは国債問題の焦点にふれることをひどく警戒していたが、それと同様に、微妙な経済問題にたちいることを用心ぶかくさけていた。その問題というのは、為替相場も銀地金の銀鋳貨にたいする比率も、ともに、流通貨幣がその実際の銀量減損とははなはだしく異なった割合で減価した事実を証明していた、ということである。この問題には、流通手段の節で、一般的形態であらためてたちかえることにしよう。〔本訳書一五四頁〕。ニコラス・バーボンは『新貨幣をより軽く鋳造することに関する一論、ロック氏の「考察」に答えて』、ロンドン、一六九六年、のなかで、ロックを窮地にさそいこもうとしたがむだであった。
(48) ステュアート『経済学の諸原理にかんする研究』、ダブリン、一七七〇年、第二巻、一五四頁。
イギリス哲学における神秘的観念論の代表者であるバークレー司教が、貨幣の観念的度量単位説にたいして、実際家たる「大蔵大臣」がないがしろにした理論的表現をあたえたのは当然のことであった。かれは問う。「リーヴル、ポンド、クラウン等のよび名は、単なる比率のよび名」(つまり抽象的価値そのものの比率)「だとみるべきではないか?」「金、銀、または紙幣は、それ」(価値の比率)「を計算し、記録し、管理するための単なる切符か徴標以上のものだろうか? そして貨幣は事実上こういう力を移転し記録するための徴標か標章以外のなにものであろうか? またこれらの徴標がどんな材料でできているかということがそれほど重大なことなのだろうか(49)?」と。ここには、一方では価値の尺度と価格の度量標準との混同がみられ、他方では尺度としての金または銀と、流通手段としての金または銀との混同がみられる。貴金属は流通行為のなかでは徴標でおきかえられることができるので、バークレーはこれらの徴標そのものはなにも表示しない、つまり抽象的価値概念を表示すると結論したのであった。
(49) 『質問者』《ロンドン、一七五〇年、三、四頁》、貨幣についての質問はさらに機知に富んでいる。なかんずくバークレーが、北アメリカ植民地の発展こそ「金銀があらゆる階級の俗物どもが想像しているほど国民の富にとって必要なものではないことを、白日のようにあきらかにしている。」とのべている点は、正しい。
貨幣の観念的度量単位説は、サー・ジェームズ・ステュアートにおいて、かれの後継者ら――かれを知らないのだから無意識的後継者ともいうべきだ――が、ひとつの新しい言いまわしも、ひとつの新しい例もみいだせなかったほど、完全に展開されている。かれはいう。「計算貨幣はひとしい部分からなっている勝手にさだめられた度量標準で、売ることのできるものの相対的価値をはかるために発明されたものにほかならない。計算貨幣は、価格である(50)鋳貨とはまったく異なるものであって、たとえすべての商品にたいして比例的等価物であるような実体がこの世になくても実在しうるのである。計算貨幣は、度や分や秒などが角度にたいし、あるいは縮尺が地図などにたいしてはたすのと同じ役目を、ものの価値にたいしてはたすのである。すべてこれらの発明では、いつも同じ名称が単位として採用される。すべてこのようなしくみの有用性が単に割合の表示にかぎられているのと同時に、貨幣単位の有用性もまたそうである。だから貨幣単位は、価値のいかなる部分にたいしても一定不変の割合をたもちうるものではけっしてない。つまりそれは、金や銀、またはそのほかのなんらかの商品の一定量に固定できるものではない。しかしひとたび単位があたえられると、これを何倍かしてゆけばどんな大きい価値にもたっすることができる、商品の価値は、それに影響をおよぼす諸事情の一般的なつながりと人間の気まぐれとによって左右されるものであるから、その価値は、単に商品同志の関連のなかだけで変動するものとして考察されなくてはならない。そこで、この割合の変動を一般的な一定不変の度量標準によってたしかめることを、さまたげたり混乱させたりするものは、何でも商業のうえに有害な作用をおよぼさないわけにはいかない。貨幣*は、ひとしい諸部分からなりたつ単なる観念的度量標準にすぎない。もしその一部分の価値の度量単位は何でなければならないかと問われるならば、わたくしは、ほかの質問でこれに答えよう。一度、一分、一秒の標準的な大きさは何であるか? と。それらはすこしも標準的な大きさをもたない。だがその一部分が決定されるやいなや、度量標準の本性によって、のこり全体がそれに比例してきまってゆくはずである。こういう観念的貨幣の実例としては、アムステルダムの銀行貨幣とアフリカ海岸のアンゴラ貨幣とがある(51)。」と。
(50) 価格とはここでは一七世紀のイギリス経済学の著述家たちのあいだで用いられたのと同様に、現実の等価物のことである。
(51) ステュアート『経済学の諸原理にかんする研究』、第二巻、一五四、二九九頁。
* 第一版では「金」となっている。自用本第二版により訂正。 ――編集者。
ステュアートは、流通のなかで価格の度量標準としてまた計算貨幣としてあらわれる貨幣の現象に、もっぱら執着している。もしさまざまの商品が、それぞれ一五シリング、二〇シリング、三六シリングというように価格表に記載されているのならば、それらの価値の大きさをくらべるためには、銀の実質もシリングというよび名も、わたくしには実際どうでもよいことである。ここでは一五、二〇、三六という数的比率がすべてをかたっており、一という数字が唯一の度量単位になっている。割合の純粋に抽象的な表現は、一般に抽象的な数の割合そのもの以外の何ものでもない。だから首尾一貫させるためには、ステュアートは、単に金銀ばかりでなく、その法定の洗礼名をも捨てさらなければならなかったのである。かれは、価値の尺度が価格の度量標準に転化することを理解していないので、自然にまた、度量単位として役だつ一定量の金は、尺度として、ほかの金量に関連するのではなくて、価値そのものに関連するものだと信じている。諸商品は、その交換価値の価格への転化をつうじて、同じよび名の大きさとしてあらわれるところから、かれは、それらを同じよび名のものとしている尺度の質を否定する、しかもさまざまの金量をくらべるさいに度量単位として役だつ金量の大きさは、慣習によるところから、かれは、この大きさが一般に確定されなければならないものだということを否定するのである。たしかにかれは、円周の三六〇分の一を度とよぶかわりに、一八〇分の一を度とよぶこともできるであろう。そしてそのばあいには、直角は九〇度ではなく四五度ではかられ、またそれにおうじて鋭角も鈍角もはかられるであろう。だがそれにもかかわらず、角度は依然として、まず第一に、質的に規定された数学上の図形、つまり円であり、また第二に、量的に規定された円弧である。ステュアートがあげた経済学上の実例についていえば、その一方の例はかれ自身を論駁するものであり、他方の例はなにものをも証明していない。アムステルダムの銀行貨幣は、実は、スペインのドゥブロン貨幣の計算名にすぎなかった。しかもこのドゥブロン貨幣は、銀行の地下室で惰眠をむさぼっていたためによく太って完全な重さをたもっていたのにたいして、営々として働いていた流通通貨は、外界とのはげしい摩擦のためにやせおとろえていたのである。しかしアフリカの観念論者〔アンゴラの貨幣のこと〕については、批判的な紀行作家がそれについてくわしいことを報告するまでは、われわれはそれをそのままにしておかざるをえない(52)。ステュアートの意味での観念的貨幣に近いものとして、フランス〔革命時〕のアッシニア紙幣、すなわち「国民財産、一〇〇フランのアッシニア」をあげることができよう。なるほどこのばあいには、アッシニアが表示するはずの使用価値、つまり没収された土地はくわしく示されていたが、しかし度量単位の量的規定は忘れられており、したがって「フラン」というのは無意味な言葉であった。すなわち、一アッシニア・フランがどれだけの土地を表示したかは、おおやけの競売の結果にかかっていたのである。けれども実際生活では、アッシニア・フランは銀貨に対する価値表章として流通し、それゆえにその減価は、この銀の度量標準によってはかられたのである。
(52) 最近の商業恐慌のさいに、イギリスでは、ある側面からこのアフリカの観念的貨幣が熱心に称揚された。しかしこのときには、その貨幣のある場所が、海岸からバーバリ〔アフリカ北部のモロッコ、アルジェリア、チュニジア、トリポリ地方の総称〕の中心にうつされていた。バーバリ人が商業恐慌や工業恐慌にわずらわされないのは、かれらの貨幣の観念的度量単位のためだ、と説明されている。しかし商業と工業が商業恐慌と工業恐慌の必須条件だ、といったほうが、さらにいっそう簡単ではないか?
イングランド銀行の兌換(だかん)停止の時期には、たくさんの戦況報告がだされたが、貨幣理論にくらべればまだすくないくらいである。銀行券が減価したことと、金の市場価格がその鋳貨価格をこえて騰貴したことは、二三の〔イングランド〕銀行擁護者のあいだに、またもや観念的貨幣尺度説をよびおこした。キャスルレイ卿は、貨幣の度量単位を "a sense of value in reference to currency as commodities"(商品とくらべての通貨に関する価値の感覚)と特徴づけて、この混乱した見解にふさわしい古典的に混乱した表現を発見した。パリの講和後数年たって、兌換の再開ができるような事情になったとき、ウィリアム三世の治世にラウンズが提起したのと同じ問題が、ほとんどそのままの形でもちあがった。莫大な国債と二〇年以上にわたって累積された大量の私債、固定債務等々は、減価した銀行券で契約されていた。それらは、銀行券で、つまりその四、六七二ポンド一〇シリングが名目的にではなく実質的に二二カラットの金一〇〇ポンドを表示している銀行券で、返済されるべきであろうか? バーミンガムの銀行家トマス・アトウッドがラウンズの再来として登場した。〔かれによれば〕名目上は、債権者は、名目上契約したのと同じだけのシリングをかえしてもらうのが当然である。だが、むかしの鋳貨率で、たとえば七八分の一オンスの金が一シリングと呼ばれていたとすれば、いまやたとえば九〇分の一オンスが一シリングと命名されるべきである、と。アトウッドの追随者はバーミンガム学派の "little shillingmen"(小シリング屋)として知られている。一八一九年にはじまった観念的貨幣尺度についての論争は、一八四五年になってもまだ、サー・ロバート・ピールとアトウッドとのあいだにつづけられたが、アトウッド自身の学識のほどは、尺度としての貨幣の機能に関するかぎり、つぎの引用文のなかにあますところなく総括されている。「サー・ロバート・ピールは、バーミンガム商業会議所との論争で、諸君のポンド券は何を代表するのだろうか? 一ポンドとはなんであるか? と問うている。……そうならば逆に現在の価値の度量単位は何と解すべきであろうか? ……三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一、それは一オンスの金を意味しているのか? それともその価値を意味しているのか? オンスそのものならば、どうして物をそのよび名でよばないのか、そしてポンド、シリング、ペニーというかわりに、なぜオンス、ペニー・ウェイト、グレインといわないのか? ただ、そうすればわれわれは、直接的交換取引の制度に逆もどりすることになろう。……それともそれは価値を意味するのだろうか? もし一オンス=三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一であるならば、それが時によって、あるいは五ポンド四シリングに、あるいは三ポンド一七シリング九ペンスにあたいするのはなぜであるか? ……ポンド(£)という表現は、価値に関連するものではあるが、金の不変の重量部分に固定された価値に関連をもつものではない。ポンドとはひとつの観念的な単位である。……労働は、いろいろの生産費が分解、帰着する実体であって、それは鉄にも金にもその相対的価値をわけあたえる。だから、ひとりの人間の一日または一週の労働をしめすために、どんな特定の計算名がもちいられるにしても、こういうよび名は生産された商品の価値を表現するのである(53)。」
(53) 『通貨問題、ジェミナイ書簡集』、ロンドン、一八四四年、二六六〜二七二頁の抄録。
この最後の言葉においては、観念的貨幣尺度のもやもやした表象は消えうせ、その本来の思想内容が露呈されている。すなわち、金の計算名であるポンド、シリング等々は、一定量の労働時間にたいするよび名だというのである。もしそうならば、労働時間は価値の実体であり、内在的尺度であるのだから、これらのよび名は、実は、価値比率そのものを表示することになるであろう。いいかえれば、労働時間が貨幣の真の度量単位だと主張されることになるのである。以上をもってわれわれは、バーミンガム学派からたち去るのであるが、なおついでに、観念的貨幣尺度説が銀行券の兌換性または不換性に関する論争で、あらたな重要性をえたことに注意しておこう。紙幣がその名称を金や銀からえているとすれば、銀行券の兌換性、つまりそれが金や銀と交換されうるということは、法律上の規定がどうあろうとも依然として経済法則である。だからプロシアの紙幣ターレルは、たとえ法律上は不換紙幣であろうとも、それが日常の取引で銀ターレル以下でしか通用しなくなり、したがって実際に兌換性を失うようなばあいには、たちまち減価するであろう。そこでイギリスの不換紙幣の徹底した支持者たちは、観念的貨幣尺度へとにげこんだのである。もしも貨幣の計算名であるポンド、シリング等々は、ある商品がほかの商品との交換で、あるいは多くあるいは少なく吸収したりあたえたりする一定量の価値原子にたいするよび名であるというのならば、たとえばイギリスの五ポンド券は、鉄や綿花となんの関係もないように、金ともなんの関係もないわけである。五ポンド券の称号は、この券を一定量の金もしくは何かほかの商品と理論のうえで等置することをやめてしまっているというのだから、その兌換性の要求、つまりそれをある特殊のものの一定量と実際に等置しようとする要求は、その概念そのものによって排除されることになるであろう。
労働時間が貨幣の直接の度量単位だという学説は、ジョン・グレイによってはじめて体系的に展開された(54)。かれは、ひとつの国立中央銀行に、その支店をつうじて、さまざまな商品の生産に用いられる労働時間を確認させようとするのである。生産者は、商品とひきかえに公式の価値証明書、つまりかれの商品がふくんでいるだけの労働時間にたいする受領証をもらう(55)。そして一労働週、一労働日、一労働時間等々のこれらの銀行券は、同時に、銀行の倉庫に貯蔵されているほかのあらゆる商品での等価物にたいする指図証券として役だつ(56)。これがその根本原理であって、それは細目にわたって、しかもすべて現存のイギリスの制度にもとづいて、注意ぶかく論ぜられている。グレイはいう。こういう体制のもとでは、「貨幣でものを買うことがいま容易であるのと同様に、貨幣をえるためにものを売ることがいつでも容易になるであろう。生産は需要の、一様で汲めどもつきない源泉となるであろう(57)。」貴金属は、ほかの商品にたいするその「特権」をうしない、「バターやたまごや布地やキャリコとならんで、それにふさわしい地位を市場でしめ、その価値は、もはや、ダイヤモンドの価値以上にはわれわれの興味をひかないであろう(58)。」「われわれは、想像上の価値の尺度である金に固執して、それで国の生産力を束縛すべきであろうか、それとも労働という自然な価値の尺度に転換して、国の生産力を解放すべきであろうか(59)?」と。
(54) ジョン・グレイ『社会体制論、交換の原理についての一論』、エディンバラ、一八三一年。同じ著者の『貨幣の性質および用途についての講義』、エディンバラ、一八四八年、を参照。二月革命ののちに、グレイはフランスの臨時政府にひとつの意見書をおくり、そのなかで、フランスに必要なものは "organisation of labour"(労働の組織)ではなくて、 "organisation of exchange"(交換の組織)であり、その計画は、かれが案出した貨幣制度のなかに完成されて存在している、と同政府に教えている。正直者のジョンは、『社会体制論』がでて一六年のちに、同じ発見の特許権が発明の才ゆたかなプルードンによってまきあげられようとは予想もしなかったのである。
(55) グレイ『社会体制論……』、六三頁。「貨幣は単なる受取証、つまりそれをもっているものが厳存する国民の富にたいして(to the national stock of wealth)一定の価値を寄与したということ、もしくは、それに寄与した誰かからその価値にたいする権利を獲得したということの証拠でなければならない。」
(56) 「生産物はあらかじめ評価価値をつけてこれを銀行にあずけさせ、必要なときにはいつでもふたたびこれをひきださせるが、ただそのばあいに、なんらかの種類の財産をこの提案された国立銀行にあずけた人は、自分があずけたのと同じものをひきだす義務はなくて、価値のひとしいものでさえあれば、その銀行が何を貯蔵していようと、そこからひきだしてよい、という条件がすべてのものの合意によってさだめられている。」(グレイ『社会体制論……』、六八《六七》頁。)
(57) 同書、一六頁。
(58) グレイ『貨幣……についての講義』、一八二《一八三》頁。
(59) 同書、一六頁。
労働時間が価値の内在的尺度であるのに、なぜそれとならんでもうひとつの外在的尺度があるのか? なぜ交換価値は価格に発展するのか? なぜすべての商品がその価値をひとつの排他的な商品で評価し、こうしてその商品が交換価値の恰好な定在に、すなわち貨幣に転化されるのか? これこそグレイのとかなくてはならなかった問題であった。それをとくかわりに、かれは、商品が社会的労働の生産物として直接たがいに関連できるものと想像する。けれども商品は、ただあるがままのものとしてたがいに関連できるにすぎない。商品は、直接には、個々別々の独立した私的労働の生産物であって、この私的労働は、私的交換の過程において脱却する〔譲渡される〕ことによって、一般的社会的労働であるという実を示さなければならない、いいかえれば商品生産を基礎とする労働は、個人的労働の全面的な脱却〔譲渡〕によってはじめて社会的労働となるのである。しかしグレイは、商品にふくまれている労働時間をそのまま社会的なものだ、と想定するのだから、かれは、それを共同体的な労働時間、あるいは直接に結合された個々人の労働時間だと想定しているわけである。そうだとすればたしかに、金や銀のような特殊な一商品がほかの商品に一般的労働の化身として対立することはできないし、交換価値は価格とはならないであろう。しかし使用価値もまた交換価値にならず、生産物は商品とならず、こうしてブルジョア的生産の基礎が止揚されてしまうことになるであろう。だがグレイの考えていたことは、けっしてこうではない。〔かれは〕生産物は商品として生産されなければならないが、商品として交換されてはならない、というのである。グレイはこの敬虔な願望の達成を国立銀行の手にまかせる。社会は、一方では、銀行の形で、個人を私的交換の諸条件から独立させ、しかも他方では、同じ個人に私的交換の基礎のうえで生産をつづけさせる。グレイは単に商品交換からうまれた貨幣を「改良」しようとしたのにすぎないのだが、内面的に首尾一貫させるためには、かれはブルジョア的生産諸条件をつぎつぎに否定してゆかざるをえなかった。こうしてかれは、資本を国民資本に(60)、土地所有を国民的所有に(61)転化させる、そしてかれの銀行をよくよく観察すると、それは一方で商品をうけとり、他方で提供された労働にたいする証明書を発行するだけではなく、生産そのものを統制していることがわかる。かれの最後の著述である『貨幣についての講義』で、グレイは、小心翼々としてかれの労働貨幣が純ブルジョア的な改良であることをしめそうとつとめているが、それだけますますひどい矛盾におちこんでいるのである。
(60) 「どの国の事業も、国民資本の基礎のうえでおこなわなければならない。」( ジョン・グレイ『社会体制論……』、一七一頁。)
(61) 「土地は国民的所有に転化されなければならない。」(同書、二九八頁。)
どの商品もみな直接に貨幣である。これこそグレイの不完全な、しかもそのためにまちがった商品の分析からみちびきだされた理論であった。「労働貨幣」と「国立銀行」と「商品倉庫」との「有機的」くみたては、人をあざむいて、この独断を世界を支配する法則だと思いこませる夢想にすぎない。商品が直接に貨幣であるという独断、あるいは商品にふくまれている私的個人の特定の労働が直接に社会的労働であるという独断は、ある銀行がそれを信じそれにしたがって営業するからといって、真実になるものでないことはいうまでもない。こういうばあいには、むしろ破産が実践的な批判の役目をひきうけるであろう。グレイの考えのなかにかくされており、ことにかれ自身では気づかずにいたこと、すなわち労働貨幣というものが、貨幣から、貨幣とともに交換価値から、交換価値とともに商品から、商品とともに生産のブルジョア的形態からのがれようという敬虔な願望を、経済学的に表現した空語であるということ、そのことは、グレイに前後して著述した二三のイギリスの社会主義者たち(62)によって率直に言明されている。けれどもプルードン氏とその学派は、貨幣をおとしめ商品をもちあげることを、社会主義の核心であるとして大まじめに説教し、そうすることによって、社会主義を商品と貨幣との必然的な連関についての初歩的な誤解に解消してしまうことを、いつまでもやめなかったのである(63)。
(62) たとえばW・タムスン『富の分配……についての研究』、ロンドン、一八二七年。ブレイ『労働の虐待と労働の救済』、リーズ、一八三九年、を参照。
(63) こうしたメロドラマのような貨幣理論の綱要とみることができるものに、アルフレッド・ダリモン『銀行改革論』、パリ、一八五六年、がある。
−p.107, l.4−
商品が価格付与の過程において流通できる形態をえ、金が貨幣の性格をえたのちには、流通が、商品の交換過程の内包していた矛盾を表示し、同時にまたそれを解決するであろう。商品の実際の交換、いいかえれば社会的な素材転換は、つぎのような形態転換、つまり使用価値および交換価値としての商品の二重の性質がみずからを展開するが、しかも商品そのものの形態転換が同時に貨幣の一定の諸形態に結晶するような形態転換という形でおこなわれる。この形態転換をのべることが流通をのべることになる。すでにみたように、商品が発展した交換価値にほかならないのは、諸商品の世界ならびにそれとともに事実上発達した分業が前提されるばあいだけであるが、同様に流通は、全面的な交換行為とその更新のたえまない流れとを前提するものである。第二の前提は、商品が価格のきめられた商品として交換過程にはいりこむということ、または、交換過程の内部ではたがいに二重の実在として、現実には使用価値として、観念のうえでは――価格では――交換価値としてあらわれるということである。
ロンドンのもっとも繁華な町には商店が軒をならべて立ち、その飾り窓のなかには、インドのショール、アメリカのピストル、中国の磁器、パリのコルセット、ロシアの毛皮製品、および熱帯地方の香料など、世界中のあらゆる富が、みる目も美しくかがやいている、しかし現世を享楽するためのこれらすべての品物は、そのひたいに運命的な白い紙片をはりつけられていて、そこにはアラビア数字が、£、s.、d.《ポンド、シリング、ペンス》という略号とともに書きこまれている。これこそ流通にあらわれる商品の姿である。
−p.108, l.9−
さらにたちいって考察すると、流通過程は二つの異なった循環の形態をしめしている。商品をW、貨幣*をGと名づけるならば、この二つの形態をつぎのように表現することができる。
W―G―W
G―W―G
この節では、もっぱら第一の形態、つまり商品流通の直接的形態をとりあつかうことにしよう。
* 第一版では金となっていた。 ――編集者。
循環 W―G―W はつぎのものに分解される。運動 W―G、商品を貨幣と交換すること、つまり販売、これと反対の運動 G―W、貨幣を商品と交換すること、つまり購買、およびこの二つの運動の統一 W―G―W、貨幣を商品と交換するために商品を貨幣と交換すること、つまり購買のための販売が、これである。けれども結果としては、この過程が消えさり、W―W、商品と商品との交換という現実的な素材転換が生ずるのである。
W―G―W は、もし第一の商品の極から出発するならば、その商品の金への転化と、その商品の金から商品への再転化とを表示する、あるいは商品が、まず特定の使用価値として実在し、つぎにこの実在を脱して、その自然発生的な定在にともなういっさいの連関から解放された交換価値または一般的等価物としての実在を獲得し、さらにこれを脱して、最後に、個々の欲望のための現実的な使用価値にもどる、ひとつの運動を表示する。この最後の形態で、商品は流通から脱落して消費にはいってゆくのである。そこで流通の全体 G―W―G は、なによりもまず、個々の商品がその所有者にとって直接の使用価値となるために通過する変態の全系列である。第一の変態は流通の前半 W―G でおこなわれ、第二の変態は後半 G―W でおこなわれる。そして全流通が商品の curriculum vitae《履歴》をつくるのである。しかし流通 W―G―W が個々の商品の総変態であるのは、ただそれが同時に、ほかの商品の一定の一面的な変態の総和であるからにほかならない。なぜならば、第一の商品の変態は、いずれもその商品のほかの商品への転化であり、したがってほかの商品のその商品への転化であり、したがってまた流通の同じ段階でおこなわれる二面的な転化であるからである。われわれはまず、流通 W―G―W がわかれるふたつの交換過程のそれぞれを、別々に考慮しなければならない。
W―G すなわち販売、商品Wは、単に特定の使用価値、たとえば一トンの鉄としてだけではなく、一定の価格をもつ使用価値、たとえば三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一、つまり一オンスの金という価格をもった使用価値として流通過程にはいるのである。この価格は、一方では鉄にふくまれている労働時間の量、つまり鉄の価値の大きさの指数であるが、同時にまた金になりたいという鉄の敬虔な願望、すなわち鉄そのもののなかにふくまれている労働時間に、一般的社会的労働時間という姿をあたえたいという願望をも表現している。もしもこの化体(かたい)が失敗に終わると、一トンの鉄は商品でなくなるだけでなく、生産物でもなくなってしまう、というのは、鉄はその所有者にとって非使用価値であるからこそ商品なのだからである。あるいはまたかれの労働は、他人にたいする有用労働としてのみ現実的労働なのであり、またそれは、抽象的一般的労働としてのみ、かれにとって有用なのだからである。だから、鉄が金をひきつける点を商品世界のなかに見つけることは、鉄または鉄の所有者の任務なのである。だがこの困難、商品の salt mortale《命がけの飛躍》は、販売が、この単純流通の分析で想定されているように、実際に行われるならば克服される。一トンの鉄は、その譲渡によって、つまりそれが非使用価値である人の手から使用価値である人の手にうつることによって、自分を使用価値として実現し、同時にその価格をも実現して、ただ表象されただけの金から現実の金になるのである。一オンスの金のよび名、つまり三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一にかわって、いまや一オンスの現実の金が登場してきた、だが一トンの鉄は退場してしまったのである。販売 W―G によって、価格という形で観念上金に転化されていた商品が、現実に金に転化されるばかりでなく、その同じ過程によって、価値の尺度としては単に観念上の貨幣にすぎず、実際には商品そのものの貨幣名として機能しているにすぎなかった金が、現実の貨幣に転化されるのである(64)。すべての商品がその価値を金ではかったために、金が観念のうえで一般的等価物となったと同時に、いまや金は、商品が金にたいして全面的に譲渡される結果として、絶対的に譲渡することのできる商品、つまり現実の貨幣となるのである。そして販売 W―G こそ、この一般的な譲渡の過程である。けれども金が販売において現実に貨幣となるのは、ただ商品の交換価値が価格という形ですでに観念のうえでは金であったからにほかならない。
(64) 「貨幣には観念的貨幣と現実的貨幣との二種類がある。そしてそれは、ふたつの異なった仕方で、つまりものを評価するためと、ものを買うためとに用いられる。評価するためには、観念的貨幣が、現実的貨幣と同様に、そしておそらくはそれ以上に適している。貨幣のもうひとつの用途は、それが評価するものそのものを買うことである。……価格と契約とは、観念的貨幣で評価され、現実的貨幣で実現される。」(ガリアニ『貨幣について』、一一二頁以下。)
販売 W―G でも、購買 G―W と同様に、交換価値と使用価値との統一体であるふたつの商品が対立している、しかし、商品にあっては、その交換価値はもっぱら観念のうえで価格として実在するのにたいして、金にあっては、それ自身はひとつの現実的な使用価値であるにもかかわらず、その使用価値は、ただ交換価値の担い手としてのみ実在し、したがってもっぱら形式的な、実際の個人的欲望とはなんの関係もない使用価値として実在しているにすぎない。それゆえ使用価値と交換価値との対立は、W―G の両端に極として配分されており、したがって商品は、金に対立する使用価値、つまりその観念上の交換価値である価格を金ではじめて実現しなければならない使用価値であるが、他方、金もまた、商品に対立する交換価値、つまりその形式的な使用価値を商品ではじめて物質化する交換価値なのである。だが、商品がこのように商品と金とへ二重化することによってのみ、しかもどの極をとってみても、その相手の極が現実的であるものは観念的であり、その相手の極が観念的であるものは現実的であるという、やはり二重の、対立した関連によってのみ、したがって商品を二重的に対極的な対立として表示することによってのみ、商品の交換価値にふくまれているもろもろの矛盾は解決されるのである。
これまでわれわれは、W―G を販売として、つまり商品の金への転化として考察してきた。しかしもしわれわれがほかの極のがわにたつならば、同じ過程はむしろ G―W として、購買、つまり貨幣の商品への転化としてあらわれる。販売は、必然的に同時にその反対物である購買であって、一方はその過程をひとつのがわからみるばあい、他方はそれをほかのがわからみるばあいである。いいかえれば、事実上この過程が区別されるのは、ただ W―G では、商品の極ないし売手の極にイニシャティヴがあり、G―W では、貨幣の極ないし買手の極にイニシャティヴがあるからにすぎない。だからわれわれは、商品の第一の変態である商品の貨幣への転化を、第一の流通段階 W―G を通過した結果として表示することによって、同時にほかの一商品がすでに貨幣に転化しており、したがってすでに第二の流通段階 G―W にあるということを想定しているわけである。そこでわれわれは、前提の悪循環におちいる。流通そのものがこうした悪循環なのである。もし、 W―G のGをすでに完了したほかの一商品の変態として考察しないとすれば、われわれは、交換行為を流通過程から外にとりだすことになるであろう。だが流通過程の外部では、 W―G という形態は消えさって、単にまだふたつのちがったW、たとえば鉄と金とが対立しているだけであり、それらのものの交換取引という特定の行為であるにすぎない。金はほかのすべての商品と同様に、その生産の現地では商品である。そこでは、金の相対的価値と鉄またはその他のあらゆる商品の相対的価値とは、それらがたがいに交換される量で表示される。だが流通過程ではこの手続きは前提されていて、商品価格という形で金自身の価値はすでにあたえられている。だから、金と商品とは、流通過程の内部で直接的交換取引の関係にはいり、したがってその相対的価値は、ただの商品としての両者の交換によってたしかめられるという考えほど、まちがったものはない。流通過程で金がただの商品として諸商品と交換されるようにみえるとしても、こうした外観はただ、価格という形で一定量の商品がすでに一定量の金と等置されているということ、いいかえれば一定量の商品がすでに貨幣としての、一般的等価物としての金に関連しており、そのために直接に金と交換できるということから生ずるものにすぎない。一商品の価格が金で実現されるかぎりでは、その商品は、商品としての金、労働時間の特定の体化物としての金と交換されるのであるが、金が金で実現される商品の価格であるかぎりでは、その商品は、商品としての金とではなくして、貨幣としての金、すなわち労働時間の一般的体化物としての金と交換されるのである。しかもこの関連においてはふたつながら、流通過程の内部で商品と交換される金の量は、交換によって規定されるのではなくて、交換の方が商品の価格、つまり金で評価された商品の交換価値によって規定されるのである(65)。
(65) このことはもちろん、商品の市場価格が、その価値以上または価値以下になりうることをさまたげるものではない。しかしこうした顧慮は、単純流通には関係がなく、のちに考察されるはずのまったく別の領域に属する。そこでわれわれは、価値と市場価格の関係を研究するであろう。
流通過程の内部では、どの人のもっている金も、販売 W―G の結果としてあらわれる。だが、販売 W―G は同時に購買 G―W であるから、W、つまりこの過程の出発点たる商品がその第一の変態をとげるあいだに、極Gとしてそれに対立しているほかの商品はその第二の変態をとげ、したがって第一の商品がまだその行程の前半にあるあいだに流通の後半を通過しているということがわかる。
流通の第一の過程である販売の結果として、第二の過程の出発点である貨幣が生じる。第一の形態における商品にかわって、その金等価物が登場しているわけである。この第二の形態における商品は独自の永続的な実在をもっているのだから、この結果は、さしあたってはひとつの休止点をなすことができる。商品は、その所有者の手中ではなんらの使用価値でもなかったのに、いまやいつでも交換できるがゆえに、いつでも使用できるという形態で現存しており、しかもそれが、いつ、そしてまた商品世界の表面のどんな点で、ふたたび流通にはいるかは、事情のいかんにかかっている。商品が金というさなぎになることは、商品の生涯において、短いか長いかともかくとして、商品がそこにとどまることができる独自の一時期をなしているのである。物々交換では、ある特定の使用価値の交換がほかの特定の使用価値の交換と直接にむすびついているのにたいして、交換価値を生みだす労働の一般的性格は、購買および販売という行為が分離しているということ、しかもそれがたがいにばらばらであるということにあらわれている。
購買 G―W は W―G の逆の運動であり、同時に商品の第二の変態、または最後の変態である。商品は、金としては、つまり一般的等価物としてのその定在においては、ほかのあらゆる商品の使用価値で直接に表示できる。つまりこの、ほかの商品は、その価格という形で、みな同時に、金を自分の来世としてもとめているが、同時にまた、商品の肉体である使用価値が貨幣のがわにとびうつり、しかも商品のたましいである交換価値が金そのものにとびうつるために、金が鳴らさなければならない音符を示しているわけである。商品の譲渡の一般的産物は、絶対に譲渡できる商品である。金の商品への転化にとっては質的制限はすこしもなく、ただ量的制限、つまりそれ自身の量または価値の大きさの制限があるだけである。「現金とひきかえならばどんなものでもうることができる。」商品は、運動 G―W においては、使用価値として脱却する〔譲渡される〕ことによって、それ自身の使用価値とほかの商品の価格とを実現するのである。商品は、その価格を実現することによって、同時に金を実際の貨幣に転化するが、その再転化によって、金を商品そのものの単に一時的な貨幣存在に転化する。商品流通は、発達した分業を前提とし、したがって個人の生産物の一面性に反比例するかれの欲望の多面性を前提とするものだから、購買 G―W は、あるときはひとつの商品等価物との一等式で表現され、あるときは買手の欲望の範囲とかれの貨幣総額の大きさとによって限定された一系列の商品等価物に分裂する。――販売が同時に購買であるように、購買もまた同時に販売であり、 G―W は同時に W―G であるが、このばあいにはイニシャティヴは金、つまり買手のがわにあるのである。
さて、総流通 W―G―W にたちかえるならば、ここでは、一商品がその変態の総系列を通過することが示されている。だがこの商品が流通の前半を開始して第一の変態をとげるあいだに、同時に第二の商品が流通の後半に入り、その第二の変態をとげ、流通から脱落する。そして逆に第一の商品が流通の後半に入り、その第二の変態をおこない、流通から脱落するあいだに、第三の商品が流通にはいり、その行程の前半を通過し、第一の変態をおこなうのである。だからひとつの商品の総変態としての総流通 W―G―W は、つねに第二の商品の総変態の終りであるとともに、第三の商品の総変態の始めでもあり、したがって始めも終りもない一系列なのである。われわれは、はっきりさせるために、つまり各商品を区別するために、両端の W をわけて、たとえば W'―G―W" というようにあらわそう。事実、第一の環 W'―G は、ほかの W―G の結果としての G を前提としているのであるから、それ自身 W―G―W' の最後の環にすぎないのであり、他方、第二の環 G―W" は、その結果においては W"―G であるから、それ自身はまた W"―G―W"' の第一環として表示される、等々である。さらにわかることは、最後の環 G―W は、G がただひとつの販売の結果にすぎないとしても、 G―W'+G―W"+G―W"'+等々として表示することができるということ、したがって多くの購買、つまり商品のあらたな総変態の多数の第一環に分裂しうるということ、である。だからもし個々の商品の総変態が、始めも終りもないひとつの変態の連鎖の環としてだけでなく、多くのこうした連鎖の環として表示されるとすれば、商品世界の流通過程は、あらゆる個々の商品が流通 W―G―W を通過するのであるから、無限に異なった点でたえず終了しつつも、またたえずあらたに始まってゆく、こうした運動の無限にもつれあった連鎖のからみあいとして表示されるわけである。だが同時にまた、個々の販売や購買はいずれも、相互に無関係でしかも孤立的な行為として存立しており、それを補完する行為は、時間的にも空間的にもそれからはなれることができ、したがってその継続として直接にそれに結びつく必要はない。特定の流通過程 W―G または G―W はいずれも、一商品の使用価値への転化とほかの商品の貨幣への転化として、流通の第一および第二段階として、二つの側面から独自の休止点を形づくるが、しかも他方、すべての商品は、一般的等価物、つまり金というそれらに共通な姿をとって、その第二の変態をはじめ、流通の後半の出発点にたつのであり、そのことから実際の流通では、任意の G―W が任意の W―G に、一商品の生涯の第二章がほかの商品の生涯の第一章につづくのである。たとえばAは、鉄を二ポンドで売り、したがって W―G すなわち鉄という商品の第一の変態をおこなったが、購買を他日にのばすとしよう。同時に、一四日前に二クォーターの小麦を六ポンドで売ったBは、その六ポンドでモーゼス父子商会の上衣とズボンを買い、こうして G―W つまり小麦という商品の第二の変態をおこなうものとしよう。このばあいこのふたつの行為 G―W および W―G は、単にひとつの連鎖の環としてしかあらわれない。なぜならば、Gつまり金では、ある商品はほかの商品と同じ外観をしめし、金をみてもそれが鉄の変態したものか小麦の変態したものか再認識することはできないからである。だから実際の流通過程では、 W―G―W は、さまざまの総変態の雑多にいりくんだ環の、かぎりもない具体的な並存ならびに継起として表示される。だから実際の流通過程は、商品の総変態としてではなく、また対立する局面を通過する商品の運動としてではなく、偶然にならびあったり、つぎつぎに起ったりする多数の購買や販売の単なる集合としてあらわれる。こうしてこの過程の形態規定性は消えさっている。しかも個々の流通行為はいずれも、たとえば販売はその反対物である購買であり、逆のばあいはその逆であるだけに、その消えかたはいよいよ完全となるのである。他方、流通過程は商品世界の変態の運動であるから、この運動はまた流通過程の総運動のなかにも反映しないわけにはいかない。流通過程がどのようにその運動を反映しているかは、次節で考察しよう。ただここで注意しておきたいことは、 W―G―W では両極のWは、Gにたいして同じ形態関連に立っていないということである。第一のWは、特殊的商品として、一般的商品たる貨幣に関係しているのだが、貨幣は一般的商品として、個別的商品たる第二のWに関係している。したがって W―G―W は、抽象的論理的には、推論形式 B―A―E〔特殊―一般―個別〕に還元することができるが、そのばあい、特殊性が第一の極を、一般性が連結する中間項を、個別性が最後の極をなしているわけである。
商品所有者たちは、単純に商品の保護者として流通過程にはいりこんだ。この過程の内部では、かれらは、買手と売手という対立した形態で、すなわち、一方は人格化された棒砂糖として、他方は人格化された金として、あいたいする。そこで棒砂糖が金になると、売手は買手になるのである。だから両者の一定の社会的性格は、けっして人間の個性一般から生じるものではなく、生産物を商品という一定の形態で生産する人々の交換諸関係から生じるものである。買手と売手との関係で表現されているものは、純粋に個人的な関係ではなくて、両者とも、ただかれらの個人的労働が否定されるかぎりにおいてのみ、いいかえれば、その労働がどの個人のものでもない労働として貨幣になるかぎりにおいてのみ、この関連にはいりこむのである。だから買手と売手というこの経済的、ブルジョア的性格を、人間の個性の永久的な社会的形態だと考えることは、ばかげたことであるが、それと同様に、これを個性の止揚であるとしてなげくこともまたまちがっている(66)。それらは、社会的生産過程の一定段階を基礎とした個性の必然的な表示なのである。そればかりか、買手と売手という対立には、ブルジョア的生産の敵対的な性質がまだきわめて表面的かつ形式的に表現されているだけであって、この対立が必要とすることは、単に個々人がたがいに商品の所有者として関連することだけだという点では、それはまた前ブルジョア的社会諸形態にも属しているのである。
(66) 購買と販売とに表示される敵対のまったく表面的な形態でさえ、美しいたましいをどれほど深刻に傷つけるかは、イサーク・ペレール氏の『産業と金融とに関する講義』パリ、一八三二年、からのつぎの引用がこれを示している。この同じイサークが、動産銀行(クレディ・モビリエ)の創設者および独裁者として悪名高いパリ取引所の狼であるということは、同時にこの経済学のセンチメンタルな批評がどのくらい重要であるかを示すものである。当時サン・シモンの使徒であったペレール氏は、つぎのようにいっている。「個々人は、労働においても消費のばあいでも、孤立しており、たがいに分裂しているから、かれらのあいだでは、それぞれその産業の生産物の交換が行われる。交換の必要から、ものの相対的価値を規定する必要が生じる。だから価値の観念と交換の観念とは密接にむすびついていて、両者ともその現実的な形態のうちに、個人主義と敵対とを表現している。……販売と購買があればこそ、いいかえれば社会のさまざまな成員のあいだに敵対があればこそ、生産物の価値を決定することができるのである。販売と購買とがあったところでのみ、つまり個々人がその生存維持に必要なものを獲得するために闘争することをよぎなくされていたところでのみ、価格や価値が問題となりえたのである。」(前掲書、二、三頁の抄録。)
さて、W―G―W の結果をみると、それは素材転換 W―W に帰着する。〔つまり〕商品が商品と使用価値が使用価値と交換されたのであって、商品が貨幣になるということ、または貨幣としての商品は、ただこの素材転換の媒介に役だつにすぎない。こうして貨幣は諸商品の単なる交換手段としてあらわれるが、しかし交換手段一般としてではなく、流通過程によって特徴づけられた交換手段、すなわち流通手段としてあらわれるのである(66)。
(66) 「生活に有用な商品が目標であり目的であるのに、貨幣は、ただ手段であり動かす力であるにすぎない。」(ボアギュベール『フランス詳論』、一六九七年、ユージェーヌ・デール編『一八世紀の財政経済学者』、第一巻、パリ、一八四三年、二一〇頁。)
商品の流通過程が、 W―W に解消し、そのために単に貨幣によって媒介された物々交換であるようにみえることから、あるいは、一般に W−G―W は、ふたつの別々の過程に分裂するばかりでなく、同時にそれらの動的統一をも表示しているということから、購買と販売とのあいだには統一だけが実在し、分裂は実在しないということを結論しようとするのは、ひとつの考え方ではあるが、この考え方を批判することは、論理学の領域に属することであって、経済学の領域には属さない。交換過程における購買と販売との分離は。社会的な素材転換の、地方的・自然発生的な、先祖伝来のつつましい、情味はあるがばかげた諸制限を突破しはするが、同時にまたそれは、社会的な素材転換のからみあった要因を分裂させ、その要因をたがいに固定化させる一般的形態であり、一言でいえば、商業恐慌の一般的可能性である。しかしそうであるのは、商品と貨幣との対立が、ブルジョア的労働にふくまれているいっさいの対立の抽象的で一般的な形態であるからにほかならない。したがって、貨幣流通は恐慌なしにもおこなわれうるが恐慌は貨幣流通なしにはおこりえないのである。しかしこのことはただ、私的交換にもとづく労働がまだぜんぜん貨幣を形成するまでにはすすんでいないところでは、その労働は、ブルジョア的生産過程の完全な発展を前提とするような現象をひきおこしえないのが当然だ、ということにほかならない。したがって、貴金属の「特権」を廃止することによって、またいわゆる「合理的貨幣制度」によって、ブルジョア的生産の「欠点」を除去しようという批評が、どれほどの深さをもっているかをはかり知ることもできるわけである。他方、経済学者らしい弁明の見本としては、あまりにも鋭すぎると非難されているつぎのいいまわしをあげれば充分であろう。有名なイギリスの経済学者ジョン・ステュアート・ミルの父であるジェイムズ・ミルはいう、「すべての商品にたいして買手がたりないということはありえない。ある商品を売るために提供する者は、つねにそれと交換にある商品をえようと欲しているのである。だからかれは、売手であるという単なる事実によって買手なのである。だからすべての商品の買手と売手とを総括すれば、形而上学的必然によって均衡がたもたれなければならない。だからある商品について買手よりも売手のほうが多いとすれば、ほかの商品については売手よりも多くの買手が存在するはずである(68)。」と。ミルは流通過程を直接的交換取引に転化させ、しかもふたたびこの直接的交換取引のなかに、流通過程から借りてきた買手と売手という人物を密輸入することによって、この均衡をつくりだしているのである。かれの混乱した言葉を用いるならば、たとえば、一八五七〜五八年の商業恐慌の一定の時期のロンドンやハンブルクにおけるように、すべての商品が売れない時期には、実は、ひとつの商品、つまり貨幣の売手よりも多い買手がいたのであり、またすべてのほかの貨幣、つまり商品の買手よりも売手のほうが多かったのである。買手と売手との形而上学的均衡は、どの購買も販売であり、どの販売も購買であるということに帰着するのであるが、このことは、その均衡を売るのではなくしたがってまた買うのでもない商品の保護者にとっては、なんの特別ななぐさめにもならないのである(69)。
(68) 一八〇七年一一月、イギリスでウィリアム・スペンスの『農業に依存しないイギリス』と題された一著述があらわれたが、その同じ原理を、ウィリアム・コペットはかれの『政治録』のなかで、「農業を絶滅せよ」というもっとはげしい形でさらにくわしくのべた。これにたいしてジェームズ・ミルは、一八〇八年に『商業の擁護』を公刊したが、かれの『経済学綱要』から本文中に引用した議論はすでにこのなかにみられる。J・B・セーは、商業恐慌についてのシスモンディおよびマルサスとの論争において、この愛すべき発見をわがもの顔で用いた。しかもこのこっけいな "prince de la science"《科学の王子》が、どういう新しい趣向をこらして経済学をゆたかにしたかを語ろうとしてもそれは不可能であったから、――かれの功績はむしろかれの同時代人である、マルサス、シスモンディおよびリカアドを一様に批判したという不偏不党さにあったのであるが、――大陸におけるかれの賛美者どもは、かれを購買と販売との形而上学的均衡という例の宝物の発掘者だとふいちょうしたのであった。
(69) 経済学者が、商品のさまざまな形態規定をのべるやりかたは、つぎの例からうかがい知ることができるであろう。「貨幣を所有していれば、われわれは欲望の対象を獲得するためにただ一回の交換をおこなえばよい、だがそのほかの剰余生産物を用いるばあいには、われわれは二回の交換をおこなわなければならない、その第一の交換(貨幣を手にいれること)は、第二のばあいにくらべてかぎりなくむずかしい。」(G・オプダイク『経済学についての一論』、ニューヨーク、一八五一年、二八七〜二八八頁。)
「貨幣の売れゆきが高いということは、まさに商品の売れゆきが少いということの作用または当然の結果である。」(T・コーベット『個人の富の原因と様式に関する研究』、ロンドン、一八四一年、一一七頁。「貨幣はそれがはかるものといつでも交換されうるという属性をもっている。」(ボウズンキット『金属通貨、紙幣、および信用通貨……』、ロンドン、一八四二年、一〇〇頁。)
「貨幣はいつでもほかの商品を買うことができるが、ほかの商品はかならずしもつねに貨幣を買うことはできない。」(T・トゥック『通貨原理の研究』、第二版、ロンドン、一八四四年、一〇頁。〔玉野井芳郎訳『通貨原理の研究』(岩波古典文庫版)、四四頁。〕)
販売と購買との分離は、本来の商業とともに、商品生産者と商品消費者とのあいだの最終的交換にさきだっておこなわれる多くの空取引を可能にする。そこでこの分離は、多数の寄食者が生産過程にくいこんで、その分離をくいものにすることを可能にする。だがこのことは、さらにまた、ブルジョア的労働の一般的形態としての貨幣とともに、この労働の諸矛盾の発展の可能性があたえられるということを意味するものにほかならない。
−p.123, l.6−
現実の流通は、まず、偶然にあいならんでおこなわれる購買と販売との総量としてあらわれる。購買でも販売でも、商品と貨幣とはいつも同じ関連であいたいしており、売手は商品のがわに、買手は貨幣のがわにいる。だから流通手段としての貨幣はいつも購買手段としてあらわれ、そのために商品変態に対立的な局面における貨幣のいろいろな規定は、みとめにくくなっている。
貨幣は、商品が買手の手にうつるその同じ行為において売手の手にうつる。だから商品と貨幣とは、反対の方向にすすむのであり、しかも商品が一方のがわにいき、貨幣が他方のがわにいくこの位置転換は、ブルジョア社会の全表面の数しれぬ多くの点で同時におこなわれる。けれども、商品が流通にふみこむ最初の一歩は、同時にまたその最後の一歩でもある(70)。商品は、金が商品にひきつけられる( W―G )からその位置をさるにしても、あるいは商品が金にひきつけられる( G―W )からその位置をさるにしても、一気に、一回の位置転換で、流通から消費に脱落する。流通は商品のたえまない運動である。しかしつねにちがった商品の運動であって、どの商品もただ一度だけしか運動しない。どの商品もその流通の後半を、同じ商品としてとしてではなく、ほかの一商品として、金としてはじめるのである。だから、変態をとげた商品の運動は、金の運動である。 W―G という行為でひとたびある商品と位置をかえた同じ貨幣片または同一の金個体は、逆にふたたび G―W の出発点としてあらわれ、このようにしてもう一度ほかの商品と位置をかえる。それは、買手Bの手から売手Aの手にうつるように、こんどは、買手になったAの手からCの手にうつるのである。だから商品の形態運動、その貨幣への転化と貨幣からの再転化、つまり商品の総変態の運動は、ふたつのちがった商品と二度その位置をかえる同じ貨幣片の外面的運動としてあらわれる。購買と販売とがどんなにばらばらで偶然にならんでおこなわれようとも、実際の流通では、いつも一人の買手にたいして一人の売手が対立している、そして売られた商品にかわってその位置にうつっていく貨幣は、それが買手の手にはいるまえに、すでに一度ほかの商品とその位置をかえていなければならない。他方その貨幣は、おそかれはやかれ、買手になった売手の手からふたたび新しい売手の手にうつるのである。このように何回となくくりかえされる位置転換という形で、貨幣は商品の変態の連鎖を表現するのである。こうして同じ貨幣片は、運動した商品とはいつも反対の方向に、あるものはかなりひんぱんに、あるものはそれほどひんぱんにではなく、流通のある位置からほかの位置にうつってゆき、それによって、あるいは長くあるいはみじかい流通曲線をえがくのである。同じ貨幣片のこういうさまざまな運動は、ただ時間的にあいついでおこりうるだけであるが、逆に、多方面にわたり、かつ分裂しておこなわれる購買と販売とは、同じときに空間的にならんでおこなわれる一度かぎりの商品と貨幣との位置交換という形で、あらわれる。
(70) 同じ商品は、いくども買われたり、ふたたび売られたりすることができる。だがそのばあいそれは、単なる商品として流通するのではなくて、単純流通、つまり商品と貨幣との単純な対立の見地においてはまだあらわれてはいない規定のもとに流通するのである。
商品流通 W―G―W は、その単純な形態においては、貨幣が買手の手から売手の手に、また買手になった売手の手から新しい売手の手にうつるという形でおこなわれる。これをもって商品の変態はおわり、したがって貨幣の運動も、それがこの変態の表現であるかぎり終了する。けれども、新しい使用価値が商品としてつねに生産され、したがってつねにあらたに流通に投げこまれなければならないのだから、 W―G―W は、同じ商品所有者のがわからくりかえされ、更新される。商品所有者が買手として支出した貨幣は、かれがあらたに商品の売手としてあらわれるやいなや、その手にもどってくる。こうして商品流通のたえまない更新は、貨幣がある人の手からほかの人の手へと、ブルジョア社会の全表面にわたって転々とするばかりでなく、同時に多くのさまざまな小循環をえがき、無数にちがった点から出発して、同じ点にもどりながら、あたらしく同じ運動をくりかえす、という形でうつしだされている。
商品の形態転換が貨幣の単なる位置転換としてあらわれ、かつ流通運動の継続性がまったく貨幣のがわに帰するというのも、商品はつねに貨幣とは反対の方向に一歩だけ進むにすぎないのにたいして、貨幣のほうはいつも商品といれかわりに第二歩をすすめて、商品がAといった場所でBというためであるが、そうなると、全運動は貨幣から出発するようにみえるのである、だがそれにもかかわらず、販売のさいに貨幣をその位置からひきよせ、したがってまた貨幣を、ちょうど購買のさいに商品が貨幣によって流通させられるのと同じように、流通させるのは商品である。さらにまた貨幣は、つねに購買手段という同じ関連で商品にあいたいするのであるが、購買手段としては、ただ商品の価格を実現することによって、商品を運動させるにすぎないから、流通の全運動は、同時にならんでおこなわれる特定の流通行為においてであれ、同じ貨幣片がさまざまな商品価格を順々に実現することによってつぎつぎにおこなわれる流通行為においてであれ、貨幣が商品の価格を実現することによって、商品と位置をかえるようにみえる。われわれがたとえば W―G―W'―G―W"―G―W"' 等々を実際の流通過程ではみとめられなくなる質的要因を顧慮せずに考察するならば、同じ単調な操作だけがあらわれるであろう。Gは、Wの価格を実現したのちに、順々に W'―W" 等々の価格を実現し、そして商品 W'―W"―W"' 等々はつねに貨幣が去った位置にはいってくる。だから貨幣は、商品の価格を実現することによって商品を流通させているようにみえる。価格を実現するこの機能において、貨幣は、あるときはただ一度だけ位置をかえ、あるときはひとつの流通曲線を通過し、あるときは出発点と復帰点とが一致する小円をえがきながら、それ自身たえず流通するのである。流通手段としては、貨幣はそれ独自の流通をもつ。だから各過程をとおっていく商品の形態運動は、それ自体では運動しない商品の交換を媒介する貨幣独自の運動としてあらわれる。したがって商品の流通過程の運動は、流通手段としての貨幣*の運動という形で、――貨幣流通という形であらわれる。
* 第一版では金となっていた。 ――編集者。
商品所有者たちが、金というひとつのものを、一般的労働時間の直接の定在に、したがって貨幣に転化することによって、かれらの私的労働の生産物を社会的労働の生産物としてあらわしたように、いまやかれらの労働の素材転換を媒介するかれら自身の全面的運動は、ひとつのものの独特の運動として、金の流通として、かれらにあいたいするのである。この社会的な運動そのものは、商品所有者にとっては、一方では外的な必然であり、他方では各個人に、かれが流通に投ずる使用価値とひきかえに、同じ価値量の他の使用価値をそこからひきだすことができるようにさせる単なる形式的な媒介過程である。商品の使用価値は、それが流通から脱落するとともにはじまるが、流通手段としての貨幣*の使用価値はそれが流通することそれ自体である。流通のうちでの商品の運動はただ一時的な要因にすぎないが、他方、流通のなかでやすみなくうごきまわることが貨幣*の機能となる。流通過程の内部におけるこの貨幣独特の機能は、流通手段としての貨幣にあたらしい形態規定性をあたえるが、いまやそれをさらにくわしく展開しなければならない。
* 第一版では金となっていた。 ――編集者。
まずあきらかなのは、貨幣流通がかぎりなく分裂した運動であるということである、というのは、貨幣流通には、流通過程が購買と販売とにかぎりなく分裂していることと、商品変態のたがいに補足しあう段階が無関係にはなればなれになっていることとが反映しているからである。出発点と復帰点とが一致する貨幣の小循環では、たしかに回帰運動、実際の円運動があらわれるが、しかし、出発点の数は商品と同じだけたくさんある、そしてそれらがかぎりなくたくさんであるということによって、すでに、これらの循環についてはどんな統制も測定も計算もおよばない。同じように、出発点から遠ざかりまたそこへ復帰するまでの時間も一定していない。そしてまた、そのような循環が、あるあたえられたばあいにえがかれるかいなかということさえ、どうでもよいことなのである。一方の手で貨幣を支出しながら、他方の手でそれを回収せずにいることができるということほど、ひろく知れわたっている経済的事実はない。貨幣は、かぎりなくことなった点から出発してかぎりなくことなった点に復帰するが、出発点と復帰点とが一致するのは偶然にすぎない、なぜならば、 W―G―W の運動では、買手が売手に再転化することは必須の条件ではないからである。だが貨幣通流は、ひとつの中心から円周のすべての点にむかって放射し、また円周のすべての点からその同じ中心にむかって復帰する運動をあらわすものではなおさらない。われわれが映像としておもいうかべているいわゆる貨幣の環状運動なるものは、あらゆる点で貨幣があらわれたり消えたり、またたえまなく位置転換したりすることがみられるということにほかならない。貨幣流通のより高度の媒介形態、たとえば銀行券流通にあっては、われわれは貨幣を発行する諸条件がその還流の諸条件をふくんでいることをみいだすであろう。単純な貨幣流通にとっては、これに反して、同じ買手がふたたび売手になることは偶然である。現実の循環運動が経常的に単純な貨幣流通にあらわれるばあいには、その運動は、もっと深い生産過程の反映にほかならない。たとえば、工場主は金曜日にかれの銀行家から貨幣をうけとり、これを土曜日にかれの労働者に支払い、労働者はその大部分をすぐに小売商その他に支払い、そして小売商は月曜日にそれを銀行家の手にもどす、といったぐあいである。
すでにみたように、貨幣は空間的に雑然とならんでおこなわれる購買と販売において、あるあたえられた数量の価格を同時に実現し、ただ一度だけ商品と位置を交換する。けれども他方、貨幣の運動に商品の総変態の運動とこれらの変態の連鎖とがあらわれるかぎりでは、同じ貨幣片がさまざまな商品の価格を実現し、こうして多かれ少かれ何回かの通流をとげる。だからあるあたえられた期間、たとえば一日間のある国の流通過程をとってみれば、価格の実現のために、したがって商品の流通のために必要とされる金量は、一方ではこれらの価格の総額、他方では同じ金片の通流の平均回数という、二重の要因によって規定されている。この通流の回数または貨幣流通の速度は、そのものとしては、諸商品がそれらの変態のさまざまな局面を通過する平均速度、これらの変態が連鎖になってつづいていく平均速度、変態を通過しおわった諸商品が流通過程で新しい諸商品によっておきかえられる平均速度によって規定されており、いいかえればただそれを表現しているだけである。だから価格付与のさいには、すべての商品の交換価値が、観念のうえで同じ大きさの価値をもった金量に転化されたのであり、またふたつの孤立した流通行為 G―W と W―G とにおいては、同じ価値額が、一方では商品、他方では金として二重に現存していたのであるが、流通手段としての金の定在は、個々の休止している商品にたいする金の孤立的な関連によって規定されているのではなくて、動いている商品世界における金の動的な定在によって規定されているのである。つまり、その位置転換で商品の形態転換をあらわし、したがってその位置転換の速度によって商品の形態転換の速度をあらわす金の機能によって規定されている。だから流通過程における金の現実の存在、つまり流通している金の実際の量は、いまや総過程そのものにおける金の機能的定在によって規定されているのである。
貨幣流通の前提は商品流通である、しかも貨幣が流通させるのは、価格をもっている商品、つまり観念のうえではすでに一定の金量と等置されている商品である。商品の価格規定そのものには、度量単位として役だつ金量の価値の大きさ、つまり金の価値は、あたえられたものとして前提されている。だからこういう前提のもとでは、流通のために必要な金の量は、まずもって、実現されなければならない商品価格の総額によって規定される。しかしこの総額そのものは、(一)価格の度盛(どもり)、つまり金で評価された商品の交換価値が相対的に高いか低いかによって、(二)一定の価格で流通する商品の総量によって、したがってあたえられた価格でおこなわれる購買と販売の総量によって規定される(71)。もし一クォーターの小麦が六〇シリングにあたいするものとすれば、それを流通させるためには、すなわちその価格を実現するためには、それが三〇シリングにしかあたいしない場合に比して二倍の金が必要である。六〇シリングの小麦五〇〇クォーターの流通のためには、同じ価格の小麦二五〇クォーターの流通のためにいるよりも二倍の金を必要とする。最後に、一〇〇シリングの小麦一〇クォーターの流通のためには、五〇シリングの小麦四〇クォーターの流通のための半分の金が必要なだけである。だから、流通させられる商品の総量が、価格総額の増大よりさらに大きな割合で減少すれば、価格の騰貴にもかかわらず、商品流通のために必要な金の量は減少しうるし、また反対に、流通させられる商品の総量が減少しても、その価格総額がそれよりも大きな割合で増大するならば、流通手段の総量は増大しうるということになる。そこで、たとえばイギリスのりっぱな精密調査によれば、イングランドでは穀物飢饉の最初の段階において、減少した穀物総量の価格総額が、以前の、数量が多かったときの穀物の価格総額よりも大きく、しかも同時に、ほかの商品総額の流通は、しばらくのあいだもとの価格で故障なくつづいていたために、流通する貨幣の総量が増加したことが証明されている。これにたいして、穀物飢饉のあとの段階では、穀物とならんでもとの価格で売られる商品が減少したか、または以前と同じ量の商品がもっと低い価格で売られるかしたために、流通する貨幣の総量は減少したのである。
(71) 貨幣の総量は、「それが商品によってあたえられた価格を維持するのに充分現存すると理解すれば、」問題にならない。ボアギュベール『フランス詳論』、二〇九ページ〔カウツキー版では二一〇頁となっている〕「もし四億ポンドの商品の流通に、四、〇〇〇万の金総量が必要であって、この一〇分の一という割合が水準であるとするならば、流通する商品の価値が自然的な原因で四億五、〇〇〇万に増加するばあいには、金総量は、その水準をたもつためには、四、五〇〇万に増大しなくてはならないであろう。」W・ブレイク『政府の支出によって生ずる影響……についての考察』、ロンドン、一八二三年、八〇、八一頁。
けれども、すでにみたように、流通している貨幣の量は、単に実現されなければならない商品価格の総額によって規定されるばかりでなく、同時に貨幣が通流する速度、つまりあたえられた期間内にこの実現の仕事をなしとげる速度によっても規定される。もし同じソヴリン貨が同じ日にそれぞれ一ソヴリンの価格の商品を一〇回買い、したがってそのもち手を一〇回かえれば、このソヴリン貨は、一日にそれぞれただ一回しか流通しないソヴリン貨一〇個とちょうど同じ仕事をする(72)。だから金の通流の速度は、金の量のかわりをすることができるのであり、いいかえれば、流通過程における金の定在は、単に商品とならび存する等価物としての金の定在によって規定されるだけでなく、商品変態の運動のなかにおける金の定在によっても規定されるのである。しかし貨幣流通の速度がその量のかわりをするのも、ある一定の程度までにすぎない、というのは、無限に分裂している購買と販売とは、どのあたえられた時点でもつねに空間的にあいならんでおこなわれるからである。
(72) 「現存貨幣量があるいは多くあるいは少くみえるようにするものは、貨幣流通の速度であって、金属の総量ではない。」(ガリアニ『貨幣について』九九頁。)
流通する商品の総価格が騰貴しても、その騰貴の割合が貨幣流通の速度の増大よりも小さければ、流通手段の総量は減少するであろう。逆に、流通速度が、流通する商品総量の総価格よりも大きな割合で減少すれば、流通手段の総量は増加するであろう。価格が一般的に下落するとともに流通手段の量が増加し、価格が一般的に騰貴するとともに流通手段の量が減少することは、商品価格の歴史のうえでもっともよく確認されている現象のひとつである。だが、価格の水準の騰貴をもたらし、しかも同時に貨幣の通流速度の水準をなおいっそうたかめる諸原因、およびその反対の運動をもたらす諸原因は、単純流通の考察の範囲には属さない。一例としてあげられることは、とりわけ、信用のさかんな時代には、貨幣流通の速度のほうが商品の価格よりも急速に増大するのに、信用の減退とともに、商品の価格のほうが流通の速度よりも緩慢に下落するということである。単純な貨幣流通の表面的、形式的な性格は、まさにつぎの点に、すなわち、流通手段の数を規定するすべての要因、つまり流通する商品の総量、価格、価格の騰落、同時におこなわれる購買と販売の数、貨幣流通の速度、のような要因が、商品世界の変態の過程に依存し、この過程がさらに、生産様式の全性格、人口数量、都市と農村との関係、運輸手段の発達、分業の大小、信用等々、要するにすべての単純な貨幣流通の外部にあってただそれに反映するにすぎない諸事情に依存するということに示されている。
流通の速度が前提されているとすれば、流通手段の量は、簡単に商品の価格によって規定される。だから通流する貨幣が増減するから、価格が騰落するのではなくて、価格が騰落するから、通流する貨幣が増減するのである。これはもっとも重要な経済法則のひとつであって、商品価格の歴史によってくわしくこのことの証明をしたことは、おそらくリカアド以後のイギリス経済学の唯一の功績をなすものであろう。いまや経験のしめすところによれば、ある一定の国の金属流通の水準、つまり流通する金または銀の量は、たしかに一時的な干満に、しかも多くのばあい非常にはげしい干満にさらされてはいるが(73)、しかし全体として長期にわたってみれば、同一不変であって、平均水準からの乖離(かいり)は、ただかすかな動揺としてつづくだけであるが、この現象は、流通する貨幣の総量を規定するもろもろの事情の対立的な性質から簡単に説明される。これらの事情が同時にかわることは、それらの作用を中和させ、すべてをもとどおりにさせておくのである。
(73) 金属流通がその平均水準以下に異常に減少した一例は、ロンドン・エコノミストからのつぎの抜粋をみればわかるように、一八五八年にイギリスでみられた。「ことがらの性質上」(つまり単純流通の分裂した性格によって)「市場で、しかも銀行家以外の諸階級の手中で浮動している現金の数量について、まったく正確な資料をうることはできない。けれどもおそらく大商業国の造幣局が活動しているかいなかは、この数量の変化をもっともよくしめす指標のひとつであろう。多く必要とされるならば、多くつくられ、少ししか必要とされないならば、少ししかつくられないであろう。……イギリスの造幣局では、鋳造額は、一八五五年には九、二四五、〇〇〇ポンド、一八五六年には六、四七六、〇〇〇ポンド、一八五七年には五、二九三、八五八ポンド〔カウツキー版では五、二九三、八五五ポンドとなっている〕であった。一八五八年中には造幣局はほとんどなにもすることがなかった。」(「エコノミスト」、一八五八年七月一〇日《七五四頁以下》)。だが同時に銀行の地下室には一八百万ポンドの金がよこたわっていた。
貨幣の流通速度があたえられ、かつ商品の価格総額があたえられていれば、流通する媒介物の量は一定である、という法則は、またこれを、商品の交換価値とそれらの変態の平均速度とがあたえられていれば、流通する金の量はそれ自身の価値に依存する、と表現することもできる。だから金の価値、つまりその生産に必要な労働時間が増減すれば、商品価格はそれに反比例して騰落するであろう、そして通流速度が同じままだとすると、同じだけの商品総量の流通のために必要な金の総量は、価格のこの一般的な騰落に応じて増減するであろう。これと同じ変動は、古い価値尺度が、それよりも価値の大きい金属か小さい金属かによって駆逐されたときにも生じるであろう。そこでオランダは、国債所有者にたいするやさしい思いやりや、カリフォルニアおよびオーストラリアの〔金鉱〕発見からうける影響にたいする恐怖から、金貨を銀貨でおきかえたとき、同じだけの商品総量を流通させるのに、以前の金の一四倍から一五倍もの銀を必要としたのであった。
流通する金量は、変動する商品価格の総額と変動する流通速度とに左右されるということから、つぎの結論、すなわち金属の流通手段の総量は、収縮と膨張のできるものでなければならない、つまり、金は流通過程の必要に応じて、あるいは流通手段として流通過程にはいり、あるいはふたたびそこからはなれなければならない、という結論が生ずる。流通過程そのものがどのようにしてこれらの諸条件を実現するかは、のちにみるであろう。
−p.136, l.1−
金は、流通手段として機能するさいには、独特な身なりをとり、鋳貨となる。金はその通流を技術上の障碍によってさまたげられないように、計算貨幣の度量標準にしたがって鋳造される。貨幣の計算名であるポンド、シリング等々で表現された金の重量部分をふくんでいることをその刻印と形状で示す金片、これが鋳貨である。鋳貨価格をきめることはもちろん、鋳造の技術上の事務もまた、国家がうけもつことになる。貨幣は、計算貨幣としてそうであるように、鋳貨としても地域的で政治的な性格をおび、さまざまな国の言葉をかたり、さまざまな国の制服をきる。だから貨幣が鋳貨として通流する領域は、国内的な共同社会の境界によってかこまれた商品流通として商品世界の一般的な流通から区別されるのである。
しかし地金の状態にある金と鋳貨としての金とのちがいは、金の鋳貨名と金の重量名とのちがいにすぎない。後者*のばあいによび名のちがいであるものが、いまや単なる形のちがいとしてあらわれる。金鋳貨はるつぼのなかに投げこまれて、ふたたび金そのものに転化されることができるし、また逆に金地金は、鋳貨形態をとるためには、ただ造幣局に送られさえすればよい。ひとつの形からほかの形への転化と再転化とは、純粋に技術上の操作としてあらわれるのである。
* 第一版では前者となっていたが自用本第二版で訂正。 ――編集者。
二二カラットの金一〇〇封度(ポンド)、つまり一、二〇〇トロイ・オンスとひきかえに、イギリスの造幣局から四、六七二ポンド二分の一、つまりそれだけのソヴリン金貨をうけとり、これらのソヴリン貨を天秤皿の一方のがわにのせ、一〇〇封度の金地金を他方のがわにのせれば、両者はつりあいがとれ、こうしてソヴリン貨とは、イギリスの鋳貨価格のうちこのよび名で示される金の重量部分が独特の形状と独特の刻印とをもったものにほかならないという証明があたえられるであろう。四、六七二個二分の一のソヴリン金貨は、さまざまな地点から流通になげこまれ、それにまきこまれて一日に一定回数だけ、あるものは比較的多く、あるものは比較的少く通流する。いまもし一オンスの金ごとに一日の通流の平均回数が一〇回であるとすると、一、二〇〇オンスの金は、一二、〇〇〇オンスの金、つまり四六、七二五個のソヴリン貨にひとしい商品価格の総額を実現することになるであろう。一オンスの金をどんなにひねくりまわしてみても、けっして一〇オンスの金の重さはない。だがこのばあい流通過程では、事実上、一オンスが一〇オンスの重さをもつのである。流通過程のなかにおける鋳貨の定在は、それにふくまれている金量にその通流の回数をかけたものにひとしい。だから鋳貨は、一定の重さをもった個々の金片としてのその実際の定在のほかに、その機能から生ずる観念的な定在をうけとる。しかしソヴリン貨は、たとえ一回通流するにしろ一〇回通流するにしろ、それぞれ個々の購買や販売では、ただ個々のソヴリン貨として作用するにすぎない。それはちょうど、一人の将軍が戦闘のさい適当な潮時に一〇個のちがった地点にあらわれて一〇人の将軍のかわりをしても、しかも個々の地点ではやはり同一人の将軍であるのに似ている。貨幣流通において量が速度によっておきかえられることから生ずる流通手段の観念化は、ただ流通過程のなかでの鋳貨の機能上の定在にかかわりがあるだけであって、個々の貨幣片としての定在をとらえるものではない。
しかし貨幣通流は外界の運動である、しかもソヴリン貨は、non olet《匂いでそれとわからない》とはいえ、雑多な仲間にまじってうろつきまわっている。鋳貨は、あらゆる種類の手や袋やポケットや財布や胴巻や金庫や小箱や大箱でこすられて身をすりへらし、あちこちに金の微量をくっつけこうして浮世の遍歴でかどがとれて、しだいにそのなかの実質をうしなってゆく。鋳貨は使われることによって、使いへらされるわけである。ソヴリン貨を、その生れながらの純な性格がまだほとんどおかされていないようにみえる瞬間にとらえてみよう。「できたてのソヴリン貨を今日あらたに銀行からうけとり、明日それを粉屋に支払うパン屋は、同じほんもののソヴリン貨を支払うのではない。それはかれがうけとったときよりも軽くなっている(74)。」「鋳貨が、ありきたりの、しかもさけることのできない摩滅という簡単な作用のために、事物そのものの本質上、たえずしだいに減価しないわけにはいかないことはあきらかである。どんなときでも、ただの一日でも軽い鋳貨を全部流通からしめだすことは物理的に不可能である(75)。」ジェイコブは、一八〇九年にヨーロッパに実在していた三八〇万ポンドが摩滅によって完全に消えさってしまったと推定している(76)。だから商品が流通のなかに一歩ふみこむと、たちまちそこから脱落するように、鋳貨は流通のなかを二三歩あるけば、もうそれがもっているよりも多くの金属実質をあらわすわけである。流通速度がかわらなければ、鋳貨が長く通流すればするほど、また同一の時間内ならばその流通が活溌になればなるほど、鋳貨の鋳貨としての定在は、その金や銀としての定在からますますはなれる。のこるものは magni nominis umbra《偉大な名の影》である。鋳貨のからだは単なる影にすぎない。鋳貨は、最初は過程によって重みをくわえたが、いまや過程によって軽くなる。しかもどの個々の購買や販売でも最初の金量として通用しつづけてゆく。ソヴリン貨は、うわべだけのソヴリン貨として、うわべだけの金として、適法な金片の機能をはたしつづけてゆく。ほかのものは外界との摩擦によってその観念論を失うのであるが、鋳貨は実践によって観念化され、その金や銀のからだの単にうわべだけの定在に転化されるのである。流通過程そのものによってなされる金属貨幣のこのような第二の観念化、つまりその名目的内容と実質的内容との分離は、政府とか私的な冒険者たちとかによって、さまざまな貨幣悪鋳に利用される。中世のはじめから一八世紀のずっとあとのころまでの鋳貨制度の全歴史は、結局こうした二面的でしかも敵対的な悪鋳の歴史に帰着する、そしてクストディの編集したイタリアの経済学者たちの大部の叢書は、多くはこの点についての論議なのである。
(74) ドッド『産業……の特異性』、ロンドン、一八五四年。《『鉱山、造幣局および仕事場における金』、一六頁。》
(75) 『一銀行家による通貨問題論評』、エディンバラ、一八四五年、九六頁その他。「もし多少でも使われたターレル貨が、まったく新しいターレル貨にくらべて、多少でも価値の低いものとして通用することになれば、流通はたえずさまたげられて、支払いのたびごとにかならず争いがおこるであろう。」(G・ガルニエ『貨幣の歴史』、第一巻、二四頁。)
(76) W・ジェイコブ『貴金属の生産と消費についての歴史的研究』、ロンドン、一八三一年、第二巻、第二六章、《三二二頁。》
だが金の内部におけるそのうわべだけの定在は、そのほんとうの定在と衝突するようになる。通流のうちで、ある金鋳貨はその金属実質をより多く失っており、他の金鋳貨は少ししか失っていないので、いまやあるソヴリン貨は、事実上ほかのソヴリン貨に比してより多くの価値をもっている。しかしそれらは、その鋳貨としての機能上の定在においては同じに通用し、四分の一オンスあるソヴリン貨も、四分の一オンスあるようにみえるにすぎないソヴリン貨以上に通用するわけではないから、完全な重さのソヴリン貨は、一部分、良心のない所有者の手で外科手術をうけ、通流そのものがこのソヴリン貨の軽い兄弟たちにたいして自然におこなったことが、それにたいしては人為的にくわえられるのである。それは、削られたりこすられたりして、その余計な金の脂肪は、るつぼのなかになげこまれる。もし四、六七二個二分の一のソヴリン金貨を天秤皿にのせたとき、一、二〇〇オンスではなく、平均して八〇〇*オンスの重さしかないとすれば、それは、金市場にもっていっても、やはり八〇〇*オンスの金しか買えないであろう、いいかえれば、金の市場価格はその鋳貨価格以上に騰貴するであろう。〔もしそういうことになれば〕どの貨幣片もみな、たとえ完全な重さをもっているばあいでも、鋳貨形態では地金形態でよりも小さい価値でしか通用しないであろう。そして完全な重さをもっているソヴリン貨は、多量の金が少量の金よりも大きな価値をもつ地金形態に復原されるであろう。こうした金属実質以下に下落することがじゅうぶんたくさんのソヴリン貨におよんで、金の市場価格がたえずその鋳貨価格以上に騰貴するまでになると、鋳貨の計算名は同じままであるだろうが、しかもそれ以後はより少い金量をさししめすことになるであろう。いいかえれば、貨幣の度量標準がかえられて、金はそれ以後はこのあたらしい度量標準にしたがって鋳造されるであろう。金は流通手段としては観念化されることによって、反作用的に、価格の度量標準であった法定の比率をかえてしまうことになるだろう。同じ革命は一定の期間をへてまたくりかえされるであろうが、そうなれば金は、価格の度量標準としての機能においても、流通手段としての機能においても、たえまない変動をこうむるわけであり、こうしてまえの形態での変動はのちの形態での変動をもたらし、またその逆は逆をもたらすであろう。このことは、さきにのべた現象、つまりあらゆる近代国民の歴史においては、金属実質がたえず減少してきたのに、同じ貨幣名がのこってきたという現象を説明するものである。鋳貨としての金と価格の度量標準としての金とのあいだの矛盾は、同時にまた、鋳貨としての金と一般的等価物としての金とのあいだの矛盾となるが、一般的等価物としての金は、単に国境のなかばかりでなく世界市場でも流通する。金は、価値の尺度としては、ただ観念的な金としてそのつとめをはたしただけであるから、いつも完全な重さをもっていた。孤立した行為 W―G での等価物としては、金は、その動的な定在からすぐその静的な定在に復帰する。しかも鋳貨としては、金の自然的な実体はたえずその機能と衝突する。ソヴリン金貨がうわべだけの金に転化するのを完全にさけることはできないが、立方は、実体の不足がある程度にたっしたときにそれを廃棄することによってそれが鋳貨として固定することをさまたげようとする。たとえばイギリスの法律によれば、〇・七四七グレイン以上の重さを失ったソヴリン貨は、もはや法廷のソヴリン貨ではない。一八四四年から一八四八年までのあいだだけでも四八百万個のソヴリン金貨をはかっているイングランド銀行は、コトン氏の金天秤という機械をもっているが、その機械は、二個のソヴリン貨のあいだの百分の一グレインの差を感じるだけでなく、さながら分別のある生物のように、重さのたりないソヴリン貨をただちに台のうえにはじきだす、そうするとそれは、そこでまたべつの機械にかけられて東洋的な残酷さで寸断されてしまうのである。
* 第一版では八〇となっていた。 ――編集者。
しかしこうした諸制約のもとでは、金鋳貨は、その通流が金鋳貨があまり早く摩滅しないような一定の流通範囲に限定されていないかぎり、一般に流通することはできないであろう。ある金鋳貨が五分の一オンスの重さしかないのに、流通では四分の一オンスとして通用するならば、そのかぎりこの金鋳貨は実際上二〇分の一オンスの金にたいしては単なる表章または象徴となっているのである、このようにしてすべての金鋳貨は流通過程そのものをとおして多かれ少かれその実体のただの表章または象徴に転化される。だがどんなものでも自分自身の象徴になることはできない。絵にかかれたぶどうは実際のぶどうの象徴ではなくて、みせかけのぶどうである。だがそれ以上に、軽いソヴリン貨はじゅうぶんな重さのソヴリン貨の象徴ではありえない。それは、ちょうどやせた馬がこえた馬の象徴ではありえないのと同じである。こうして、金は自分自身の象徴となるが、しかも自分自身の象徴としてのはたらきをすることはできない、そこで、金がもっともはやく摩滅する流通の範囲、つまり購買と販売がごく小さな割合でたえずくりかえされる範囲では、金は、金としての定在から分離された象徴的な、銀なり銅なりの定在をえるようになる。たとえ同じ金片ではないにしても、いつも金貨全体のなかのある一定の割合のものが、鋳貨としてこの範囲をかけまわっているはずである。この割合だけ、金は銀なり銅なりの徴標によっておきかえられる。こうして一国の内部では、価値の尺度としては、したがってまた貨幣としては、ただ特殊な一商品だけが機能できるにすぎないが、この貨幣とならんでさまざまな商品が鋳貨としてのはたらきをすることができるのである。これらの補助的な流通手段、たとえば銀徴標や銅徴標は、流通の内部で金鋳貨の一定の部分を代表する。だからそれらの鋳貨自身の銀実質や銅実質は、銀や銅の金にたいする比例によってきめられるのではなくて、法律によって勝手に決定されるのである。これらの徴標は、それによって代表されている金鋳貨の微小な諸片が、より高額の金鋳貨と交換されるためにせよ、またそれに相応する少額の商品価格を実現するためにせよ、たえず通流するだろうと見られる量にかぎって発行されうるにすぎない。さらに商品の小売流通の内部では、銀徴標と銅徴標とはそれぞれ特定の〔通流〕領域に属するであろう。このような徴標の通流速度は、事の性質上、それがそれぞれ個々の購買や販売で実現する価格に、または金鋳貨のうちそれが表象している部分の大きさに反比例する。イギリスのようなある一国でどれほど莫大な量の日常の小取引がおこなわれているかをおもえば、流通している補助鋳貨の総量の割合が相対的に小さいということは、その通流がどれほどはやくたえまなくおこなわれているかをしめすものである。たとえば最近発表された議会の報告書によれば、一八五七年にはイギリスの造幣局は四、八五九千ポンドにのぼる金を鋳造し、名目価値は七三三千ポンドで金属価値は三六三千ポンドの銀を鋳造している。一八五七年一二月三一日におわる一〇年間に鋳造された金の総額は、五五、二三九千ポンドであり、銀の総額はわずかに二、四三四千ポンドであった。銅貨は一八五七年には、名目価値わずかに六、二七〇ポンド、銅価値三、四九二ポンドにのぼったにすぎず、しかもそのうち三、一三六ポンドは一ペンス、二、四六四ポンドは半ペンス、一、一二〇ポンドはファージング貨であった。過去一〇年間に鋳造された銅貨の総価値は、名目価値一四一、四七七ポンドで金属価値七三、五〇三ポンドであった。金鋳貨は、それから貨幣たる資格をうばう金属減失〔の限度〕を法律で規定することによって、いつまでも鋳貨として機能することのないようにされているのであるが、逆に銀徴標や銅徴標は、それらが法律上実現できる価格の程度が規定されており、これによって、各自の流通領域から金鋳貨の流通領域にうつって、貨幣として固定しないようにされている。たとえばイギリスでは、支払いをうけるさいに、銅貨はただ六ペンスの額まで、銀貨はただ四〇シリングの額までしかうけとる義務はない。かりに銀徴標や銅徴標がそれらの流通領域で必要とされるよりも多量に発行されたとしても、そのために商品価格が騰貴するようなことはなく、むしろこれらの徴標は小商人たちの手もとに蓄積されることになるであろう、そしてかれらは、ついにはそれを金属として売らざるをえないであろう。こうして一七九八年には、私人によって発行されたイギリスの銅貨が、小売商人のもとに二〇、三五〇ポンドも蓄積され、かれらはそれをふたたび通流させようとしたがうまくいかないので、結局商品として銅市場になげだすほかなくなったのである(77)。
(77) デイヴィッド・ブキャナン『スミス博士の諸国民の富に関する研究のなかで論じられた諸問題についての考察』、エディンバラ、一八一四年、三頁。
国内流通の一定の領域で金鋳貨を代表する銀徴標と銅徴標とは、法定の銀実質や銅実質をもってはいるが、流通にまきこまれると、金鋳貨と同じように摩滅し、かつ観念化され、その流通がはやくてたえまないだけに、〔金鋳貨よりも〕いっそうはやく単なる影のからだとなる。ところで、もしここでふたたび金属喪失の限界線がひかれて、その線までさがると銀徴標や銅徴標がその鋳貨たる性格を失うものとすると、それらの徴標は、自己固有の流通領域のうちの一定の範囲内においては、さらにほかの象徴的貨幣、たとえば鉄や鉛におきかえられなければならないことになり、このようにある象徴的貨幣をほかの象徴的貨幣によってあらわすことが、どこまでもはてしなくつづくことになるであろう。だから流通の発達したすべての国々では、貨幣流通の必要そのものから、銀徴標や銅徴標の鋳貨たる性格は、それらの徴標の金属減失の程度とはまったく関係がないものとせざるをえないのである。これによって、そうした徴標が金鋳貨の象徴であるのは、それが銀なり銅なりでつくられた徴標であるからでもなければ、それがある価値をもっているからでもなく、かえってなんらの価値をももっていないからこそそうなのだということがあきらかになるが、これは事の性質上当然のことなのである。
こうして紙券のように相対的に無価値なものが、金貨の象徴として機能することができるのである。補助貨幣が銀や銅などの金属徴標からなりたっているのは、おもにつぎの事情、つまりイングランドでの銀、古代ローマ共和国、スエーデン、スコットランド等での銅のように、多くの国々では、はじめは価値の小さい金属が貨幣*として流通していたのに、あとになって流通過程がそれを補助貨幣の地位にひきおろし、そのかわりにより高貴な金属を貨幣にしたという事情からきている。なおまた、金属流通から直接に生ずる貨幣象徴がまずそれ自身もまたひとつの金属であるというのも、事柄からいって当然のことである。金の一部がいつも補助貨として流通しなければならないとすれば、その部分は金属徴標によっておきかえられるが、それと同じように、いつも国内流通の領域に鋳貨として吸収され、そのためにたえず通流しなければならない金の一部は、無価値な徴標によっておきかえられることができる。通流する鋳貨の数量がそれ以下にはけっしてさがらないという水準は、どの国でも経験的にあたえられている。そこで、金属鋳貨の名目的内容と金属実質とのあいだの最初は目だたない相違が、絶対的分離にまですすむことができるのである。貨幣の鋳貨名はその実体からはなれ、それとは別に価値のない紙幣の形で実在するようになる。諸商品の交換価値がその交換過程をつうじて金貨に結晶するように、金貨は通流のなかで自分自身の象徴に昇華し、まず摩滅した金鋳貨の形態をとり、つぎには補助金属貨幣の形態をとり、そしてついには無価値な徴標の、紙幣の、つまり単なる価値表章の形態をとるのである。
* 第一版では金となっていたが、自用本第一と第二によって訂正。 ――編集者。
しかし金鋳貨が、まず金属の、つぎに紙の代理物をつくりだしたのは、それが金属を減失したにもかかわらず、鋳貨として機能することをやめなかったからにほかならない。それは摩滅したから流通したのではなく、流通しつづけたから摩滅して象徴になったのである。〔流通〕過程の内部で金貨そのものが自分自身の価値の単なる表章となるかぎりにおいてのみ、単なる価値表章が金貨にとってかわることができるのである。運動 W―G―W が直接たがいに転形しあうふたつの要因 W―G と G―W との過程的統一であるかぎり、いいかえれば商品がその総変態の過程を通過するかぎり、商品がその交換価値を価格の形で、そしてまた貨幣の形で展開するのは、すぐにこの形態をふたたび止揚して、ふたたび商品に、あるいはむしろ使用価値になるためである。だから商品のめざすことは、ただその交換価値をうわべだけ独立化することにすぎない。他方ではすでにみたように、金は、ただ鋳貨として機能するかぎり、またはたえず流通しているかぎり、実は、ただ商品の変態の連鎖と商品の単に一時的な貨幣存在とをあらわすだけであり、ただほかの商品の価格を実現するだけのために、ある商品の価格を実現するにすぎないのであって、どこにも交換価値の休止的な定在として、ないしそれ自身休止した商品としてあらわれることはない。商品の交換価値がこの過程のうちでうけとり、金がその通流であらわす実在性は、ただ電気火花のような実在性にすぎない。金は、それがたとえ現実の金であるとしても、ただうわべだけの金として機能するにすぎず、またそれだからこそこの機能においては、自分自身の表章によっておきかえられるうるのである。
鋳貨として機能する価値表章、たとえば紙券は、その鋳貨名に表現されている量の金の表章、したがって金表章である。一定量の金がそのものとしては価値関係を表現しないのと同じように、そのかわりをする表章もまた価値関係を表現してはいない。一定量の金は対象化された労働時間として一定の価値の大きさをもっているのであるが、そのかぎりでは金表章も価値を表示しているわけである。だが金表章によって表示される価値の大きさは、いつもそれによって表示される金量の価値に依存している。価値表章は、諸商品にたいしては、それらの価格の実在性を表示しているのであって、signum preti《価格の表章》である。しかもそれが諸商品の価値の表章であるのは、諸商品の価値が価格に表現されているからにほかならない。過程 W―G―W は、それがふたつの変態の単なる過程的統一ないし直接の相互転形としてあらわれるかぎり、――そしてまたそれは価値表章が機能する流通領域では、かかるものとしてあらわれるのであるが――、商品の交換価値は、価格ではただ観念的な実在だけを、貨幣ではただ表象された象徴的な実在をうけとる。こうして交換価値はただ考えられたもの、または物的に表象されたものとしてのみあらわれるのであり、しかもそれは、ある一定量の労働時間が諸商品に対象化されているかぎり、金の表章としてはあらわれず、価格にただ表現されているだけで、〔実は〕商品のうちにのみ現存する交換価値の表章としてあらわれ、これによって、商品の価値を直接に代表しているかのようにみえる。だがこういう外観はまちがっている。価値表章は、直接にはただ価格表章であり、したがって金表章であって、ただまわり道をすることによってのみ商品の価値の表章であるにすぎない。金は、ペーター・シュレミール〔シャミッソーの小説『影を失った男』の主人公〕のようにその影を売ってしまったのではなくて、その影で買うのである。だから価値表章は、〔流通〕過程の内部で一商品の価格をほかの商品にたいして表示し、あるいはおのおのの商品所有者にたいして金を表示するかぎりにおいてのみ作用するにすぎない。相対的に無価値なある一定のもの、皮片、紙片等々は、まず習慣によって貨幣材料の表章となるのであるが、しかしそれがこうした表章として自己を主張するのは、ただその象徴としての定在が商品所有者たちの一般的意志によって保証されるからにほかならず、つまりそれが法律上慣習的な定在を、したがって強制通用力をもつからにほかならない。強制通用力をもつ国家紙幣は、価値表章の完成された形態であり、しかも金属流通または単純な商品流通そのものから直接に生ずる紙幣の唯一の形態である。信用貨幣は、社会的生産過程のさらに高い段階に属するもので、まったく別の法則によって規制される。象徴的紙幣は、事実上すこしも補助金属鋳貨とちがうものではなく、ただより広い流通領域で作用するだけである。価格の度量標準または鋳貨価格の単なる技術的発達と、さらに金地金の金鋳貨への外面的な変形とは、それだけで国家の干渉をまねき、それによって国内流通が一般的商品流通からはっきり分離したのであるが、この分離は、鋳貨の価値表章への発展によって完成される。単なる流通手段としては、貨幣は、一般にただ国内流通の領域内においてのみ成立しうるにすぎない。
いままでのべたことからあきらかなように、金の実体そのものからはなれた価値表章としての金の鋳貨定在は、流通過程そのものから発生するのであって、合意や国家干渉から発生するのではない。ロシアは価値表章の自然発生的成立の適切な実例をみせてくれる。獣皮と毛皮製品がそこで貨幣として役だっていたころ、このいたみやすくて取扱いに不便な材料と流通手段としてのその機能との矛盾は、刻印をおした皮の小片をそのかわりにつかう習慣をうみだし、こうしてこの皮の小片は、獣皮や毛皮製品で支払われる指図証券(さしずしょうけん)となった。そのごこの皮の小片は、コペックというよび名のもとに銀ルーブリの一部にたいするただの表章となり、地方によっては、一七〇〇年にピョートル大帝がそれを国家の発行した小銅貨とひきかえに回収するように命じるまで使用されていた(78)。古代の著作家たちは、金属流通の現象しか観察することができなかったが、金鋳貨をすでに象徴または価値表章として把握していた。プラトン(79)もアリストテレス(80)もそうであった。中国のようにまったく信用の発達していない国々では、強制通用力をもった紙幣がすでにはやくから存在していた(81)。そしてまた比較的初期の紙幣の弁護論者のばあいでも、金鋳貨の価値表章への転化が流通過程そのもののうちで発生するということが、あきらかに指摘されている。たとえばベンジャミン・フランクリン(82)とバークレー司教(83)がそうである。
(78) ヘンリー・シュトルヒ『経済学教程……』、J・B・セーの註釈本、パリ、一八二三年、第四巻、七九頁、シュトルヒはかれの著作をフランス語でかきペテルスブルクで公刊した。J・B・セーはすぐ「註」と称するものをつけてパリ翻刻版をだしたが、この註は、実のところきまり文句以外のなにものもふくんではいない。シュトルヒは自分の著作に「科学の王子」がくわえたつけたしをありがたくうけとってはいない。(かれの『国民所得の性質に関する諸考察』、パリ、一八二四年をみよ。)
(79) プラトン『国家について』、第二部。「鋳貨は交換の象徴である。」(G・ストールビュミアス編『全集』、ロンドン、一八五〇年、三〇四頁。)プラトンは、貨幣を価値尺度および価値表章というふたつの規定においてしか展開していない。しかしかれは、国内流通にやくだつ価値表章のほかに、ギリシャと外国との交易にやくだつもうひとつの価値表章をもとめている。(かれの『法律論』、第五部をも参照せよ。)
(80) アリストテレス(『ニコマコス倫理学』、第五部、第八章《九八頁》。)「貨幣は合意によっておたがいの欲求の唯一の購買手段となった。そして貨幣が法貨《νομισμα》というよび名をもっているのは、それが自然に成立するものではなくて、法律《νομψ》によってはじめて成立するものであり、かつ、これを変更したり無効にしたりすることが自由だからである。」アリストテレスは、プラトンよりもはるかに多方面からまたふかくほりさげて貨幣を把握していた。つぎの一節で、かれは、さまざまな共同体のあいだの交換取引から、どのようにして特殊な商品に、したがってそれ自身価値をもった実体に貨幣の性格をあたえる必要が発生するかを、みごとに論述している。「なぜなら不足物の輸入と過剰物の輸出とをつうじておこなわれる相互援助がかなり遠くにまでおよぶようになったとき、どうしても必要であることから貨幣が使用されるようになった。……ひとびとは、かれらのおたがいの交換で、それ自身なにか価値をもっており、使用するにも手ごろだという長所をもつもの、……たとえば鉄や銀やその他これに類するもの以外は、いっさいやりとりしないことに同意するにいたった。」(アリストテレス『国家について』、第一部、第九章、前掲書《一四頁》。)ミシェル・シュヴァリエは、アリストテレスを読んだことがないのか、それとも読んでもわからなかったのか、この句を引用しておいて、アリストテレスの見解によれば、流通手段はそれ自身価値のある実体からできていなければならないのだということを証明しようとしている。アリストテレスはむしろ、単なる流通手段としての貨幣は、すでにその《νομισμα〔法貨〕という》よび名がしめすように、また実際それがその鋳貨としての使用価値をうけとるのは、ただその機能そのものからだけであって、それ自身からではないということからもわかるように、単に習慣的な、もしくは法律的な定在をもつにすぎないようにみえる、と明言している。「貨幣は架空のものであり、一から十まで法律によって生じ、自然に生ずるものではないように見える。だからそれは流通のそとにおかれれば、なんの価値をももたずどんな必要なことにも役にたたない。」(前掲書《一五頁》。)
(81) マンデヴィル(サー・ジョン)『航海と旅行』、ロンドン、一七〇五年版、一〇五頁。「この(カタイつまり中国の)皇帝はすきなだけ、無制限につかうことができる。なぜならかれが使ったりつくったりするのは、捺印した革か紙の貨幣にすぎないからである。そしてこの貨幣がながく通流して摩損しはじめると、ひとびとはそれを皇帝の国庫にもっていって、古い貨幣とひきかえに新しいのをうけとる。こうしてこの貨幣は、国内の津々浦々までも通流する。……貨幣は金からも銀からもつくられない。」そしてマンヴィルは「だから皇帝は、いつもあらたに、しかもありあまるほど支出することができる。」と考えた。
(82) ベンジャミン・フランクリン『アメリカの紙幣についての批判と事実』、一七六四年、前掲書、三四八頁。「現在なおイギリスの銀貨でさえ、その価値の一部分は強制的に法定支払手段とされている。その一部分とはその実際の重さとそのよばれる価値との差にあたる部分である。現在通流しているシリング貨と六ペンス貨の大部分は摩滅によって五パーセントも一〇パーセントも二〇パーセントも、そして六ペンス貨のあるものにいたっては五〇パーセントも軽くなっている。真実価値と名目価値とのこの差にたいしてはなんの内在的価値もない、紙さえもなく、なにひとつないのである。三ペンスの値しかない銀貨を六ペンス貨として通用させるのは、それを容易にまた同じ価値とひきかえに渡してゆくことができるという意識とむすびついた法的な通用力である。」
(83) バークレー『質問者』、《ロンドン、一七五〇年、三頁。》「鋳貨の金属がまったくなくなったのちも、そのよび名さえたもたれるとすれば、やはり商業の流通は存続するのではなかろうか?」
どのくらいの量の紙が、小片に切断され、貨幣として流通しうるか? こういう問題のたてかたをするのはおろかなことであろう。無価値の徴標が価値表章であるのは、ただそれが流通過程の内部で金を代理するかぎりにおいてであり、しかもそれが金を代理するのは、ただ金そのものが鋳貨として流通過程にはいりこむであろうかぎりにおいて、いいかえれば、商品の交換価値とその変態の速度とがあたえられているとすれば、ただ金自身の価値で規定される量を限度としてのことである。五ポンドのよび名をもつ紙幣は、一ポンドのよび名をもつ紙幣の数の五分の一だけしか流通しないであろうし、またすべての支払がシリング券でなされるものとすれば、ポンド券の二〇倍の数のシリング券が流通しなければならないであろう。金鋳貨がさまざまなよび名の紙幣、たとえば五ポンド券、一ポンド券、一〇シリング券によって代表されるとすれば、これらのさまざまな種類の価値表章の量は、総流通に必要な金の量に規定されるだけでなく、それぞれ特定の種類の流通範囲のために必要な金の量によっても規定されるであろう。もし一四百万ポンド(これはイギリスの銀行条例の仮定である、ただし鋳貨についての仮定ではなく、信用貨幣についての仮定である)をもってある国の流通がそれ以下にはけっしてさがらない水準であるとすれば、それぞれ一ポンドの価値表章である紙幣が一四百万枚流通できるであろう。金の生産に必要な労働時間が減少するか増加したために、金の価値が低下するか騰貴したとすれば、流通しているポンド券の数は、商品総量が同じで交換価値がもとのままであるかぎり、金の価値変動に反比例して増減するであろう。価値の尺度としての金が銀にとってかわられ、銀の金にたいする比価が一対一五であり、そののちはそれぞれの紙幣がそれまで代表していたのと同じ量の銀を代表するものとすれば、それからは一四百万枚のかわりに二一〇万枚のポンド券が流通しなければならないであろう。こうして紙幣は金貨を代理するかぎりでだけ価値表章なのだから、紙幣の価値は単にその量によって規定されることになる。だから流通する金の量は商品価格にかかるのに、流通する紙幣の価値は逆にもっぱらそれ自身の量にかかることになる。
強制通用力をもった紙幣――しかもわれわれはただこのような紙幣についてだけ論じているのであるが――これを発行する国家の干渉は、経済法則を止揚するかのようにみえる。国家は、鋳貨価格においては一定の金の重さに洗礼名をあたえるだけであり、貨幣鋳造においては金にかれの刻印をおしただけであったが、いまやその刻印の魔術によって紙を金に転化させるかのようにみえる。紙幣は強制通用力をもっているから、国家が勝手に多量の紙幣を流通におしつけ、一ポンド、五ポンド、二〇ポンドというような任意の鋳貨名をそれに刻印することを、だれもさまたげることはできない、ひとたび流通になげいれられた紙幣を、そこからなげだすことは不可能である、なぜならばその国の境界線が紙幣の進路をさまたげており、また紙幣は流通のそとではあらゆる価値を、使用価値も交換価値もうしなうからである。紙幣はその機能上の定在をはなれると、なんの価値もない紙くずに転化する。だが国家のこのような権力は、ただみかけだけのものにすぎない。国家は、任意の鋳貨名をもった紙幣を、すきな量だけ流通になげこむことができるであろう。だが国家の統制はこの機械的行為をもっておわる。流通にまきこまれると、価値表章または紙幣は、それに内在する諸法則に支配されるのである。
いまもし商品流通のために必要な金の総額が一四百万ポンドであり、しかも国家がおのおの一ポンドのよび名をもつ二一〇百万枚の紙幣を流通になげいれるとすれば、この二一〇百万枚の紙幣は、一四百万ポンドの額の金の代表者に転化されることになるであろう。これは、国家がポンド券を以前の一五分の一の価値しかない金属の代表者にしたばあいか、あるいは以前の一五分の一の重さしかない金の代表者にしたばあいとおなじであろう。価格の度量標準の名づけかた以外にはなにひとつかわっていないわけである。この名づけかたはいうまでもなく習慣上のものであって、その変動が、鋳貨の金位の変動によって直接に生じようとも、あらたなより低い度量標準にとって必要な数だけ紙幣片を増加することによって間接に生じようとも、どちらでもさしつかえはない。いまやポンドというよび名はいままでの一五分の一の金量をさししめすものであるから、すべての商品価格は一五倍に騰貴し、こんどは事実上二一〇百万枚のポンド券が、これまで一四百万枚のポンド券が必要であったのとまったく同じように、必要となるであろう。価値表章の総額が増加すれば、それと同じ割合で、それぞれひとつの表章の代表している金の量は減少するであろう。価格の騰貴は、価値表章がかわりに流通すると称する金の量に、その価値表章をむりやりに等置する流通過程の反作用にほかならないであろう。
イギリスやフランスやの、政府による貨幣悪鋳の歴史をみると、価格が銀貨の悪化されたのと同じ比率では騰貴しなかったことが、しばしば見いだされる。これはもっぱら、鋳貨の増加された比率が、それが悪化された比率におよばなかったことによるものである、つまり商品の交換価値は、そのごは価値の尺度としてのこのより低い金属混合で評価され、この低い度量単位に相応する鋳貨によって実現されるはずであったのに、その金属混合がそれに相応する数量だけ発行されなかったからである。このことは、ロックとラウンズとの論争で解決されなかった困難を解決するものである。紙券にせよ悪鋳された金や銀にせよ、価値表章が、鋳貨価格にしたがって検査された金や銀の重さを代理する比率は、それ自身材料によってきまるのではなくて、流通にあるその量によってきまるのである。だからこの関係を理解することが困難なのは、貨幣が価値の尺度および流通手段というふたつの機能をはたすにあたって、単にあべこべであるばかりでなく、このふたつの機能の対立と一見矛盾するような法則にしたがっていることによるものである。貨幣がただ計算貨幣としてだけ役だち、金がただ観念的な金としてだけ役だつにすぎない価値の尺度としての貨幣の機能にとっては*、すべてがその自然的材料にかかっている。交換価値は、銀で評価されたばあいには、つまり銀価格としては、金で評価されたばあい、つまり金価格としてのそれと、まったくちがったものとしてあらわされることはいうまでもない。逆に、貨幣が単に表象されているだけではなく、現実のものとしてほかの商品とならんで存在しなければならない流通手段としての貨幣の機能においては、その材料はどうでもよいのであって、すべてはその量にかかっている。度量単位にとっては、それが一ポンドの金であるか、銀であるか、あるいは銅であるかがが決定的である、ところが、鋳貨にこれらおのおのの度量単位をそれ相応に実現させるものは、単なる数であって、鋳貨自身の材料がなんであろうとかまわない。だが、ただ考えられただけの貨幣にあってはすべてがその物質的な実体にかかり、感覚的に現存する鋳貨にあってはすべてが観念的な数的関係にかかるということは、ふつうのひとが理解していることとは矛盾するのである。
* 貨幣の機能にとっては、という句は自用本第一で挿入されたものである。 ――編集者。
したがって紙幣総量の増減――ただし紙幣が唯一の流通手段であるばあいのそれ――にともなう商品価格の騰落は、流通する金の量は商品の価格によって規定され、流通する価値表章の量はそれが流通で代理する金鋳貨の量によって規定されるという法則が、外部から機械的にやぶられたばあいに、流通過程によってむりやりになしとげられたこの法則の貫徹にほかならない。だから他方では、どんな数量の紙幣でも流通過程によって吸収され、いわば消化される、なぜならば価値表章は、それがどういう金名義をもって流通過程にはいってこようとも、流通過程の内部では、〔この価値表章がないばあいに〕それにかわって流通するはずの金量の表章にまで圧縮されるからである。
価値表章の流通では、真実の貨幣流通のすべての法則が、あべこべに、さかだちをしてあらわれる。金は価値をもつから流通するのであるが、紙幣は流通するから価値をもつのである。商品の交換価値があたえられているばあい、流通する金の量はそれ自身の価値にかかるのに、紙幣の価値は流通するその量にかかる。流通する金の量は商品価格の騰落につれて増減するが、商品価格は流通する紙幣の量の変動につれて騰落するようにみえる。商品流通はただ一定量の金鋳貨を吸収することができるだけであり、したがって流通している貨幣が交互に収縮したり膨張したりすることが必然的な法則としてあらわれるのに、紙幣はどんなにたくさんだされても流通にはいってゆくようにみえる。国家は、その名目内容をわずかに一〇〇分の一だけ下まわる鋳貨を発行しても、金銀鋳貨を悪鋳し、そのために流通手段としてのその機能をかきみだすことになるのに、鋳貨名のほかには金属となんの関係もない無価値の紙幣を発行しても、まったく正しい操作をしたことになる。金鋳貨は、あきらかに商品の価値そのものが金で評価されるかぎりにおいて、いいかえれば価格としてあらわされるかぎりにおいてのみ、商品の価値を代表するのであるが、価値表章は、商品の価値を直接に代表するようにみえる。このことから、貨幣流通の諸現象を、一面的に、強制通用力をもった紙幣の流通に即して研究した観察者たちが、なぜ貨幣流通のすべての内在的法則を見まちがえざるをえなかったかがあきらかとなる。実際これらの諸法則は、価値表章の流通においては、ただあべこべにあらわれるばかりでなく、消えさったようにみえるのである。なぜならば紙幣は、正しい量で発行されるときには、価値表章としての紙幣に特有のものでない運動をする一方、紙幣に特有な運動は、商品の変態からは直接生ぜずに、金にたいする紙幣の正しい割合がやぶられることから生ずるものだからである。
−p.157, l.15−
W―G―W という形態をとる流通過程の結果である、鋳貨と区別したばあいの貨幣は、 G―W―G、つまり商品を貨幣と交換するために貨幣を商品と交換するという形態をとる流通過程の出発点をなしている。 W―G―W という形態では商品が、G―W―G という形態では貨幣が、運動の出発点と到達点をなしている。はじめの形態では貨幣が商品交換の媒介をするのに、あとの形態では貨幣が貨幣になるのを商品が媒介している。はじめの形態では流通のただの手段としてあらわれる貨幣は、あとの形態では流通の終局目標としてあらわれる。他方、はじめの形態で終局目標としてあらわれる商品は、第二の形態ではただの手段としてあらわれる。貨幣そのものがすでに流通 W―G―W の結果なのだから、G―W―G の形態では、流通の結果が同時にその出発点としてあらわれる。 W―G―W ではその実際の内容を形づくっているのは素材転換であるが、第二の形態 G―W―G の実際の内容を形づくっているのは、このはじめの過程からでてきた商品の形態定在そのものである。
W―G―W という形態では、その両極は同じ大きさの価値の商品であるが、しかし同時に、質的にちがう使用価値である。これらのものの交換 W―W は、実際の素材転換である。これにたいして G―W―G という形態では、その両極は金であり、しかも同じ大きさの価値の金である。商品を金と交換するために金を商品と交換すること、あるいはその結果である G―G をみるならば、金を金と交換することは、ばかげたことのようにおもわれる。だがもし G―W―G を、媒介する運動をつうじて金と金とを交換することを意味するにほかならない、売るために買うという公式に翻訳するならば、〔そこには〕ただちにブルジョア的生産の支配的形態がみとめられるであろう。しかも実際には、売るために買うのではなく、高く売るために買うのである。貨幣が商品と交換されるのは、この同じ商品をふたたびもっと大きい量の貨幣と交換するためであるから、両極のGとGとは、質的にはちがっていなくても、量的にはちがっているわけである。このような量的区別は非等価物の交換を前提している。だが他方、商品と貨幣とは、そのものとしてみると、単に商品自身の対立的形態、つまり同じ大きさの価値のちがったあり方にすぎない。だから G―W―G という循環は、貨幣と商品という形態のもとにいっそう発展した生産諸関係を蔵しているのであり、単純流通の内部では、ただいっそう高度の運動の反映であるにすぎない。そこでわれわれは、流通手段とは区別される貨幣を、商品流通の直接の形態である G―W―G から展開しなくてはならない。
金、つまり価値の尺度として、また流通手段として役だつ特殊な商品は、社会のそれ以上の助けがなくても貨幣となる。銀が価値の尺度でもなく支配的な流通手段でもないイギリスでは、銀は貨幣とはならない、それとまったく同様に、金もオランダでは、価値尺度としての地位をうばわれるとすぐさま貨幣ではなくなった。だからある商品は、まず、価値尺度と流通手段との統一として貨幣になるのであり、いいかえれば、価値尺度と流通手段との統一が貨幣なのである。だが金は、このような統一としては、さらに、これらふたつの機能におけるその定在とはちがった、独立の実在をもっている。金は、価値の尺度としては、ただ観念的な貨幣であり、観念的な金であるにすぎない、また、単なる流通手段としては、象徴的な貨幣であり、象徴的な金である。けれどもその単純な金属としてのなまのからだでは、金は貨幣であり、また貨幣は現実の金なのである。
さてしばらくのあいだわれわれは、休止している商品たる金すなわち貨幣を、ほかの諸商品との関係のなかで考察しよう。すべての商品はその価格でもって一定額の金を表象しているから、それらの商品は、単に表象された金ないし表象された貨幣、すなわち金の代表物にすぎない、それは、逆に価値表章においては、貨幣が商品価格の単に代表物としてあらわれたのとまったく同様である(84)。このようにすべての商品はただ表象された貨幣にほかならないのだから、貨幣が唯一の現実的な商品である。交換価値の、一般的社会的労働の、抽象的富の、独立の定在をただ表象しているにすぎない商品にたいして、金は、抽象的富の物質的な定在である。使用価値の面からいえば、どの商品も、特定の欲望にたいする関連をつうじて、ただ素材的な富の一要因を、つまり富のただ個別化された面だけを表現するにすぎない。しかし貨幣は、どんな欲望の対象にも直接転化することができ、そのかぎりではどんな欲望でもみたすものである。貨幣自身の使用価値は、その等価物を形づくる諸使用価値の無限の系列という形で実現されている。貨幣は、その無垢(むく)の金属性のなかに、商品世界でくりひろげられているいっさいの素材的な富を封じこんでいる。こうして、商品が、その価格でもって、一般的等価物ないし抽象的富である金を代表しているとすれば、金は、その使用価値でもって、あらゆる商品の使用価値を代表しているのである。したがって金は、素材的な富の物質的代表物なのである。それは、précis de toutes choses《すべてのものの要約》(ボアギュベール)であり、社会的富の総括である。同時にまたそれは、形態からいえば一般的労働の直接の化身(けしん)であり、内容からいえばすべての現実的労働の精髄(せいずい)である。それは個体としての一般的富である(85)。流通の媒介者としての姿では、金は、ありとあらゆる侮辱をこうむり、けずりとられ、そしてただの象徴的な紙きれになるまでうすくされさえした。だが貨幣としては、これにその金色の栄光がかえしあたえられる。それは奴僕から主人になる(86)。それはただの下働きから諸商品の神となるのである(87)。
(84) 「貴金属がものの表章であるばかりでなく、……反対にものは……金と銀との表章である。」(A・ジェノヴェシ『市民経済学講義』(一八七五年)、クストディ編、近世の部、第八巻、二八一頁。)
(85) パティ、金と銀とは「普遍的な富」である。前掲『政治算術』、二四二頁。〔前掲、訳本、一一五頁。〕
(86) E・ミッスルデン『自由貿易論、または貿易を振興……するための方策』、ロンドン、一六二二年。「商業の自然的な材料はうりもの(マーチャンダイズ)であるが、それを商人たちは取引上の理由から商品(コモディティー)とよんできた。商業の人為的素材は貨幣であるが、この貨幣には戦争と国家との神経という称号があたえられている。貨幣は、その性質からいっても、また時間的にも、うりもののあとからくるものであるにもかかわらず、現に用いられているかぎりでは、中心的な事物となっている。」(七頁)かれは、商品と貨幣とを、「その右手を下の息子に、左手を上の息子にかけている老ヤコブのあの二人の息子」(同上)にたとえている。前掲、ボアギュベール『富の性質……にかんする研究』。「こうして商業の奴隷は、ここではその主人となっている。……諸国民の貧困は、奴隷であったものを主人に、いなむしろ暴君にしたことからもっぱら生じている。」(三九九、三九五頁)
(87) ボアギュベール『富の性質……にかんする研究』。「ひとはこれら金属(金と銀)をひとつの偶像にした。そしてそのときから、それらを商業にもちこんだ目的と意図、つまり交換とおたがいの引渡しにさいして担保として役だたせるという目的と意図を放棄してしまうことによって、金銀をほとんどその役目から解放してこれを神格とした。そしてこの神格にたいして、蒙昧な古代でさえそのいつわりの神々のいけにえにしたことがないほど多くの財物や貴重な必要物や、さらには人間をさえもいけにえにしてきたし、いまもなおいけにえにしている。……」(前掲書、三九五頁)
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商品がその変態の過程を中断し、金のさなぎになったままでいることによって、金はまず貨幣として流通手段から分離した。このことは販売が購買に*転換しないときにはいつでもすぐに生ずる。だから金が貨幣として独立化するということは、なによりもまず、流通過程または商品の変態が、ふたつの分離された、たがいに無関係に併存する行為に分裂しているということの明白な表現である。鋳貨そのものは、その動きが中断されるとすぐ貨幣になる。鋳貨は、商品を売ってそれをえた売手の手中にあるときは、貨幣であって鋳貨ではないが、かれの手をはなれるやいなや、ふたたび鋳貨となる。ひとはいずれも、かれが生産するある一種類の商品の売手であるが、しかもまた、かれが社会的生存のために必要とするほかのすべての商品の買手でもある。売手としてのかれの登場は、かれの商品の生産に必要な労働時間にかかっているのに、買手としてのかれの登場は、かれの生活必需品がたえず更新するという事実によって制約されている。売らずに買うことができるためには、かれは、買わずに売っていなくてはならない。事実、流通 W―G―W は、販売と購買との過程的統一であるにすぎない、そのかぎりでは、流通はまた同時に、こうした分裂の不断の過程でもある。貨幣が鋳貨としてたえず流れるためには、鋳貨はたえず貨幣に凝結しなければならない。鋳貨のたえまない通流の条件をなすものは、鋳貨が、流通のなかのいたるところで発生しながら流通を制約する鋳貨準備金という形をとって、大なり小なりの割合でたえず停滞することであるが、この準備金の形成、配分、解消および再形成はつねに変化し、その定在はたえず消滅し、その消滅はたえず定在する。アダム・スミスは、鋳貨の貨幣への、および貨幣の鋳貨へのこのたえまない転化を、つぎのように表現している、どの商品所有者も、かれが売る特定の商品とならんで、かれが買うためにもちいる一般的商品の一定額を、つねに用意していなくてはならない、と。すでにみたように、流通 W―G―W では、第二環 G―W は、一時におこなわれないで時間的にあいついでおこなわれる一連の購買に分裂するから、Gの一部分は鋳貨として通流するのに、ほかの部分は貨幣として休止する。このばあい貨幣は、事実上、停止させられた鋳貨にほかならず、通流している鋳貨量の個々の構成部分は、ときには一方の、ときには他方の形態で、たえずいれかわってあらわれる。だから、このような流通手段の貨幣への第一の転化は、貨幣流通そのものの単に技術的な要因をあらわしているだけなのである(88)。
(88) ボアギュベールは、永久運動の最初の停止、すなわち貨幣の流通手段としての機能上の定在が否定されることをみて、ただちに、備品にたいする貨幣の独立化をかぎつけている。かれはいう。貨幣は「たえず運動して」いなければならない、そして、「そのことは貨幣が動きうるかぎり可能であるが、動かなくなるとたちまちすべてがだめになる。」(『フランス詳論』、二一三頁。)かれがみのがしているのは、この静止が貨幣の運動の条件だということである。かれが実際にいおうとしたことは、商品の交換価値(88a)がそれらの素材転換のただ一時的な形態としてあらわれ、けっして自己目的として固定するものではない、ということである。
(88a) 商品の価値形態というべきである。《自用本第一の註》
* 第一版では購買が販売に、となっていた。自用本第と第二では訂正されている。 ――編集者。
富が自然に発生してくる最初の形態は、過剰または剰余という形態であり、生産物のうち使用価値として直接必要とされない部分であり、あるいはまたその使用価値が単なる必需の範囲をこえるような生産物の所有である。商品から貨幣への移行を考察したさいにみたように、生産物のこのような過剰または剰余は、未発展の生産段階にあっては、商品交換の本来の領域をなすものである。過剰な生産物が、交換できる生産物すなわち商品となるのである。この過剰の適当な実在形態が金銀であり、金銀は、富が抽象的社会的な富として確保される最初の形態である。商品がただ単に金または銀の形態で、すなわち貨幣の材料で保存されうるというだけではなく、金銀が保全された形態にある富なのである。どの使用価値も使用価値としては、消費されることによって、つまりなくされることによって、そのつとめをはたすわけである。だが貨幣としての金の使用価値は、それが交換価値の担い手であることであり、形態のない素材として一般的労働時間の体化物であることである。形態のない金属として、交換価値は不滅の形態をもつのである。このように貨幣として不動化された金または銀が、蓄蔵貨幣なのである。古代人のばあいのように、純粋な金属流通がおこなわれていた民族にあっては、貨幣蓄積は、個々人から国家にいたるまですべてのものによってなされたことであり、国家は自己の蓄蔵貨幣の番をしていたのである。もっと古い時代には、アジアやエジプトでは、国王や僧侶が保管していたこのような蓄蔵貨幣は、それこそかれらの権力の証拠とみられていた。ギリシャやローマでは、過剰生産物のつねに安全でいつでも好きなときに使える形態として国有の蓄蔵貨幣をつくることが、その政策となっていた。こういう蓄蔵貨幣が征服者によって急に一国から他国に送られること、そしてその一部分が突然流れだして流通にはいりこむことは、古代経済のひとつの特色をなしている。
対象化された労働時間としては、金自身の価値の大きさは保証されている。しかも金は、一般的労働時間の体化物であるから、この金が交換価値としていつでも作用することが、流通過程によって保証されているのである。商品所有者が商品を交換価値としての姿で確保できるという、つまり交換価値そのものを商品として確保できるという、単純な事実によって、商品を金という転化された姿で回収、保蔵するためにこれを交換することが、流通の独自な動機となる。商品の変態 W―G は、商品の変態そのもののために、すなわち商品を特定の自然的な富から一般的社会的な富に転化させるために、おこなわれる。素材転換にかわって、形態転換が自己目的となるのである。交換価値は、運動の単なる形式から急転して運動の内容となる。商品が、富として、つまり商品としてその地位をたもつのは、ただそれが流通の領域内に存続するかぎりにおいてのみであり、しかも商品がこうした流動状態をたもつのは、ただそれが金や銀に化石化するかぎりでのことである。商品は、流通過程の結晶としてたえず流動している。ところが金や銀は、それが流通手段でないかぎり、ただそれだけで貨幣として固定する。金銀は、非流通手段として貨幣となる*。だから商品を金の形態で流通からひきあげることが、商品をたえず流通の内部にひきとめておく唯一の手段である。
* 自用本第一では、マルクスの手でアンダーラインがひかれている。 ――編集者。
商品所有者は、かれが商品として流通に投じたものだけを、貨幣としてそこからとりもどすことができるにすぎない。だからたえず売ること、つまり商品をつぎつぎに流通になげいれることが、商品流通の立場からみた貨幣蓄蔵の第一の条件である。他方、貨幣は、つねに使用価値に実現され、はかない享楽に解消することによって、流通過程そのもののうちで流通手段としてたえず消えさってゆく。だからひとは、貨幣が購買手段としての機能をはたすのをさまたげることによって、この貨幣を、なんでものみこむ流通の流れからひきはなさなければならない、いいかえれば商品を、その第一の変態にくぎづけにしておかなければならない。いまや貨幣蓄蔵者となった商品所有者は、すでに老カトーが patrem familias vendacem, emacem《家長は売ることに熱意をもて、買うことを欲するな》とおしえたように、できるだけ多く売り、しかもできるだけ少なく買わなければならない。勤勉が貨幣蓄蔵の積極的な条件であるように、節約はその消極的な条件である。商品の等価物が特定の商品ないし使用価値の形で流通からひきあげられることが少なければ少ないほど、それが貨幣ないし交換価値の形態で流通過程ら引きあげられることが多くなる(89)。だから一般的形態における富を獲得するためには、素材的現実性における富を棄てることが条件となる。こうして貨幣蓄蔵の活発な衝動となるものは貪欲であるが、しかもこの貪欲の欲するものは、使用価値としての商品ではなく商品としての交換価値である。過剰物をその一般的形態でわがものにするためには、特定の諸欲望は、ぜいたくなもの、すぎたものとして、とりあつかわれなくてはならない、たとえば一五九三年にスペイン議会はフェリペ〔フィリップ〕二世に建議書を提出したが、そのなかではとくにつぎのようにのべられていた。「一五八六年のバラドリドの議会は、陛下に乞うて、将来は、ろうそく、ガラス器、宝石類、刃物、そのほかこれに似たものを王国に輸入することを許したまわないようおねがいいたしました。これらは、人間生活になんの役にも立たないものを金と交換するために外国からくるものでありまして、その点では、スペイン人はあたかもインド人であるかのようであります。」と。貨幣蓄蔵者は、衣魚(しみ)にも錆(さび)にもおかされず、まったく天国的でもありまったく現世的でもある永遠の宝を追いもとめるために、世俗的な、一時のはかない享楽をかろんずるのである。ミッスルデンは、まえにあげた著述でつぎのように述べている、「わが国の金不足の一般的遠因は、わが王国が外国の商品をあまり消費しすぎることであるが、これらの外国商品は、われわれにとり、有用品ではなくて無用品であることがわかっている、というのは、それらの商品は、さもなければこうしたおもちゃのかわりに輸入されたはずの同額の財宝をわが国からうばいさるものだからである。われわれは、スペイン、フランス、ラインランド、レヴァントのぶどう酒、スペインのほしぶどう、レヴァントのコリント〔上等の亜麻布〕、イタリアの絹布、西インドの砂糖とたばこ、東インドの香料などを、あまりにも多量に消費しているが、これらのものはすべて、われわれにとって絶対的必需品ではなく、しかもこれらのものは、ほかならぬ正金で買われているのである(90)。」富は、金銀としては不滅である、なぜならば、〔このばあい〕交換価値は荒廃することのない金属となって実在しているからであり、またとくに金銀は、流通手段として商品の単なる一時的な貨幣形態になることをさまたげられているからである。こうして、はかない内容が永遠の形態の犠牲にされる。「もしも貨幣が、それを飲食につかうひとびとから租税によってとりあげられ、それを土地の改良、漁業、鉱業、製造業に用いるひとにあたえられるならば、あるいは衣服に用いるひとにあたえられてさえも、社会にとってはかならず利益になるであろう、なぜならば、衣服でさえ食物や飲料ほど消滅しやすくはないからである。もしそれが家具に用いられるならば、利益はもっと大きく、家屋の建築に用いられるならば、利益はさらにいっそう大きい、等々、なかでも利益がもっとも大きいのは、金や銀がその国にもたらされたばあいである、なぜなら、これらのものだけが消滅しないで、いつでも、またどんなところでも富として尊重されるからである。そのほかのすべてのものは、ただ pro hic nunc《その場そのときかぎり》の富にすぎない(91)。」貨幣を流通の流れからひきはなして、社会的な素材転換からまぬかれさせることはまた、外面的には、埋蔵という形であらわれる、そこで社会的な富は、地下の不滅の財宝として、商品所有者にたいしてまったく秘密な私的関係におかれる。デリーのアウランゼブ〔モガール帝国の皇帝〕の宮廷にしばらく滞在していたベルニエ博士は、商人たちがその貨幣をどれほど秘密に深く埋蔵しておくか、ことにほとんどすべての商業と貨幣とをその手ににぎっている非モハメッド異教徒たちが、「かれらが生きているあいだにかくした金銀が、死後あの世で役にたつという信仰に、どれほどとらわれているか」を語っている(92)。ともかく貨幣蓄蔵者は、かれの禁欲主義が精力的な勤勉とむすびついているかぎり、宗教的には本質的にプロテスタントであり、さらになおピューリタンでさえある。「売買が必要なことであって、ひとにとってかくことのできないものだということ、しかも、とくに必要と名誉とに役だつものならばこれをクリスチャンらしく売買することもできるだろうということ、これはだれも否定することのできない点である、だからこそ長老たちでも、家畜や羊毛や穀物やバターや牛乳やそのほかの品物を売買してきたのである。これらのものは、神が大地からとりだして人間にわかちあたえたもう賜物(たまもの)である。だが、もしも政治があり王侯がいるとすれば、カリカットやインドや、そうした地方から高価な絹や黄金細工や香料など、ただ奢侈に役だつだけでなんの実用にもならず、しかも国と民から貨幣をうばいさるような商品を輸入する外国貿易は、許されるべきことではないであろう。しかし余は、いまこのことについて書くつもりはない。なぜならば余は、外国貿易も華美や飽食と同様に、貨幣がなくなってしまえば自然にやめなければならなくなるであろうと考えるからである、欠乏と貧困がわれわれを強制するようになるまでは、いくら書いても教えてもなんの役にもたたないであろう(93)。
(89) 「商品の貯えがふえればふえるほど、蓄蔵貨幣として(in treasure)実在するものはへる。」E・ミッスルデン『自由貿易論、あるいは貿易を振興し……のための諸方策』、二三頁。
(90) 前掲書、一一〜一三頁より抄出。
(91) ペティ『政治算術』、前掲書、一九六頁。〔前掲、訳本、六七〜六八頁。〕
(92) フランソア・ベルニエ『大モガール帝国旅行記』、パリ版、一八三〇年、第一巻、三一二〜三一四頁、参照。
(93) マルティン・ルター博士『商業と高利とについての書』、一五二四年。同じところでルターはいう。「神はわれわれドイツ人を、自国の金銀を外国に投げだして全世界を富ませ、みずからは乞食にとどまらねばならぬようにしたもうた。もしドイツが、イギリスの毛織物を買うのをやめるとすれば、イギリスは、たぶんこれまでよりも少ない金しかえられないであろうし、またポルトガルの香料を買うのをやめるとすれば、ポルトガル国王もこれまでよりも少ない金しかもちえないであろう。必要も理由もないのに、フランクフルトの一回の大市でどれほど多くの貨幣がドイツの国外にもちだされるかを計算してみよ、そうすれば諸君は、ドイツの国内にたとえ一文にしろ、なお残っているようなことがどうして可能かとふしぎに思うであろう。フランクフルトは金銀のぬけ穴であって、ドイツではただ産出し、増加し、鋳造または刻印されるにすぎない金銀がそこをとおって国外にながれでてゆく。もしもこの穴がふさがれているならば、どっちをむいても借金ばかりで一文のかねもない、どの田舎も都市もみな高利貸に吸いつくされている、という歎きを、いまきかずにすんだであろう。だがなりゆきにまかせよう、それでもそれはそうなるであろう。われわれドイツ人はやはりドイツ人なのだ! われわれは、さしせまってこないかぎりやめはしないのだ。」
ミッスルデンは、さきにかかげた著作のなかで、金銀をすくなくともキリスト教国の範囲内にとどめたいとのぞんでいる。「貨幣は、キリスト教国のかなたにあるトルコ、ペルシャ、東インドとの貿易によって減少する。この種の貿易は大部分現金でおこなわれる、しかしキリスト教諸国がその国内でおこなう貿易とはまったく異なっている。なぜならば、キリスト教諸国どうしの貿易も現金でおこなわれてはいるが、貨幣はいつまでもキリスト教国の境界内にとじこめられているからである。事実、キリスト教諸国の国内でおこなわれる貿易においても、貨幣の順流と逆流、干潮と満潮がある、なぜならば、貨幣は、ある国では不足し他の国では過剰であるのに対応して、一部では豊富でありほかの部分では欠乏しているということが、しばしばあるからである。貨幣は、キリスト教諸国の圏内でいったりきたりめぐりあるいているが、いつもその境界線のなかにとどまっている。だが、キリスト教諸国からさきにのべた国々に貿易によってでていく貨幣は、たえず支出されてしまい、けっしてかえってこないのである。」《一九、二〇頁》
社会的な素材転換がかきみだされる時期には、発達したブルジョア社会においてさえ、貨幣を蓄蔵貨幣として埋蔵することがおこなわれる。社会的連関――商品所有者にとってはこの連関は商品のうちにあり、しかも商品の適当な定在は貨幣である――は、凝縮した形態で社会的運動からすくいあげられる。社会的な nervus rerum《事物の神経》は、そういう神経をもっている肉体のかたわらに埋葬される。
蓄蔵貨幣は、もしそれがたえず流通にもどろうとまちかまえているのでなければ、いまや単なる無用の金属にすぎず、その貨幣魂はそれからぬけ去っており、それは流通のもえがら、流通の caput mortumn《残りかす》に帰したままであろう。貨幣、つまり独立化した交換価値は、その質からみれば抽象的な富の定在であるが、他方、それぞれのあたえられた貨幣額は量的にかぎられた大きさの価値である。交換価値の量的限界は、その質的一般性と矛盾する、そこで貨幣蓄蔵者は、この限界を、実際には同時に質的な障碍に転化する障碍、いいかえれば、蓄蔵貨幣を素材的な富の単なる制限された代表物とする障碍として感ずるのである。貨幣は、一般的等価物としては、すでにみたように、貨幣そのものが一方の辺*を、商品の無限の系列がもう一方の辺をなす等式で直接あらわされる。貨幣がどこまで近似的にこういう無限の系列として実現されるか、つまり交換価値としてのその概念にどこまで近似的に対応するかは、交換価値の大きさにかかっている。交換価値としての、みずから動くものとしての交換価値の運動は、一般的にはただ、その量的な限界をのりこえようとする運動でありうるだけである。だが、蓄蔵貨幣のある量的な限界としてあらわれるのは、蓄蔵貨幣のある一定の限界ではなくて、そのあらゆる限界である。こうして貨幣蓄蔵はなんらの内在的な限界も、それ自身におけるなんらの限度ももつものではなく、そのいちいちの結果のうちにその開始の動機をみいだす、かぎりない過程である。蓄蔵貨幣は、保蔵されることによってはじめて増加されるのであるが、それはまた、増加されることによってはじめて保蔵されるのでもある。
* 第一版では一方の項……もう一方の項となっていた。自用本第二で訂正。 ――編集者。
貨幣はただ致富欲(ちふよく)のひとつの対象であるだけではない、貨幣こそはその唯一の対象である。致富欲は、本質的には、auri sacra fames《金にたいするのろわれた渇望》である。致富欲は、衣服、装飾品、家畜などのような特定の自然的な富または使用価値にたいする欲求とはことなり、一般的な富がそのものとしてある特定のものに個体化され、したがって単一の商品として確保されうるにいたってはじめて可能となるものである。だから貨幣は、致富欲の対象としてあらわれるのと同じ程度に、その源泉としてもあらわれる(94)。事実その根底によこたわるものは、交換価値がそのものとして目的となり、それとともにその増殖が目的となるということである。貪欲は、貨幣が流通手段になるのをゆるさないことによって、蓄蔵貨幣を確保する、だが黄金欲は、貨幣の貨幣魂、貨幣がたえず流通にむかってとびだしてゆこうとする気持を、そのままもちつづけさせるのである。
(94) 「貨幣のうちに貪欲の源泉があり……しだいにもえあがって、ここに一種の狂気が生ずる。それはもはや貪欲ではなくて、黄金欲である。」(プリニウス『博物誌』、第三三部、第三章、第一四節。)
さて、蓄蔵貨幣をつくりだす活動は、一方ではたえず販売をくりかえすことによって貨幣を流通からひきあげることであり、他方ではただためこむこと、蓄積することである。富としての富の蓄積がおこなわれるのは、実際にはただ単純流通の領域内だけのことであり、それも貨幣蓄蔵の形態でだけである、これにたいして、あとでみるように、そのほかのいわゆる蓄積の諸形態がちくせきだとされるのは、ただ言葉の誤用にすぎず、単純な貨幣蓄蔵を連想することによるものである。ほかのすべての商品は、ひとつには使用価値としてためこまれる、そしてこのばあいそれをためこむ様式は、その使用価値の特殊性によって規定されている。たとえば穀物をためこむには特定の設備が必要である。羊をためこめば羊飼いになってしまうし、奴隷と土地とをためこむには支配隷属関係を必要とする、等々。〔このように〕特定の富の貯蔵は、単なるためこむ行為そのものとはちがった特定の手つづきを必要とし、個性の特殊な側面を発達させる。商品の形態をとった富は、もうひとつには、交換価値としてためこまれる、そしてこのばあいには、ためこみは、商人的な作業、つまり特殊な経済的作業としてあらわれる。この作業の主体は、穀物商人、家畜商人等々となる。金銀は、これをためこむ個人のなんらかの活動のために貨幣であるのではなくて、かれの助けをかりずに進行する流通過程の結晶として貨幣なのである。個人は、金銀をべつにとりのけてひとつひとつつみかさねるほかにはなにもする必要がない、それはまったく無内容な行為であって、もしもほかのすべての商品にそうしたやりかたが通用されるならば、それらの商品の価値は失われてしまうであろう(95)。
(95) だからホラティウスがつぎのようにいうとき、かれは、貨幣蓄蔵の哲学についてはなにも理解してはいないのである。(『諷刺詩』、第二部、諷刺三《一〇四〜一一〇詩句》。)
竪琴(たてごと)にも音楽にもふけらないのに
竪琴を買ってつみあげておいたら、
靴屋でもないのに縫針と靴型をつみあげ、
航海が好きでもないのに帆をつみあげておいたら、
だれも当然このひとをきちがいでばかだというだろう。
こういうひとは、金銀を土にうめて使うすべも知らず、
あつめたものに聖物のように手をふれようともしないひとと、
いったいどこがちがうというのだろう?
《クィントス・ホラティウス・フラックス。ウィルヘルム・ビンダー訳、第二巻、四七頁。》
シーニョア氏はこの問題をもっとよく理解している、「貨幣は、欲望の普遍的な対象をなす唯一のもののように思われるが、それは、貨幣が抽象的な富であり、ひとは、それをもっていれば、どんな種類の欲望でも満足させることができるからである。」(ジャン・アリヴァベーヌ伯爵訳『経済学基礎原理』、パリ、一八三六年、二一頁。)あるいはまたシュトルヒによれば、「貨幣はほかのすべての富を代表するから、世界に存在するあらゆる富を手にいれるためには、ただ貨幣をためこみさえすれはよい。」(『経済学教程』、前掲書、第二巻、一三五頁。)
わが貨幣蓄蔵者は、交換価値の殉教者として、金属柱の頂上にすわった神聖な苦行者としてあらわれる。かれにとっては、ただ社会的形態にある富だけが問題であり、そのためにかれは、それを埋蔵して社会からかくすのである。かれは、いつでも流通できるような形態にある商品を欲し、そのためにかれは、その商品を流通からひきあげるのである。かれは交換価値に夢中になり、そのためにかれは、交換をおこなわないのである。富の流動的形態とその化石とが、生命の仙薬と賢者の石とが、錬金術のような狂気沙汰でいりみだれてあらわれる。かれは、その想像にえがいているはてしない享楽欲のために、いっさいの享楽を断念する。かれは、あらゆる社会的欲望をみたそうと欲するがゆえに、自然的な必要すらほとんどみたさない。かれは、富をその金属の肉体でしっかりとつかみながら、その富を蒸発させて単なる幻影にしてしまう。しかし実際には、貨幣のために貨幣をためこむことは、生産のための生産の、つまり社会的労働の生産諸力が伝来の欲望の制限をこえてすすむ発展の、粗野な形態である。商品生産が未発達であればあるほど、交換価値を貨幣として独立化する最初のもの、つまり貨幣蓄蔵は、それだけいっそう重要である。だから貨幣蓄蔵は、古代諸民族にあっては大きな役割を演じており、アジアでは現在にいたるまでそうである。また、交換価値がまだすべての生産諸関係をとらえるにいたっていない近代の農業諸民族にあってもやはりそうである。金属流通そのものの内部における貨幣蓄蔵の特殊な経済的機能は、すぐこれを考察するつもりであるが、そのまえに貨幣蓄蔵のもうひとつの形態をのべよう。
金銀でつくられた商品は、その美的属性をまったく度外視しても、それを構成する材料が貨幣の材料であるかぎり、貨幣に転形することができる、それは、金貨や金地金が金製品に転形しうるのと同じことである。金銀は抽象的な富の材料であるから、富を最大限に誇示することは、金銀を具体的な使用価値として利用することである、そして商品所有者は生産の一定の段階においてかれの蓄蔵貨幣をかくすわけであるが、その蓄蔵貨幣は、危険のともなわないところではどこでも、かれをかりたてて、ほかの商品所有者のまえに rico hombre《お大尽》としてあらわれさせずにはおかない。かれは自分や自分の家を金ぴかにする(96)。アジア、とくにインドにおいては、貨幣蓄蔵は、ブルジョア経済のもとでみられるように総生産の機構に従属する機能としてあらわれるのではなくて、この形態をとった富が究極の目的として固執されているのであるが、そこでは、金銀製品は、もともとただ蓄蔵貨幣の美的形態であるにすぎない。中世のイギリスでは、金銀製品は、簡易な労働の追加によって、その価値がごくわずかしか増加していないという理由から、法律上は蓄蔵貨幣の単なる一形態とみなされていた。これら製品の目的は、ふたたび流通になげいれられるということであった。そこでその品位は、鋳貨そのものの品位とまったく同様に規定されていた。富が増加するにつれて奢侈対象としての金銀の使用が増加するということはごく単純なことがらであるから、古代人もその点はよく知っていた(97)。ところが近代の経済学者たちは、金銀製品の使用は富の増加に比例して増加するのではなくて、ただ貴金属の価値下落に比例して増加するだけである、というまちがった命題(めいだい)をうちたてた。だから、カリフォルニアおよびオーストラリア産の金の消費についてのかれらの説明は、ほかの点では正確であるが、つねにひとつの欠如をしめしている、というのは、原料としての金の消費の増加は、かれらが考えるように、それに照応する金の価値下落によって裏書されてはいないからである。一八一〇年から一八三〇年にかけて、アメリカ植民地のスペインにたいする戦争と、革命による鉱山労働の中絶とのために、貴金属の年々の平均生産は半分以下に減少した。ヨーロッパで流通している鋳貨の減少は、一八二九年には一八〇九年とくらべて、ほとんど六分の一にたっした。だから生産の量は減少したわけであり、生産費もまた、総じて変化したとすれば、騰貴したわけであるが、それにもかかわらず奢侈対象としての貴金属の消費は、イギリスではすでにこの戦争中に、また大陸ではパリ講和以来、異常に増加した。それは、一般的富の増加にともなって増加したのである(98)。一般的法則としていいうることは、平和な時代には金貨や銀貨が奢侈対象に転形されることのほうが多いが、ただ動乱状態のもとでだけは奢侈対象が地金に転形され、すすんで鋳貨にさえも転形されることのほうが多いということ、である(99)。奢侈品の形態にある金銀蓄蔵貨幣の、貨幣として役だっている貴金属にたいする比率がどんなに大きいかは、つぎの事実、すなわちジェイコブによれば、一八二九年、イギリスではこの比率が二対一であり、またヨーロッパ全体とアメリカとをとってみると、奢侈対象の形をとった貴金属のほうが、貨幣の形をとったそれよりも四分の一多く併存していたという事実からも、察知することができるであろう。
(96) 商品交換をする個人が開化して資本家に発展したばあいでも、その内的本性がどんなに変らないままであるかは、たとえばある世界的銀行のロンドンの代表者が証明している。かれは、一〇万ポンドの銀行券を、自家にふさわしい紋章としてガラスばりの額にいれてかけておいたのである。このばあいの要点は、銀行券が嘲笑と気取りをまじえて流通をみおろしているということである。
(97) のちに引用するクセノフォンの章句をみよ。〔註(100)をさす。〕
(98) ジェイコブ『貴金属の生産と消費についての歴史的研究』、第二章、第二五、二六章。
(99) 「大きな動乱と不安の時代、ことに内乱または外敵侵入のばあいには、金属製品はすみやかに貨幣に転形される、ところが平安と繁栄の時代には、貨幣は銀の皿や装飾品に転形される。」(前掲書、第二巻、三五七頁。)
われわれが見たところによれば、貨幣流通は、商品の変態の現象、いいかえれば社会的な素材転換がおこなわれるばあいの形態転換の現象にすぎない。だから、一方では流通する諸商品の価格総額の変動、ないしは諸商品の同時におこなわれる変態の範囲につれて、他方ではそれら諸商品の形態転換のそのときどきの速度に応じて、流通する金の総量は、たえず膨張したり収縮したりしなければならない、しかしそれは、一国にある貨幣の総量の、流通にある貨幣の量にたいする比率が、たえず変動するという条件のもとで、はじめておこりうるということである。この条件は貨幣蓄蔵によってみたされる。価格が下落するか、流通速度が増加するかすれば、蓄蔵貨幣の貯水池は、流通から分離された貨幣部分を吸収する。価格が騰貴するか、流通速度が減じるかすれば、蓄蔵貨幣〔の貯水池〕はひらかれてその一部分が流通に還流する。流通している貨幣が蓄蔵貨幣に凝固し、蓄蔵貨幣が流通へ流出するのは、たえまなく交替する振子的な運動であって、どちらの傾向が優越するかは、もっぱら商品流通の動揺によって規定される。こうして蓄蔵貨幣は、流通している貨幣の流入、排出の水路としてあらわれ、その結果、流通そのものに直接必要とされる分量の貨幣だけが、つねに鋳貨として流通することになる。総流通の範囲が突然ひろがり、販売と購買との流動的統一が優勢となり、しかもそのために実現されるべき価格の総額が貨幣通流の速度よりもさらに急速に増加するときには、蓄蔵貨幣はみるまにからになる。総運動が異常に停滞したり、あるいは販売と購買の分離が固定したりするとすぐに、流通手段はいちじるしい割合で貨幣に凝固し蓄蔵貨幣の貯水池はみちて、その平均水準をはるかにこえる。純粋な金属流通のおこなわれている国々、または未発達の生産段階にある国々では、蓄蔵貨幣は、その国の全土にわたってかぎりなく分裂し分散しているが、ブルジョア的に発達した国々では、それは銀行という貯水池に集中されている。蓄蔵貨幣を鋳貨準備金と混同してはならない。鋳貨準備金は、それ自身、つねに流通内にある貨幣総量の一部分をなすものであるが、蓄蔵貨幣と流通手段とのあいだの能動的関係は、この貨幣総量の増減を前提するものである。金や銀の製品は、すでにみたように、貴金属の排水路をなすと同時に、それを供給する潜在的な源泉をもなしている。普通の時期には、その第一の機能だけが、金属流通の経済にとって重要である(100)。
(100) クセノフォンは、つぎに引用した一節で、貨幣を、貨幣および蓄蔵貨幣としてのその特殊な形態規定性のもとに説明している、「わたくしの知っているあらゆる仕事のうちただこの仕事においてだけは、だれも、同じ仕事をやっているほかのひとに嫉妬をおこさせることはない。……なぜならば、銀山がたくさん出現すればするほど、また銀が多量に採掘されればされるほど、それらの銀山は、ますます多くのひとびとをこの労働にひきつけるからである。家計をいとなむに充分な家財道具を手にいれたひとは、もうそれ以上は買わないであろう。しかし、もうこれ以上はほしくないというほどたくさん銀をもっているものはだれもいない、またかりにあるひとのところに銀がありすぎるばあいでも、かれはその余分の銀を埋蔵し、そのことに、かれがそれを使用したばあいにおとらないよろこびを感じるのである。つまり、都市が栄えているときには、ひとびとはとくに銀をほしがるのである。なぜならば、男は立派な武器のほかに、よい馬や壮麗な家や家具調度を買いたがるし、女は各種各様の衣裳や黄金の装飾品を熱望するからである。しかし、都市が不作や戦争によって窮乏しているときには、土地のみのりが少ない結果、生活資料を購入したり、あるいは援軍を募集したりするために、貨幣を必要とするのである。」(クセノフォン『租税について』、第四章)。アリストテレスは、『国家』の第一部第九章で、流通のふたつの運動 W―G―W と G―W―G とを「エコノミーク」〔経済学〕と「クレマスティーク」〔理財学〕というよび名のもとに対立させて説明している。このふたつの形態は、ギリシャの悲劇作家たち、ことにエウリピデスによって、διχη《正義》と χερδοζ《私利》として対置されている。
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これまでのところで貨幣が流通手段から区別されたふたつの形態は、流通を停止した鋳貨の形態と蓄蔵貨幣の形態とであった。第一の形態は、鋳貨の貨幣への一時的な転化のうちに、W―G―W の第二環である購買 G―W が、一定の流通領域の内部では、必然的に一連のつぎつぎにおこなわれる購買に分裂するということを、反映していた。けれども貨幣蓄蔵は、単に、W―G という行為が G―W にすすまないで孤立するということにもとづくものであり、いいかえれば、ただ商品の変態が独立に発展したものにほかならなかった、それは、たえず譲渡されつつある形態にある商品の定在としての流通手段に対立して、あらゆる商品の脱却し〔譲渡され〕た定在として生成した貨幣なのである。鋳貨準備金と蓄蔵貨幣とは、非流通手段としてのみ貨幣であったが、しかもそれらは、流通しなかったからこそ非流通手段であった。だが、いまわれわれが貨幣を考察するばあいにとる規定においては、貨幣は流通する、あるいは流通にはいるのである、しかし、流通手段としての機能においてはいるのではない。流通手段としては、貨幣はつねに購買手段であったが、いまやそれは、非購買手段として働くのである。
貨幣は、それが貨幣蓄蔵によって、抽象的社会的富の定在、および素材的富の部分的代表物として発展するやいなや、貨幣としてのこの規定性において、流通過程の内部で特有の機能をもつようになる。貨幣がただの流通手段として、それゆえ購買手段として流通するときには、商品と貨幣とが同時に対立しているということ、したがって同じ大きさの価値が、一方の極では売手の手にある商品として、他方の極では買手の手にある貨幣として二重に現存しているということが前提されている。ところが、これらふたつの等価物が、相対する極に同時に実在し、同時に位置転換するということ、あるいはたがいに譲り渡されるということは、さらにまた、売手と買手とが現存する等価物の所有者としてのみ、たがいに関係しあうということを前提している。だが、貨幣のさまざまな形態規定性をつくりだすこの商品の変態の過程は、商品所有者たちをもまた変態させる、すなわち、商品所有者たちがたがいに示しあう社会的性格を変化させる。商品の変態過程では、商品保護者は、商品が移動するたびごとに、あるいは貨幣が新しい形態をとるたびごとに、その皮膚をかえる。こうして商品所有者たちは、はじめはただ商品所有者としてだけ対しあっていたのであるが、やがて一方は売手に、他方は買手になり、さらにおのおのがかわるがわる買手と売手になり、なおさらに貨幣蓄蔵者になり、ついには金持ちになったのである。このように商品所有者たちがかれらが流通過程にはいっていったままの姿ではそこからでてこない。事実、貨幣が流通過程でうるさまざまな形態規定性は、商品そのものの形態変換の結晶にほかならないが、この形態転換自身はまた、商品所有者たちがかれらの素材転換をおこなうばあい、〔それにつれて〕変化する社会関係がとる具象的な表現にほかならない。流通過程のなかで新しい特殊階級が発生し、この変化した関係の担い手として商品所有者たちは新しい経済的性格をもつようになる。国内流通の内部では、貨幣は観念化され、ただの紙きれが金の代表物として貨幣の機能をはたすのであるが、それと同様に、この同じ過程は、貨幣なり商品なりの単なる代表者として流通にはいってくるところの、つまり将来の貨幣なり将来の商品なりを代表するところの買手または売手に、現実の売手または買手としての能力をあたえるのである。
貨幣として発展する金の到達するすべての形態規定性は、商品の変態のうちにふくまれている諸規定の展開にほかならない、しかしこれらの諸規定は、単純な貨幣流通では、すなわち、貨幣が鋳貨としてあらわれるばあいには、いいかえると過程的統一としての運動 W―G―W にあっては、分離されて独立の姿をとらなかったし、あるいはまた、たとえば商品の変態が中断されるばあいのように、単なる可能性としてあらわれた。すでにみたように、 W―G の過程では、現実的な使用価値であるとともに観念的な交換価値である商品が、現実的な交換価値でありただ観念的にのみ使用価値である貨幣と関係をもった。売手は使用価値としての商品を譲渡することによって、その商品そのものの交換価値と貨幣の使用価値とを実現した。このことに応じて商品と貨幣との位置転換がおこなわれた。この二重に両極的な対立の生きた〔現実の〕過程は、いまやふたたび、その現実化にさいして分裂する。売手は商品を実際に譲渡するが、さしあたってはその価格を、またもやただ観念的に実現するにすぎない。かれは商品をその価格で売ってしまうのだが、その価格は将来のあるきめられた時期にはじめて実現される。売手は現在の商品の所有者として売るのに、買手は将来の貨幣の代表者として買うのである。売手のがわでは、商品は、価格として実際に実現されないのに、使用価値としては実際に譲渡される。買手のがわでは、貨幣は、交換価値として実際に譲渡されないのに、商品の使用価値で実際に実現される。まえには価値表章が貨幣を象徴的に代理したのであるが、ここでは貨幣を象徴的に代理するものは買手自身である。しかも、まえには価値表章の一般的象徴性が国家の保証と通用強制とをよびおこしたように、ここでは買手の人格的象徴性が、商品所有者間の法律的強制力をもつ私的契約をよびおこすのである。
反対に G―W の過程では、貨幣の使用価値が実現されるまえに、つまり商品が譲渡されるまえに、貨幣が実際の購買手段として手放され、商品の価格がそういうようにして実現されることもありうる。これは、たとえば前払という日常的な形態でおこなわれている。あるいはまた、イギリスの政府がインドのライアット〔農民〕からアヘンを買う形態とか、ロシアに定住する外国商人がロシアの国産品を大量に買う形態とかでおこなわれている。しかしこのばあいには、貨幣は、すでにわれわれが知っている購買手段という形態で作用するだけであり、したがってなんらの新しい形態規定性をもとらない(101)。だからわれわれは、このばあいについてはこれ以上のべないが、しかし、 G―W および W―G というふたつの過程がここにあらわれるばあいの転化された姿に関連して、つぎのことを注意しておこう。すなわち、流通のうちに直接あらわれるばあいにはただ頭のなかで考えられたものにすぎない購買と販売とのちがいが、いまや現実的なちがいとなるということ、そしてそれは、一方の形態では商品だけが、他方の形態では貨幣だけが現存しており、しかもそのどちらの形態においても、過程をはじめる極(きょく)だけが現存していることによるものだということ、これである。そのうえこのふたつの形態は、そのどちらにおいても、等価物は、ただ買手と売手との共通の意志のなかに現存するだけだ、という共通点をもっている、だがこの意志こそは、両者を拘束して一定の法律的形態をとるところのものである。
(101) 資本もまた、貨幣の形態で前貸されることはいうまでもない、また前貸された貨幣は、前貸された資本だともいえよう、だがこの視点は単純流通の視野のなかにははいらない。
売手と買手は、債権者と債務者になる。商品所有者は、まえには蓄蔵貨幣の保護者として三枚目の役を演じたのであるが、ここではかれは、自分ではなくてその隣人を一定の貨幣額の定在とみなし、この隣人を交換価値の殉教者にすることによって、おそろしいものとなるのである。かれは、グロイビゲ〔信心家〕からグロイビガー〔債権者〕となり、宗教から法律に堕落する。
「証文どおりにねがいます*!」
* シャイロック〔シェイクスピア劇『ヴェニスの商人』のなかの金貸〕の言葉。
こうして、商品は現存し、貨幣はただ代表されているにすぎない変化した形態 W―G では、貨幣は、まず価値の尺度として機能する。商品の交換価値は、その尺度としての貨幣で評価される、だが価格は、契約上はかられた交換価値として単に売手の頭のなかに実在するばかりでなく、同時にまた買手の義務の尺度としても実在する。第二に、このばあい貨幣は、ただ自分の将来の定在の影をなげかけているだけでありにもかかわらず、購買手段として機能する。すなわち貨幣は、商品をその場所から、つまり売手の手からひきだして買手の手にわたす。一旦、契約を履行する期限がくれば、貨幣は流通にはいっていく、なぜならば、貨幣は場所をかえて過去の買手の手から過去の売手の手にうつっていくのだから。だがそれは、流通手段や購買手段として流通にはいるのではない。貨幣がそういうものとして機能したのは、そこに在る以前のことであり、貨幣があらわれるのは、そういうものとして機能することをやめたあとのことである。それはむしろ、商品にとっての唯一の適当な等価物として、交換価値の絶対的な定在として、交換価値の最後のことばとして、要するに貨幣として、しかも一般的支払手段としての一定の機能における貨幣として、流通にはいるのである。支払手段としてのこの機能においては、貨幣は絶対的商品としてあらわれる。しかし蓄蔵貨幣のように流通のそとにあらわれるのではなくて、流通そのもののなかにあらわれるのである。購買手段と支払手段*との区別は、商業恐慌の時期には、はなはだ不愉快にめだってくる(101a)。
(101a) 購買手段と支払手段との区別は、ルターによって力説されている。《自用本第一の註》
* 第一版では「購買手段と諸支払手段」となっていたが、自用本第一と第二で訂正されている。 ――編集者。
がんらい流通では、生産物の貨幣への転化は、ただ商品所有者の個人的必要としてあらわれるにすぎない、それは、かれの生産物がかれにとっては使用価値でなく、その脱却〔譲渡〕によってはじめて使用価値になるはずのものであるかぎりにおいて、必要なだけである。だが契約期限に支払うためには、かれはまえもって商品を売っていなければならない。だから販売は、かれの個人的欲望とはまったく無関係に、流通過程の運動をとおしてかれにとってひとつの社会的必然となっている。かれは、ある商品の過去の買手である以上、購買手段としての貨幣をうるために、むりやりにほかの商品の売手にされるのである。完結行為としての商品の貨幣への転化、つまり自己目的としての商品の第一の変態は、貨幣蓄蔵のさいには商品所有者の気まぐれにみえていたのに、いまやひとつの経済的機能となってしまっている。支払のためにするという販売の動機と内容とは、流通過程そのものの形態から発生する販売の内容である。
この形態の販売では、商品はその位置転換をおこなう、つまり流通する、だがその第一の変態、その貨幣への転化は延期される。これに反して買手のがわでは、第一の変態がおこなわれないうちに第二の変態がおこなわれる、つまり商品が貨幣に転化されないうちに貨幣が商品に再転化される。だからこのばあいには、第一の変態が第二の変態よりも時間的におくれてあらわれる。そしてそれとともに、商品の第一の変態における姿である貨幣は、新しい形態規定性をうけとる。貨幣、つまり交換価値の独立の発展〔物〕は、もはや商品流通の媒介形態ではなく、それを完結する結果なのである。
販売の両極が時間的にはなれて実在するこのような掛売りが、単純な商品流通から自然発生的に生じるということは、なにもたちいった証明を必要としない。まず、流通の発展にともなって、同一の商品所有者が交互に売手および買手としてくりかえし登場するという事態が生じてくる。このくりかえされる現象は、単なる偶然的なものではなく、商品が、たとえば将来のある期日にひきわたされ支払われるということで注文されるようになるのである。このばあい販売は、観念的に、つまりここでは法律上おこなわれたのであって、商品も貨幣もそのなまのからだではあらわれない。貨幣の流通手段としての形態と支払手段としての形態とは、ここではまだ一致しているが、それは、一方では商品と貨幣とが同時に位置を転換するからであり、他方では貨幣は商品を買うのではなくてすでに売られた商品の価格を実現するからである。さらにまた、いくつかの使用価値は、その性質上おのずから、商品を実際に引き離すことによってではなく、ただ一定の期間それをゆだねておくことによって、はじめて現実に譲渡されるということになる。たとえば家屋の用益が一ヵ月間売られるばあいには、その家屋は月のはじめにもち手をかえるけれども、その使用価値は、一ヵ月後にはじめて引き渡されることになる。このばあいには、使用価値を事実上ゆだねることと、それを実際に手放すこととは、時間的に一致していないから、その価格の実現もまた、その位置転換よりおくれておこなわれるのである。さて最後に、さまざまな商品が生産される期間と時点がちがっていることから、ある人は売手として登場しているのに、他の人はまだ買手として登場できないということが生じる。しかも同じ商品所有者たちのあいだで売買がますます頻繁にくりかえされるようになると、販売のふたつの要因は、かれらの商品の生産諸条件に応じて分離してくるのである。こうして商品所有者たちのあいだに債権者と債務者との関係が成立する、この関係は、なるほど信用制度の自然発生的な基礎をなすものではあるが、信用制度がまだ実在しないときでも、充分に発達していることがある。けれども、信用制度の成熟、したがってまたブルジョア的生産一般の成熟とともに、支払手段としての貨幣の機能が、購買手段として、拡張されるということはあきらかである。たとえばイギリスでは、鋳貨としての貨幣は、ほとんどまったく生産者と消費者とのあいだの小売取引ないし小口取引の領域にしばりつけられ、支払手段としての貨幣は大口の商業取引の領域を支配しているのである。
(102) マクロード氏は、その空論的な定義自慢にもかかわらず、もっとも基本的な経済諸関係をさえひどく誤解している、そこでかれは、貨幣一般をそのもっとも発展した形態である支払手段の形態から発生させている。なかでもかれはつぎのようにいっている。ひとびとはおたがいのサーヴィスをかならずしも同時に必要とするものではなく、また同じ価値量のサーヴィスを必要とするものでもないから、「第一の者から第二の者に支払われるべきサーヴィスの一定の差ないし額――債務――がのこるであろう。」この債務にたいする権利の所有者は、かれのサーヴィスを直接には必要としないほかの者のサーヴィスを必要とする。そこで「第一の者がかれにたいして負うていた債務を、この第三の者にひきわたす。こうして債務証書は、あるもち手から他のもち手へと移行する、――これが通貨である。……あるひとが金属貨幣で表現されている債務責任をうけとるばあいには、かれは、単に最初の債務者のサーヴィスだけではなく、全労働社会のサーヴィスをも支配することができる。」マクロード『銀行業……の理論と実際』、ロンドン、一八五五年、第一巻、第一章《二三頁以下、二九頁》。
一般的支払手段として、貨幣は、契約上の一般的商品となる、――はじめはただ商品流通の領域のなかでだけのことだが(103)、けれども貨幣のこうした機能が発展するにつれて、他のすべての支払いの形態は、だんだん貨幣支払に解消していく。貨幣が排他的支払手段としてどのくらい発達しているかということは、交換価値が生産をどのくらい深くまた広くとらえているかということを示すものである(104)。
(103) ベイリー『貨幣とその価値移動』、ロンドン、一八三七年、三頁。「貨幣は契約上の一般的商品である、いいかえれば、将来履行されるべき数多くの財産契約をむすぶのに用いられるものである。」
(104) シーニョア『……基礎原理』、二二一頁にはつぎのようにある。「すべての物の価値は、一定の期間内には変動するものであるから、支払手段としては、その価値の変動がもっとも少なく、物を買う所与の平均能力をもっとも長くもちつづけるようなものがえればれる。こうして貨幣は、価値を表現または代表するものとなる。」はなしは逆である。金、銀等は、貨幣つまり独立の交換価値の定在となっているからこそ、一般的支払手段となるのである。シーニョア氏のいうような、貨幣の価値の大きさの持続性についての考慮が生じるばあいには、いいかえれば、貨幣がもろもろの事情の力により、一般的支払手段としてその地位を確立する時期には、まさに貨幣の価値の大きさの動揺もまたみとめられるのである。こういう時期は、イギリスではエリザベスの時代であった。バーレイ卿とサー・トーマス・スミスとが、貴金属の価値下落がめだってきたのを考慮して、オクスフォード大学とケインブリッジ大学とにその地代の三分の一を小麦と麦芽(ばくが)で備蓄させるような法令を通過させたのもこの時代のことであった。
支払手段として流通する貨幣の量は、まず支払の総額、つまり譲渡された商品の価格総額によって規定されるのであって、単純な貨幣流通のばあいのように、譲渡されようとしている商品の価格総額によって規定されるのではない。だがこうして規定された総額は、二重に修正される。第一には、同じ貨幣片が同じ機能をくりかえす速度によって、いいかえれば、多数の支払が支払の経過する連鎖としてあらわされる速度によって、修正される。AはBに支払い、ついでBはCに支払う、等々。同じ貨幣片が支払手段としてその機能をくりかえす速度は、一方では、同じ商品所有者が、あるものにたいして債務者であり、ほかのものにたいしては債権者であるとかいうような、商品所有者間における債権者と債務者との関係の連鎖に依存し、他方では、さまざまな支払期日間の時の長さに依存している。こういうもろもろの変態の連鎖とは質的にちがっている。後者は、時間的にあいついであらわれるばかりでなく、時間的にあいつぐことによってはじめて連鎖となるのである。商品が貨幣になり、それからふたたび商品になり、そうすることでほかの商品が貨幣になれるようにしてやる等々、いいかえれば、売手は買手となり、それによってほかの商品所有者が売手となるのである。こういう連関は、商品交換の過程そのもののうちで偶然に成立する。けれども、AがBに支払った貨幣が、BからCに、CからDに等々というように、つづけて、しかもすぐつぎからつぎへとつづく期間に支払われるということ――この外面的連関にあっては、すでにできあがって現存している社会的連関があかるみにでるだけである。同じ貨幣がさまざまな人の手にわたってゆくのは、それが支払手段として登場するからではなく、さまざまな人の手がすでにつながりあっているからこそ、それが支払手段として通流するのである。だから貨幣が支払手段として通流するさいの速度が大きいということは、貨幣が鋳貨として、あるいはまた購買手段として通流するさいの速度が大きいということよりも、個々人が流通過程にはるかに深くはいりこんでいることを示すものである。同時的に、したがってまた空間的にならんでおこなわれる購買と販売との価格総額は、通流速度が鋳貨量にかわりそれをおぎなうことにとっては、限界をなす。〔しかし〕この制限は、支払手段として機能する貨幣にとっては、消えてなくなる。同時になされるべき諸支払がひとつの場所に集中すること、こういうことは、さしあたり自然発生的には、商品流通の大集合点にだけ起るのだが、そういうことになれば諸支払は、AはBに支払わなけれはならないが、同時にCから支払をうけなければならない等々というようにして、プラスとマイナスの大きさとして相殺(そうさい)される。だから、支払手段として必要な貨幣の額は、同時に実現されるべき諸支払の価格総額によって規定されるのではなくて、諸支払の集中の程度と、それらがプラスおよびマイナスの大きさとして相殺されたあとにのこる差額の大きさとによって規定されるということになる。この相殺のための特有な施設は、たとえば古代ローまでのように、信用制度がすこしも発達していなくてもできてくる。しかしそれについて考察することは、一定の社会圏内ではどこでもきまっている一般的支払期日について考察することと同様、ここでの問題ではない。なおここで注意しておきたいのは、こういう支払期日が通流する貨幣の量の周期的動揺におよぼす特殊な影響が科学的に研究されたのは、やっとごく最近になってからのことだということである。
もろもろの支払がプラス、およびマイナスの大きさとして相殺されるかぎり、実際の貨幣の介入はまったくおこらない、このばあいには、貨幣は、ただ価値の尺度としての形態で、つまり一方では商品の価格で、他方ではおたがいの債務の大きさで、展開するにすぎない。だからここでは、交換価値は、その観念的な定在のほかにはぜんぜん独立の定在をとらず、価値表章としての定在すらとらない、いいかえれば貨幣は、ただ観念的な計算貨幣となるにすぎないのである。こうして、支払手段としての貨幣の機能は、つぎのような矛盾をふくんでいる、すなわち貨幣は、一方では、諸支払が相殺されるかぎりただ観念的に尺度として作用するにすぎないが、他方では、支払が実際におこなわれなければならないかぎり、一時的な流通手段としてではなく、一般的等価物の休止的な定在として、絶対的商品として、一言でいえば貨幣として流通にはいっていくという矛盾がこれである。だから、諸支払の連鎖とそれらを相殺する人為的制度がすでに発達しているところでは、支払の流れをむりやりにせきとめてそれらの相殺の機構をかきみだすような激動が生じると、貨幣は、突然、価値の尺度としてのそのかすみのような、まぼろしのような姿から、硬貨つまり支払手段に急変するのである。そこで、商品所有者がずっとまえから資本家になっていて、かれのアダム・スミスを知っており、金銀だけが貨幣だとか、貨幣はそれぞれほかの商品とはちがって絶対的商品だとかいう迷信を、えらそうに嘲笑しているような、発達したブルジョア的生産の状態のもとでも、貨幣は、突然、流通の媒介者としてではなく、交換価値の唯一の適当な形態として、貨幣蓄蔵者が考えるのとまったく同様な唯一の富として再現するのである。貨幣がこのような富の排他的な定在としてその姿をあらわすのは、たとえば重金主義のばあいのように、あらゆる素材的な富が単に表象のうえで価値を減少し、価値を喪失するにすぎないようなときではなく、それらの富が実際に価値を減少し、価値を喪失するときである。これこそは、貨幣恐慌とよばれる世界市場恐慌の特別の契機である。こういう瞬間に唯一の富として叫びもとめられる summum bonum《至上善》は、貨幣であり、現金であって、それとともにほかのすべての商品は、まさにそれが使用価値であるという理由によって、無用なものとして、くだらないもの、つまりがらくたとして、あるいはわがマルティン・ルター博士のいうように、単なる華美と飽食の品としてあらわれる。信用制度から重金主義へのこういう突然の変化は、実際上のパニックに、さらに理論上の恐怖をつけくわえる、そして流通当事者は、かれら自身の諸関係のはかりしれない神秘のまえに戦慄するのである(105)。
(105) ブルジョアそのものにたいしてはげしく抵抗するために、ブルジョア的生産諸関係を阻止しかねないほどであったボアギュベールは、貨幣がただ観念的に、あるいはまた、ただ瞬間的にあらわれるにすぎないばあいの諸形態を好んでとらえている。まえには流通手段がそうであった。支払手段もまたそうである。かれがここでまたみおとしたことは、貨幣が観念的な形態から外面的な現実性に直接急変するということ、ただ考えられたにすぎない価値の尺度のうちにはすでに硬貨が潜在的にふくまれているということである。かれはいう、貨幣が商品そのものの単なる形態であるということは、卸売取引のさいにおこなわれる、と。(『フランス詳論』、前掲書、二一〇頁。)
支払は、それとしてまた、準備金を、つまり支払手段としての貨幣の蓄積を必要とする。こういう準備金の形成は、もはや、貨幣蓄蔵のばあいのように流通そのものにとっての外的な活動としても、また鋳貨準備金のばあいのように鋳貨の単なる技術上の滞留としても、あらわれない、むしろ貨幣は、将来の一定の支払期日に手もとにあるように、だんだんに蓄積されなければならない。だから致富の手段とみられている抽象的形態での貨幣蓄蔵は、ブルジョア的生産が発達するにつれて減少するのに、交換過程によって直接必要とされるこの貨幣蓄蔵は増加する、というよりはむしろ、一般に商品流通の領域内で形成される蓄蔵貨幣の一部分が、支払手段の準備金として吸収されるのである。ブルジョア的生産が発達すればするほど、こういう準備金はますます必要最小限にかぎられてくる。ロックは利子率の引下げを論じたその著述(106)のなかで、かれの時代のこの準備金の大きさについて興味ある説明をあたえている。それによってわれわれは、銀行制度がようやく発達しはじめていたちょうどその時代に、イギリスでは、支払手段のための貯水池が、一般に通流している貨幣のどれほど大きな部分を吸収していたかを知ることができる。
(106) ロック『利子の引下げ……についての若干の考察』、前掲書、一七、一八頁。
単純な貨幣通流の考察から生じた、流通する貨幣の量についての法則は、支払手段の通流によって根本的に修正される。もし貨幣の通流速度があたえられていれば、流通手段としてにしろ支払手段としてにしろ、あるあたえられた期間内に流通する貨幣の総額は、実現されるはずの商品価格の総額《プラス》その同じ期間中に満期になる支払の疎外マイナス相殺によっておたがいになくなる支払の総額、によって規定される。通流する貨幣の量は商品価格に依存するという一般的法則は、これによってすこしも影響されない。それは、支払の総額そのものが、契約上きめられた価格によって規定されているからである。だが、通流の速度と支払の節約とがそのまま変らないと前提しても、一定の期間、たとえば一日のうちに流通する商品総量の価格総額と、同じ日に流通する貨幣の総額とがけっして一致しないということは、あきらかである。なぜならば、そこには、その価格が将来はじめて貨幣で実現されるような多数の商品が流通しているし、またずっと以前に流通から脱落してしまっている商品に対応するような多数の貨幣が流通しているからである。この後者の数量そのものは、同じ日に満期になりさえすれば、たとえまったくちがった期限で契約された支払であっても、それらの支払の価格総額の大きさに依存するであろう。
すでにみたように、金銀の価値の変動は、価値の尺度または計算貨幣としてのそれらの機能に影響するものではない。しかしこの変動は、蓄蔵貨幣としての貨幣にとっては決定的に重要になる、なぜならば、金銀価値の騰落につれて、金銀蓄蔵貨幣の価値の大きさも増減するからである。支払手段としての貨幣にとってはさらにいっそう重要になる。支払は、商品の販売よりもあとではじめておこなわれる、いいかえれば貨幣は、ふたつのことなる時期にふたつのことなる機能で、まず価値の尺度として、つぎにはこの測定に照応する支払手段として作用する。もしこのふたつの時期のあいだに、貴金属の価値、つまりその生産のために必要な労働時間が変動するならば、同じ量の金銀は、支払手段としてあらわれるときには、価値の尺度として役だったとき、つまり契約のむすばれたときに比して、より大きいか、またはより小さい価値をもつことになろう。このばあいは、金銀のような特定の一商品の、貨幣つまり独立した交換価値としての機能が、その特定の商品としての、つまり価値の大きさが生産費の変動にかかっている商品としての本性と衝突するのである。ヨーロッパで貴金属の価値の低落がよびおこした大きな社会革命は、古代ローマ共和国の初期に、平民が債務の契約にもちいていた銅の価値の騰貴によってひきおこされた逆の社会革命と同様に、有名である。貴金属の価値動揺がブルジョア経済の体制におよぼす影響をこれ以上追求しなくても、貴金属の価値の低落が債権者を犠牲にして債務者を利し、その価値の騰貴が逆に債務者を犠牲にして債権者を利するものであることは、ここではもはやあきらかである。
−p.195, l.6−
金が鋳貨と区別された貨幣になるのは、第一には蓄蔵貨幣として流通過程からひきあげられることにより、つぎには非流通手段として流通にはいることによるのであるが、最後には、商品の世界で一般的等価物として機能するために国内流通の制限をつきやぶることによるのである。こうして金は世界貨幣となる。
貴金属の一般的重量尺度が原始的な価値尺度として役だったように、世界市場の内部では、貨幣の計算名はそれに応ずる重量名にふたたび転化される。無形の地金(aes rude)が流通手段の原始的な形態であって、鋳貨形態はそれ自身もともと、金属片のなかにふくまれている重量の公認の表章にすぎなかったのと同様に、世界鋳貨としての貴金属は、形状と刻印とをふたたびぬぎすてて、そういうことにかかわりのない地金形態に逆もどりする。いいかえると、ロシアのインペリアール、メキシコのターレル、イギリスのソヴリンのような国民的貨幣が外国で流通するばあいには、その称号はどうでもよいものになって、ただその内実だけが問題となるのである。最後に貴金属は、国際的貨幣として、ふたたび、交換手段としてのその本来の機能を、すなわち商品交換そのものと同じように、自然発生的な共同体の内部でではなく、異なった共同体の接触点で発生した機能を、はたす。こうして貨幣は、世界貨幣として、その自然発生的な、最初の形態をとりもどすのである。貨幣は、国内流通を去ることによって、この特定の領域の内部における交換過程の発展から生じた特定の諸形態を、つまり価格の度量標準や補助貨や価値表章としての地方的な諸形態を、ふたたびぬぎすてるのである。
われわれは、一国の国内流通では、ただひとつの商品だけが価値の尺度として役だつものだということを知っている。しかしある国では金が、ほかの国では銀がこの機能をはたしているから、世界市場では二重の価値尺度が通用し、貨幣は、ほかのあらゆる機能においても、二重の実在をもつようになる。商品価格を金価格から銀価格に、またその逆に換算することは、そのたびごとに両金属の相対的価値によって規定されるが、その相対的価値はたえず変動するので、これを定めることは、たえまない過程としてあらわれる。それぞれの国の国内流通領域の商品所有者たちは、国外流通のために金と銀とをかわるがわる使うことをしいられる。そこでまた国内で貨幣として通用している金属を、かれらがちょうど国外で必要とする金属と交換しないわけにはいかなくなる。だからどの国民も、金と銀とのふたつの金属を世界貨幣として用いているのである。
国際的商品流通では、金銀は流通手段としてではなく一般的交換手段としてあらわれる。けれども、一般的交換手段は、購買手段と支払手段というふたつの発展した形態においてのみ機能し、しかもこれら両者の関係は、、世界市場では逆になる。国内流通の領域では、貨幣は、それが鋳貨であるかぎり、いいかえると W―G―W という過程的統一の媒介者であり、商品のたえまない位置転換における交換価値のほんの一時的な形態をあらわすかぎりでは、もっぱら購買手段として作用していた。世界市場では逆である。ここでは金銀は、素材転換がただ一方的で、そのために販売と購買とが分離しているばあいに、購買手段としてあらわれるのである。たとえばキャフタでの国境貿易は、事実上も条約上も交換取引であって、銀はただ価値尺度であるにすぎない。一八五七〜五八年の戦争は、中国人をして、買うことなくして売るようにさせた。そこで銀が突如として購買手段としてあらわれた。ロシア人は、条約の文面を顧慮してフランスの五フラン貨をつぶして地銀商品に加工し、これが交換手段として役だった。銀は、一方ではヨーロッパとアメリカとのあいだで、他方ではヨーロッパとアジアとのあいだで、ひきつづき購買手段として機能しているが、アジアではそれは蓄蔵貨幣として沈殿するのである。さらにまた金属は、たとえば不作のために一方の国が異常に多量のものを買わなければならなくなるというように、二国間の素材転換のこれまでの均衡が突然やぶれるやいなや、国際的購買手段として機能する。最後に貴金属は、金銀を生産する国々の手中では国際的購買手段である。そこでは金銀は直接の生産物であり商品であって、商品の転化された形態ではない。さまざまな国民的流通領域のあいだの商品交換が発展すればするほど、国際収支決済のための支払手段としての世界貨幣の機能は、ますます発展する。
国内流通と同じように国際流通も、たえず変動する量の金銀を必要とする。だからどの国民のもとでも、蓄積された蓄蔵貨幣の一部分が世界貿易の準備金としてのはたらきをし、それが、商品交換の振動におうじて、あるいは空になったり、あるいはふたたび充たされたりする(107)。世界貨幣は、国民的*流通領域のあいだを往復する特定の運動のほかに、ひとつの一般的運動をもっている、この運動の出発点は金銀の生産源にあり、金銀の流れは、そこをでてさまざまな方向をとりつつ世界市場をかけめぐるのである。このばあい金銀は、商品として世界流通にはいり、等価物として、それらにふくまれている労働時間に比例してもろもろの商品等価物と交換され、そのうえで国内的流通領域におちつくのである。だから国内的流通領域では、金銀は、あたえられた大きさの価値をもってあらわれる。こうして金銀の生産費の変動、その一騰一落は、世界市場における金銀の相対的価値に一様な影響をおよぼすことになる。これに反して金銀の相対的価値は、さまざまな国民的流通領域が金銀を吸収する程度とはまったく無関係である。金銀の流れのうち、商品世界のそれぞれの特定領域にとらえられる部分についていえば、一部は、摩滅した金属鋳貨を補填(ほてん)するために、直接国内の貨幣流通にはいり、一部は、せきとめられて鋳貨、支払手段、世界貨幣等のそれぞれの蓄蔵貨幣貯水池にたくわえられ、一部は、奢侈品に転化され、最後にのこりは、まったくの蓄蔵貨幣となる。ブルジョア的生産の発展した段階では、蓄蔵貨幣の形成は、流通のさまざまな過程が、その機構の自由な操作のために必要とする最小限度に制限される。ここでは、蓄蔵貨幣は、――もしそれが支払を清算するさいの剰余の瞬間的な形態か、中断された素材転換の結果、したがって商品がその第一変態で硬化したものかでないばあいは、――そのものとしては、ただねかされた富となるにすぎない。
(107) 「蓄積された貨幣によってふえるのは、ほんとうに流通のなかにいて、取引の可能性をみたすために、〔かえって流通から〕遠ざかり、流通の領域そのものを去っている貨幣額である。」(ヴェルリ『経済学考察』にたいするG・R・カルリの註、クストディ編、前掲書、第一五巻、一九六頁。)
* 第一版では国際的となっていたが、自用本第一で、こう訂正されている。 ――編集者。
金銀は、貨幣としては、その概念からみて一般的商品であるが、世界貨幣においては、普遍的商品というそれに適応した実在形態をえる。金銀は、すべての生産物がそれとひきかえに譲渡される度合に応じて、一般的等価物となる。世界流通においては、諸商品が自分の交換価値を普遍的に展開するから、金銀に転化された交換価値の姿が世界貨幣としてあらわれる。それゆえ、商品所有者からなる諸国民が、その各方面にわたる産業と全般的な交易とによって、金を適当な貨幣につくりかえているのに、かれらの眼には、産業と交易とは、ただ金銀の形態をとった貨幣を世界市場からひきだすための手段としてしかうつらないのである。だから世界貨幣としての金銀は、一般的商品流通の産物であると同時に、その範囲をさらに拡張するための手段でもある。錬金術師が金をつくりだそうとしているうちに、いつか化学が生長したように、商品所有者が魔法にかけられた姿の商品を追いまわしているうちに、いつか世界産業と世界商業との泉が湧きだしたのである。金銀は、その貨幣概念のうちに世界市場の定在を予想しており、それによって、世界市場の形成をたすける。金銀のこの魔術作用は、けっしてブルジョア社会の幼年時代にかぎられるものではなく、商品世界の担い手の眼にかれら自身の社会的労働が顛倒してうつることから必然的に生じるものだということ、このことは一九世紀中葉の新しい金産地の発見が世界交易におよぼしつつある異常な影響によって証明されている。
貨幣が世界貿易に発展するように、商品所有者はコスモポリタンに発展する。人間同志のあいだのコスモポリタン的関連は、もともと、ただかれらの商品所有者としての関連にすぎない。商品はそれ自身、宗教的、政治的、国民的、言語的なすべての障壁を超越している。商品の一般的な言葉は価格であり、その共通の本質は貨幣である。しかし世界貨幣が国内貨幣に対立して発展するのにつれて、商品所有者のコスモポリティズムは、人類の素材転換をさまたげている伝来のん種虚手、国民的、およびそのほかの偏見に対立する実践理性の信仰として発展する。アメリカのイーグル貨〔一〇ドル金貨〕の形態でイギリスに上陸したその同じ金が、ソヴリン貨となり、三日後にはパリでナポレオン貨として通流し、数週間後には、ヴェニスでさらにドゥカートとしてあらわれても、やはりいつも同じ価値を保持しているように、商品所有者にとっては、国民性とは "is but the guinea's stamp"《ただギニー貨の刻印にすぎない》ことがあきらかとなる。全世界が〔理念として〕商品所有者の念頭にのぼるばあい、その崇高な理念は、ひとつの市場――世界市場という理念である(108)。
(108) モンタナリ『貨幣について』(一六八三年)、前掲書、四〇頁。「すべての民族のあいだの結びつきが地球全体において、だれもが自分の家にいながら、貨幣の力によって、土地や動物や人間の勤勉がどこかほかのところで生産したすべてのものを、調達し享受できるようになった、といってもよいほどである。まことにすばらしい発明である。」
−p.201, l.3−
ブルジョア的生産過程は、最初まず、金属流通を、すでにできあがってひきつがれてきたひとつの道具として自分のものとする。それは、もちろん徐々に変形されてはいくが、つねにその基本構造はそのままである。なぜ、ほかの商品ではなくて金銀が、貨幣の材料としてのはたらきをするのかという問題は、ブルジョア的体制の限界のそとにある問題である。だからわれわれは、もっとも本質的な観点を、ただ簡潔に総括するにとどめよう。
一般的労働時間そのものは、ただ量的な区別をゆるすにすぎないから、それの特殊な化身として通用すべき対象物は、純粋に量的な区別をあらわすことができなければならず、したがって質の同一性、一様性を前提としている。これこそは、ひとつの商品が価値尺度として機能するための第一条件である。たとえば、かりにわたくしがすべての商品を、牝牛や獣皮や穀物等々で評価するとすれば、わたくしはそれらのものを、事実上、観念のうえでの平均的牝牛、平均的獣皮ではからなければならないだろう、というのは、牝牛と牝牛、獣皮と獣皮は、どれも質的にちがっているからである。これに反して金銀は、単一体〔元素〕としてつねに相互にひとしく、したがってそれらのひとしい量は、ひとしい大きさの価値をあらわしている(109)。一般的等価物としてのはたらきをすべき商品にとっての、もうひとつの、純粋に量的な区別をあらわすという機能から直接に生ずる条件は、それが任意の諸部分に細分でき、しかも各部分がふたたび結合できるということであり、こうして計算貨幣が感覚のうえでもあらわされうるということである。金銀は、これらの属性を高度にそなえている。
(109) 「金銀は、あらゆる関係がひとつの関係に、つまりそれらの量に還元することができる唯一のものであり、またその性質上、内部構造においても、外形や加工形態においても、別個の質をもつことはないという、個性と特性とをそなえている。」(ガリアニ『貨幣について』、一三〇頁。)
流通手段として、金と銀は、ほかの商品にくらべてつぎのような長所をもっている。すなわち、その比重が大きく、相対的に大きな重さを、小さな容積であらわすことができるから、それに応じてその経済的比重も大きく、相対的に大きな労働時間、つまり大きな交換価値を、小さな容量のうちにつつむことができるということ、これである。この長所によって、運搬が容易であり、ひとりの手からほかのひとの手へ、ひとつの国からほかの国への移転が容易であるということや、すばやく出没する能力をもっているということ、――要するに、流通過程の perpetuum mobile《永久運動》としてのはたらきをすべき商品の sine qua non《必須条件》である物質的な可動性が、保証されているのである。
貴金属の高い価値比重、恒久力をもち、相対的意味では破壊されず、空気にふれても酸化しないという性質、とくに金のばあいは王水以外の酸には溶解しないという性質、こうしたいっさいの自然的属性が、貴金属を貨幣蓄蔵の自然的材料たらしめている。だからチョコレートが非常に好きであったらしいペテル・マルティルは、メキシコの貨幣の一種であった袋入りのココアについて、つぎのようにのべている。「おお、いみじくもよき貨幣よ、おまえは人類に甘美にして滋養のある飲物をあたえ、その罪のない所有者を、貪欲という業病からまもってくれる。なぜならば、おまえは、地中に埋蔵されることも、長く保蔵されることもできないのだから。」(『新世界について』《アルカラ、一五三〇年、第五編、第四章》。)
金属一般が直接的生産過程の内部で大きな意義をもつのは、それらが生産用具として機能することと関連している。ところが金銀は、それらが希少であることを度外視しても、鉄はもちろん銅(古代人が用いたようなやきをいれた状態のそれ)とくらべてさえ、はるかにやわらかく、そのことが、金銀を生産用具として利用することを不可能にし、したがってまたそれらから、金属一般の使用価値の基礎をなす属性を大幅にうばいとってしまっている。金銀は、直接的生産過程の内部ではこのように役にたたないのであるが、それと同じように、生活資料として、つまり消費の対象としてあらわれるばあいにも、なければなくてすむものである。だから金銀は、直接的な生産と消費の過程をそこなわずに、どれだけでもすきな量だけ社会的流通過程にはいっていくことができるのである。金銀に特有の使用価値が、それらの経済的機能と矛盾することはない。金銀の美的な諸属性は、これを、華美、粉飾、派手、日曜日につきものの諸欲望の自然発生的な材料、要するに余剰と富の積極的な形態たらしめるのである。それらは、いわば、地下からほりだされる純乎たる光としてあらわれる、というのは、銀は、すべての光線を本来の混合のままで反射するし、金は、もっとも強い色調である赤だけを反射するからである。しかも色彩感覚は、美的感覚一般のうちでもっとも親しみやすい形態である。インド・ゲルマン系のさまざまな言語における貴金属のよび名が、色彩関係と言語学的に連関していることは、ヤーコブ・グリムによって証明されている。(かれのドイツ語史をみよ。)
最後に、金銀が、鋳貨の形態から地金形態に、地金形態から奢侈品の形態に、またその逆の方向に転化されうること、それゆえひとたびあたえられた一定の使用形態にしばられないという、ほかの商品よりすぐれた点をもっていること、このことは、金銀を、貨幣というたえずひとつの形態規定性から他の形態規定性に転じなければならないものの自然的な材料たらしめるのである。
自然は、銀行家や為替相場をつくりださないのと同じように、貨幣をつくりだすこともない。けれどもブルジョア的生産は、どうしても富をひとつの物の形態をとった物神として結晶させないわけにはいかないから、金銀は富の適当な化身である。金銀はほんらい貨幣ではないが、貨幣はほんらい金銀である。一方では、銀または金の貨幣結晶は、単に流通過程の生産物であるというだけでなく、事実上この流通過程の唯一の休止している生産物である。他方では、金銀は、完成した自然生産物であって、第一のものはそのまま第二のものであり、形態のちがいによる区別はまったくない。社会的過程の一般的生産物、または生産物としての社会的過程そのものが、ひとつの特殊な自然生産物であり、大地の奥ふかくかくされていて、しかもそこから掘りだすことのできる金属なのである(110)。
(110) 七六〇年には、一群の貧民が、プラーグ南方にある河の砂金をあらいだすために移住した、そして三人で一日に三マルクの金を採取することができた。このために、"diggings"《金掘り》に殺到するものと、耕作をすててしまうものの数が激増して、翌年には国中が飢饉におそわれたほどである。(M・G・ケルナー『古代ボヘミア鉱業についての研究』、シュネーベルク、一七五八年《三七頁以下》をみよ。)
すでにわれわれは、金銀は、貨幣としてのそれらにもとめられる、いつもかわらない大きさの価値であるべきだという、要求をみたすことができないということを知っている。にもかかわらず金銀は、すでにアリストテレスが述べているように、ほかの商品を平均したものよりも、はるかに長い期間かわらない大きさの価値をもっている。貴金属の価値増減の一般的作用はべつとしても、金銀の比価の動揺は、両者が世界市場でともにならんで貨幣の材料としてのはたらきをしているため、とくに重要である。こういう価値変動の純経済的な根拠は、これらの金属の生産に必要な労働時間の変動に帰せられなければならない、――古代世界において金属の価値に大きな影響をおよぼした征服やそのほかの政治的変革は、ただ地方的かつ自然的稀少性、および純粋な金属状態で採取することの難易によって左右されるであろう。金は、事実上、人間が発見した最初の金属である。一方では自然そのものが、純粋な結晶形態で、つまり個体化された、化学的にほかの物体と結合していない状態で、あるいは錬金術師のいわゆる処女の状態で、この金を提供している。他方では自然そのものが、河流という大きな金洗鉱場において技術学上の仕事をひきうけている。だから人間のがわでは、河流の砂金を採取するにせよ、沖積土(ちゅうせきど)中の金をほりだすにせよ、ただもっとも素朴な労働を必要とするだけである、これにたいして銀を提供することのほうは、鉱山労働と、一般に相対的に高度な発達をとげた技術とを前提としている。だから、銀の絶対的稀少性は金にくらべれば小さいのに、その最初の価値は、金の価値よりも相対的に大きかった。アラビアのある種族では、一ポンドの鉄にたいして一〇ポンドの金があたえられ、一ポンドの銀にたいして二ポンドの金があたえられた、とストラボは確言しているが、これはけっして信じられないことではない。しかし、社会的労働の生産力が発達し、そのために単純労働の生産物が結合労働の生産物にくらべて騰貴するのに比例して、また地殻がいたるところ掘りかえされ、はじめに金を供給していた地表にある源泉が涸渇するのに比例して、銀の価値は、金の価値にくらべて下落するであろう。技術学および交通手段のある一定の発達段階においては、新しい金銀産地の発見は、決定的に重要であろう。古代アジアでは、金銀の比価は六対一または八対一であったが、この八対一という比価は、中国や日本では、一九世紀のはじめにはまだたもたれていた。クセノフォン時代の比価である一〇対一は、古代中期の平均比価とみなすことができる。スペインの銀山のカルタゴによる、またのちにはローマによる採掘は、アメリカの鉱山の発見が近代ヨーロッパにおよぼした影響に近い影響を、古代においてもった。ローマの帝政時代には、ローマでは銀のはげしい減価がしばしばおこったが、一五対一または一六対一がだいたいの平均値だとみてよい。同じ運動、つまり金の相対的な減価をもってはじまり銀価値の下落におわる運動は、これにつづく時代、つまり中世から最近にいたる時代にもくりかえされている。中世における平均比価は、クセノフォン時代と同じように一〇対一であったが、アメリカの鉱山が発見されたために、ふたたび一六ないし一五対一へと急変した。オーストラリア、カリフォルニア、およびコロンビアの金産地の発見は、おそらく金の価値をふたたび下落させることになるであろう(111)。
(111) 現在までのところ、オーストラリア等々における発見は、金銀の比価にまだ影響をおよぼしていない。ミシェル・シュヴァリエの反対意見は、この、かつてのサン・シモン主義者の社会主義と同じくらいの価値しかない。なるほどロンドン市場での銀相場のしめすところでは、一八五〇〜一八五八年の銀の平均価格は、一八三〇〜一八五〇年の磁気にくらべて三パーセント弱ほど高くなっている。だがこの騰貴は、アジアの銀の需要から簡単に説明される。一八五二〜一八五八年の間には、銀の価格は、ただこの需要につれて、ある年やある月に変動したにすぎないのであって、けっして新しく発見された産地からの金の流入につれて変動したのではない。つぎに示すのは、ロンドン市場における銀の金価格の一覧表である。〈表省略〉
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一般的な黄金欲は、近代ブルジョア社会の幼年期である一六および一七世紀の諸国民と諸侯とを、海をこえて黄金の聖杯をおいもとめる十字軍へとかりたてたが(111a)、同様に、近代世界の最初の通訳である重金主義の創始者たち、重商主義はただその一変種にすぎないところの重金主義の創始者たちは、金銀、つまり貨幣を、唯一の富であると宣言した。いみじくもかれらは、ブルジョア社会の使命は、貨幣をもうけること、したがって単純商品流通の立場からいえば、紙魚(しみ)にもさびにもおかされない永遠の財宝を形成することにある、と明言した。三ポンドの価格の一トンの鉄は、三ポンドの金と同じ大きさの価値であるといっただけでは、重金主義にとっては解答にはならない。ここでの問題は、交換価値の大きさではなくて、それにふさわしい形態である。重金主義と重商主義は、世界商業および世界商業に直接つながる国民的労働の特定の諸部門を、富または貨幣の唯一の真の源泉だとしているが、このばあい、その時代には国民的生産の大部分が、まだ封建的諸形態で運営されていて、生産者自身には直接、生計の源泉として役だっていたのだということを考慮にいれなければならない。生産物は、大部分が、商品に、したがって貨幣に転化されず、総じて全般的な社会的素材転換にははいっていかなかったから、それは、一般的抽象的労働の対象化としてはあらわれず、事実上ぜんぜんブルジョア的富を形成するものではなかった。流通の目的としての貨幣は、交換価値または抽象的富であって、富のなんらか実質的な要素、つまり生産を規定する目的やそれを推進する動機ではない。かのみとめられない予言者たちは、ブルジョア的生産の前段階にふさわしく、交換価値の純粋な、手でつかむことのできる、光かがやく形態に、つまりすべての特定の商品に対立する一般的商品としての交換価値の形態に、しがみついていたのである。その当時の真にブルジョア的な経済の領域は、商品流通の領域であった。だからかれらは、この原初的な領域に立脚してブルジョア的生産のいりくんだ全過程を判断し、そして貨幣を資本と混同したのである。重金主義ないし重商主義にたいする近代の経済学者たちのやむにやまれない闘争は、大部分、この主義が、粗野で素朴な形態で、ブルジョア的生産の秘密を、つまりそれが交換価値によって支配されているということを、口外したことからきたものである。リカアドは、〔交換価値が支配しているということを〕まげて適用するためではあるが、飢饉のときでさえ、穀物は、国民が飢えているから輸入されるのではなくて、穀物商人が貨幣をもうけるから輸入されるのだ、とどこかでいっている。だから経済学が重金主義と重商主義を批判するのに失敗したのは、それが、この主義を、単なる幻想として、ただまちがった理論として敵視するだけで、自分自身の基本的前提の野蛮な形態として再認識しなかったからである。しかもそのうえ、この主義は、ただ単に歴史的権利をもっているというだけでなく、近代経済の一定の領域のなかでは、完全な市民権をもっている。富が商品という原基的形態をとるブルジョア的生産過程のすべての段階では、交換価値は貨幣という原基的形態をとり、富は、生産過程のすべての局面で、くりかえし瞬間的に商品という一般的、原基的形態にもどる。もっとも発達したブルジョア的経済においてさえ、金銀の貨幣としての特殊な諸機能、流通手段としてのそれらの機能とは異なる、ほかのすべての商品に対立する諸機能は、止揚されないで、ただ制限されるだけであり、それゆえまた重金主義と重商主義とは、その権利をもちつづける。金銀が、社会的労働の直接の化身として、したがって抽象的な富の定在として、俗界の他の諸商品と対立しあうというカトリック的事実は、当然ブルジョア経済学のプロテスタント的 point d'honneur《体面》を傷つけるものである、そこでブルジョア経済学は、重金主義のもろもろの偏見におそれをなして、ながいあいだ、貨幣流通の諸現象についての判断をくだせなかったのであるが、それはつぎの叙述でわかるであろう。
(111a) 「金はふしぎなものである! それをもつ者は、かれののぞむすべてのものの支配者である。金をもってすれば、ひとは魂を天国にいかせることもできる。」(コロンブスのジャマイカからの手紙、一五〇三年)《自用本第一の註。》
貨幣を、ただ流通の結晶した産物としての形態規定性で知っているにすぎない重金主義や重商主義とは逆に、古典派経済学が、それを、なによりもまず流動的な形態で、商品変態そのもののなかでつくりだされてはまた消え去る交換価値の形態として、把握したのは、まったく当然のことであった。だから、商品流通が、ただ W―G―W の形態でだけ把握され、さらにこの形態が、ただ販売と購買との過程的な統一という規定性でだけ把握されるのと同じように、貨幣は、貨幣としてのその形態規定性にたいして、流通手段としてのその形態規定性において主張される。流通手段そのものが、その鋳貨としての機能において孤立させられると、それは、すでにみたように、価値表章に転化する。だが古典派経済学は、まず最初に、流通の支配的な形態として金属流通に直面したのだから、金属貨幣を鋳貨として、金属鋳貨を価値表章としてとらえるのである。こうして、価値表章の流通の法則に対応しつつ、商品の価格は流通している貨幣の量により左右されるのであって、逆に流通している貨幣の量が商品の価格により左右されるのではない、という命題がうちたてられる。われわれは、こういう見解が、一七世紀のイタリアの経済学者たちによって多かれ少なかれ暗示され、ロックによってときには肯定され、ときには否定され、「スペクテーター」紙(一七一一年一〇月一九日号)によって、モンテスキューとヒュームとによって、決定的に展開されているのをみいだすのである。ヒュームは一八世紀におけるこの理論のもっとも重要な代表者であるから、われわれも展望をかれからはじめよう。
一定の前提のもとでは、流通している金属貨幣にせよ、流通している価値表章にせよ、その量の増加ないし減少は、諸商品価格に均等に作用するようにみえる。諸商品の交換価値を価格として評価するさいの金銀の価値が、下落または騰貴すれば、価格は、その価値尺度が変化したのだから、騰貴または下落する。そして価格が騰貴または下落したのだから、より多量の、またはより少量の金銀が、鋳貨として流通する。けれども目にみえる現象は、諸商品の交換価値はもとのままであるのに、流通手段の量の増加や減少につれて、価格が変動するということである。他方では、流通する価値表章の数量が、その必要な水準以上なり以下なりに増加または減少すれば、その数量は、諸商品価格の下落か騰貴かによって、いやおうなしに必要な水準に還元される。どちらのばあいにも同じ結果が同じ原因によってひきおこされたようにみえる。そこでヒュームはこの外観にしがみついたのであった。
流通手段の数量と商品の価格運動との関係についての科学的研究はすべて、貨幣材料の価値をあたえられたものとして前提しなければならない。ところが逆にヒュームは、もっぱら、貴金属という尺度そのものの変革、つまり価値の尺度の変革があった時代だけを考察する。アメリカの鉱山の発見いらい、商品価格の騰貴は金属貨幣の増加と時を同じくしたことが、かれの理論の歴史的背景をなしているが、同時にまたかれの理論に実践的な動機をあたえたのは、重金主義ないし重商主義にたいする論争である。貴金属の供給が、もとのままの生産費で、増加されうることはいうまでもない。他面、貴金属の価値の減少、すなわちその生産に必要な労働時間の減少は、さしあたりその供給の増加という形であらわれるにすぎない。だから、ヒューム一派のひとびとは、のちには、貴金属の価値の減少は流通手段の量の増加にあらわれ、流通手段の量の増加は商品価格の騰貴にあらわれる、といった。しかし事実上騰貴するのは、輸出される商品の価格だけであり、しかもこれは、商品としての金銀と交換されるのであって、流通手段としてのそれらと交換されるのではない。こうして、価値の減少した金銀で評価されるこの〔輸出〕商品の価格は、交換価値がひきつづき金銀のもとの生産費の度量標準にしたがって評価されることは、もちろん、ただ一時的にありうるだけであって、金価格ないし銀価格は、交換価値そのものによって規定される比率で平均されないわけにはいかなくなり、こうして結局、すべての商品の交換価値は、貨幣材料のあたらしい価値に応じて評価されるようになる。こういう過程の展開は、一般に市場価格の内部で商品の交換価値が自分をつらぬくばあいのやり方がそうであるように、まだここでとりあげるべきことではない。だがこの平均化が、ブルジョア的生産のあまり発達していない時代には、きわめてゆっくりと、ながい期間にわたっておこなわれ、しかも、いつのばあいでも、通流しつつある現金の増加と歩調をそろえるものでないことは、一六世紀の商品価格の運動についての新しい批判的研究によって、的確に証明されている(112)。ヒューム一派のひとびとは、マケドニア、エジプト、小アジアの征服の結果として古代ローマにおこった価格の騰貴を好んで引用するが、これはまったくまとはずれである。貯蓄された蓄蔵貨幣を、ある国からほかの国に突然むりやり移転するという、古代世界に特有なことや、単なる掠奪過程によって、ある一定の国にとっての貴金属の生産費が一時的に減少することは、貨幣流通の内在的法則にすこしもふれるものではない、それは、たとえば、ローマにおいてエジプトやシシリアの穀物をただで分配したことが、穀物価格を規制する一般的法則にふれるものではないのと同様である。貨幣流通をくわしく観察するために必要な材料、すなわち、一方では商品価格のゆきとどいた歴史、他方では流通媒介物の膨張・収縮、貴金属の流入・流出等々についての公の連続した統計といったような、がいして銀行制度が完全に発達してはじめてあらわれる材料は、一八世紀の他の著述家のすべてと同様、ヒュームももっていなかったのである。ヒュームの流通理論を要約すれば、つぎの諸命題となる。一、一国における商品の価格は、その国に現存する貨幣(現実的、または象徴的貨幣)の量によって規定される。二、一国で流通している貨幣は、その国に現存するすべての商品を代表する。代表物、すなわち貨幣の数がかわってゆく〔増減する〕のに〔逆〕比例して、代表されるものが個々の代表物に帰属する量が増減する。三、商品が増加すれば、それらの価格が下落する、あるいは貨幣の価値が騰貴する。貨幣が増加すれば、逆に諸商品の価格が騰貴して貨幣の価値が下落する(113)。
(112) ヒュームは、かれの原理には合致しなかったけれども、ともかくこの過程がゆっくりしたものであることをみとめている。デイヴィッド・ヒューム『若干の問題についての論集』、ロンドン版、一七七七年、第一巻、三〇〇頁をみよ。
(113) ステュアート『経済学の諸原理にかんする研究』、第一巻、三九四〜四〇〇頁を参照。
ヒュームはいう、「貨幣の過剰のためにものが高価になることは、すべての既存の商業にとって不利益である、というのは、そのために、貧乏な国々はすべての外国市場で、富んだ国々よりもやすく売れるようになるからである(114)。もしわれわれが一国民をそれだけで考察するならば、商品を計算したり代表したりするための鋳貨が多いか少ないかは、よいにせよ悪いにせよ、なんの影響もおよぼさない。それはちょうど、商人が記帳をするのに、わずかな数字しか必要でないアラビア数字法のかわりに、たくさんの数字が必要なローマ数字法を用いても、その帳尻になんのちがいも生じないのと同じである。いな、貨幣の量の多いのは、ローマ数字と同じように不便であって、その保管と運搬により多くの手数がかかるのである(115)。」およそなにかを証明するためには、ヒュームはあるあたえられた数字法のもとで、使われる数字の数が数値の大きさによるのではなく、逆に数値の大きさが使われる文字の数によるものであることを示さなくてはならなかったであろう。商品価値を価値の下落した金なり銀なりで評価または「計算」しても、なんの利益にもならないということは、まったくそのとおりである。だから、諸国民は、流通する商品の価値総額が増加するにつれて、銅で計算するよりも銀で計算するほうが、銀で計算するよりも金で計算するほうが、つねにいっそう便利なことを知った。諸国民は、かれらが豊かになるのに応じて、価値の小さい金属を補助鋳貨に、価値の大きい金属を貨幣に転化させた。他方ではヒュームは、価値を金銀で計算するためには、金も銀も「現存する」必要のないことをわすれている。かれにとっては、計算貨幣と流通手段とは同じものであって、どちらも鋳貨(coin)である。価値の尺度の、つまり計算貨幣として機能する貴金属の価値変動は、商品価格を騰貴または下落させ、したがってまた、通流速度がもとのままであれば、流通する貨幣の分量を増加または減少させるものだから、ヒュームは、商品価格の騰貴なり下落なりは、流通する貨幣の量によって左右される、と結論する。一六および一七世紀には、ただ金銀の量が増加したばかりでなく、同時にまたそれらの生産費も減少したのだということを、ヒュームは、ヨーロッパの諸鉱山の閉鎖された事実から知ることができた。一六および一七世紀には、ヨーロッパの商品価格は、輸入されたアメリカの金銀の分量が増加するにつれて騰貴した。そこで、各国の商品価格は、その国に存在する金銀の分量によって規定される。これがヒュームの第一の「必然的帰結」であった(118)。一六および一七世紀には、価格は貴金属の増加にともなって一様には騰貴しなかった。商品価格になにほどかの変化があらわれるまでには、半世紀以上もかかったし、変化があらわれてからでも、商品の交換価値がおしなべて金銀の下落した価値にしたがって評価されるまでには、したがってこの革命が一般の商品価格におよぶまでには、さらに長い期間が必要だったのである。だからヒュームは、かれの哲学の根本的命題とまったく矛盾して、一面的に考察された事実を無批判的に一般的命題に転化させつつ、つぎのように結論している、すなわち、商品の価格または貨幣の価値は、一国に存在する貨幣の絶対量によってではなく、むしろ、実際に流通にはいる金銀の量によって規定されるが、しかし結局のところ、一国に存在するすべての金銀は、鋳貨として吸収されずにはいない、(117)と。金銀がそれ自身の価値をもっているばあいには、通流のほかのすべての法則は度外視(どがいし)しても、ただ一定量の金銀だけが、諸商品の所与の価値総額の等価物として流通できるにすぎないということは、あきらかである。だから、たまたま一国内に存在する任意の量の金銀が、商品価値の総額にはかかわりなく、流通手段として商品交換にはいりこまなければならないとすれば、金銀はなんらの内在的価値をももたず、したがって事実上現実的な商品ではない。これがヒュームの第三の「必然的帰結」である。かれは、価格のない商品と価値のない金銀とを、流通過程にはいりこませる。だからかれはまた、商品の価値と金の価値とについてはすこしも論じないで、ただそれらの相関的な量についてだけ論じるのである。すでにロックは、金銀は、ただ想像上または習慣上の価値をもっているにすぎないといっている、これは、金銀だけが真の価値をもつという重金主義の主張にたいする反対論の最初の粗野な形態である。金銀の貨幣定在は、ただ社会的交換過程におけるそれらの機能だけから発生するものだということが、金銀は、それら*自身の価値、したがってそれらの価値の大きさを、社会的な機能のおかげでもっているのだ、というように、解釈されるのである(117a)。だから、金銀は、価値のないものであるが、しかも流通過程の内部では、諸商品の代表物としてひとつの擬制的な価値の大きさをえる。金銀は、この過程によって、貨幣に転化されるのではなくて価値に転化される。金銀のこの価値は、それら自身の分量と商品量とのあいだの割合によって規定される、というのは、双方の分量が一致しなければならないからである。だからヒュームは、金銀を非商品として商品の世界にはいりこませておきながら、それらが鋳貨としての形態規定性であらわれるやいなや、逆にこの金銀を、単純な交換取引によって他の商品と交換されるただの商品に転化させるのである。そこで、もしも商品世界が、たった一種類の商品、たとえば一〇〇万クォーターの穀物からなりたっているとすれば、話は非常に簡単であろう、すなわち、一クォーターの穀物は、二〇〇万オンスの金が現存するばあいには二オンスの金と交換され、二、〇〇〇万オンスの金が現存するばあいには二〇オンスの金と交換され、こうして商品の価格と貨幣の価値とは、貨幣の現存量に反比例して騰貴したり下落したりする(117b)。けれども、商品世界は無限に異なる使用価値からなりたっており、それらの相対的価値はけっしてそれらの相対的量によって規定されてはいない。ではヒュームは、商品の大量と金の大量とのあいだのこの交換をどう考えるのか? かれは、おのおのの商品は総商品量の可除部分と交換されるという、無概念的であいまいな考えで満足している。だから、商品のうちにふくまれている交換価値と使用価値との対立から発生し、貨幣の通流にあらわれ、そして貨幣のさまざまな形態規定性に結晶する商品の過程的な運動は、消えてしまって、そのかわりに、一国に存在する貴金属の総重量と、同時に現存する商品総量との、空想上の機械的な等置があらわれるのである。
(114) デイヴィッド・ヒューム『論集』、三〇〇頁。
(115) デイヴィッド・ヒューム、前掲書、三〇三頁。
(116) デイヴィッド・ヒューム、前掲書、三〇三頁。
(117) 「価格が、一国に現存している商品の絶対量と貨幣の絶対量とにかかるものではなくて、むしろ市場にでまわる、あるいはでまわりうる商品の数量と流通している貨幣の数量とにかかるものであることは、あきらかである。もし鋳貨が金庫のなかにとじこめられているならば、価格にとっては、それが破棄されてしまったのと同じである。もし商品が倉庫や穀倉に貯蔵されているならば、同じ結果が生じる。こういうばあいには、貨幣と商品とはけっして出会わないのだから、両者がたがいに影響しあうことはできない。(価格の)総額は、結局、一国内にある金属貨幣の新しい数量と正しい比例をもつ点にくる。」(『論集』、三〇三、三〇七、三〇八頁。)
(117a) ローとフランクリンの剰余価値論をみよ。金銀は、この剰余価値を、貨幣としてのその機能からうけとるものとされている。また、フォルボネーをも参照せよ。《自用本第一の註》
(117b) この擬制は、モンテスキューのばあいには、文字どおりにあらわれている。《自用本第一の註》
* それらは、自用本第二で挿入された。
サー・ジェイムズ・ステュアートは、鋳貨と貨幣についてのかれの研究を、ヒュームとモンテスキューのくわしい批判からはじめている(118)。実際かれは、通流する貨幣の量が商品価格によって規定されるのか、それとも商品価格が通流する貨幣の量によって規定されるのか、という問題を提起した最初のひとである。かれの叙述は、価値の尺度についての空想的な見解や、交換価値一般についてのあやふやな叙述や、重商主義のなごりやのためににごっているとはいえ、しかもかれは、貨幣の本質的な形態規定性と貨幣通流の一般的法則とを発見している。これは、かれが、商品を一方のがわに、貨幣を他方のがわにおくようなことをしないで、事実に即しつつ、商品そのもののさまざまな契機から、さまざまな機能を展開したからである。「国内流通のための貨幣の使用は、債務の支払と必要なものの購買というふたつの主要点にまとめられる。両者はあい合して現金にたいする需要(ready money demands)を形づくっている。……商業と工業の状態や、住民の生活様式と慣習的支出は、全部あつまると、現金にたいする需要の総量、いいかえれば売却の総量を規制し、決定する。このように多種多様な支払をおこなうためには、一定の割合の貨幣が必要である。この割合そのものは、たとえ売却の量が同一のままであっても、事情に応じて、ふえたりへったりすることができる。……とにかく、一国の流通は、ただ一定量の貨幣を吸収できるだけである(119)。」「商品の市場価格は、需要と競争(demand and competition)との複雑な作用によって規定されるが、この需要と競争とは、一国に存在する金銀の分量とはまったく無関係である。それでは、鋳貨として必要とされない金銀はどうなるか? それは、蓄蔵貨幣として蓄積されるか。または奢侈品の材料として加工される。金銀の分量が流通に必要な水準以下に減少すれば、それらは、象徴的貨幣なり、そのほかの手段なりによっておぎなわれる。順な為替相場が過剰な貨幣を国内にもたらし、同時に貨幣の外国向輸送にたいする需要をたちきるならば、貨幣はトランクにしまいこまれることが多いが、そうなればそれは、ちょうど鉱山にあるばあいと同様、無益なものとなる(120)。」ステュアートによって発見された第二の法則は、信用にもとづく流通はその出発点に還流する、ということである。最後にかれは、さまざまな国における利子率のちがいが貴金属の国際的流出流入におよぼす効果を説明している。この最後のふたつの規定は、ここでは、ただ説明を完全にするため示唆するにとどめる(121)。なぜならば、それらは、単純流通というわれわれのテーマからは、かけはなれているからである。象徴的貨幣または信用貨幣は、――ステュアートは貨幣のこのふたつの形態をまだ区別してはいない、――購買手段または支払手段としての貴金属に、国内流通ではかわることができるが、世界市場ではかわることができない。だから、紙幣は社会の貨幣(money of the society)であるが、金銀は世界の貨幣(money of the world)である(122)。
(118) ステュアート『経済学の諸原理にかんする研究』、第一巻、三九四頁以下。
(119) ジェイムズ・ステュアート、前掲書、第二巻、三七七〜三七九頁より抄出。
(120) 前掲書、第二巻、三七九〜三八〇頁より抄出。
(121) 「余分の鋳貨はしまいこまれるか、さもなければ銀器に転化されるであろう。……紙幣はどうかといえば、それを借りたひとの需要をみたすという第一の目的をはたすと、すぐさまその発行者の手にもどって現金にかえられる。……だから、一国の硬貨をどんなに大きな比率で増加ないし減少させようと、商品は、やはり需要と競争との諸原則にしたがって、騰貴ないし下落するであろう、しかも需要と競争とは、つねに、財産なりあたえるべきなんらかの種類の対価なりをもっているひとびとの意向によって左右されるが、かれらのもっている鋳貨の数量によって左右されることはけっしてないであろう。……それ(すなわち一国内の金属貨幣の数量)をどんなに小さくしても、その国になんらかの種類の現実的財源があり、その所有者たちのあいだに消費の競争があるかぎり、価格は、交換取引、象徴的貨幣、相互支払、そのほかの数しれない発明によって騰貴するであろう。……もしこの国がほかの国とゆききしていれば、この国における多くの商品の価格とほかの国のそれとのあいだには、あるつりあいがたもたれていなければならない、そして金属貨幣の突然の増加または減少は、かりにそれだけで価格を騰貴または下落させる効果をうみだすことができるとみるにしても、外国の競争によってその効果を制限されるであろう。」ステュアート『経済学の諸原理にかんする研究』、第一巻、四〇〇〜四〇二頁。「各国の流通は、市場にあらわれる商品を生産する住民の産業的活動に適合していなければならない。……だからもし一国の硬貨が、販売に向けられた産業的活動の価格とつりあわないほどに減少すれば、ひとびとは、それにたいする等価物をこしらえるために、象徴的貨幣のような発明にたよるであろう。しかし、金属貨幣が産業的活動とつりあう以上に存在していても、それは、価格を騰貴させる効果をもたないし、流通にはいってもいかない。それは、蓄蔵貨幣として貯蔵されるであろう。……一国にある貨幣の数量が、世界の他の国々とくらべて、どんなに大きかろうとも、富んだ住民の消費と貧しい住民の労働と勤労とにほぼ比例する数量以上のものは、けっして流通にとどまることはできない。」しかもこの比率は「その国に実際に現存する貨幣の数量によって」は規定されない(前掲書、四〇三〜四〇八頁より抄出。)「すべての国は、その国自身の流通に必要でない現金を、自国よりも貨幣利子のたかいほかの国に投下しようと努力するであろう。」前掲書、第二巻、五頁。「ヨーロッパでもっとも富んだ国が、流通している金属貨幣に関してはもっとも貧しい国であるかもしれない。」(『経済学の諸原理にかんする研究』、第二巻、六頁。)
ステュアートにたいするアーサー・ヤングの論争をみよ。《自用本第一における追加》
(122) ステュアート、前掲書、第二巻、三七〇頁。ルイ・ブランは、国内的・国民的貨幣にすぎない「社会の貨幣」を、まったくなんの意味もない社会主義的貨幣に転化し、そのつづきとしてジャン・ローを社会主義者にしている。(かれの『フランス革命史』第一巻をみよ。)
自分自身の歴史をつねに忘れているということは、歴史法学派の意味での「歴史的」発展をした諸国民の特徴である。だから商品価格と流通手段の量との関係についての論争が、この半世紀のあいだひきつづきイギリス議会をさわがせ、大小何千というパンフレットをイギリスでうみだしてきたにもかかわらず、ステュアートは、なお依然として、スピノザがレッシングの時代のモーゼス・メンデルスゾーンに「死んだ犬」だと思われた以上に、「死んだ犬」であった。最新の "curency"《通貨》史家マクラレンでさえ、アダム・スミスをステュアートの理論の発明者に、リカアドをヒュームの理論の発明者にしてしまっている(123)。リカアドは、ヒュームの理論を深化したのに、アダム・スミスはステュアートの研究の諸結果を死んだ事実として記録している。アダム・スミスは、「すこしでももうけておけば、たくさんもうけるのがたやすくなる」というかれの祖国スコットランドのことわざを、精神的な富にも応用して、かれが事実上たくさんもうけたもとでである、わずかなものをあたえてくれた源泉を、こまかく気をつかってかくしている。かれは、厳密に定式化するとかれの先行者たちと〔独創部分の〕差引勘定をしなければならなくなるおそれのあるところでは、問題の要点をはずすというやりかたを、たびたびえらんでいる。貨幣理論がそうである。かれは、ステュアートの理論をだまって採用して、一国に存在する金銀は、一部は鋳貨として使用され、一部は、銀行のない国々では商人のための準備金として、信用流通のおこなわれている国々では銀行の準備金として、貯蔵され、一部は国際的支払の決済のための蓄蔵貨幣としてのはたらきをし、一部は奢侈品に加工される、とのべている。かれは、貨幣をただの商品としてあつかうというようにぜんぜんまちがったことをすることで、流通する鋳貨の量についての問題をだまってかたづけている(123a)。スミスの俗化者であるあのばかなJ・B・セーは、ちょうどヨーハン・クリストフ・ゴットシェットが、かれのシェーンアイヒをホーマーとよび、ピエトロ・アレティノが、自分のことを terror principum《王侯の恐怖》とか、lux mundi《世界の光》とかよんだように、フランス人によって prince de la science《科学の王子》とよばれているが、アダム・スミスのこのあまり無邪気でないまちがいを、大いにもったいをつけつつ、教義にまでまつりあげている(124)。ちなみに、アダム・スミスは、重商主義の錯覚にたいする論争にはりきっていたため、金属流通の諸現象を客観的に理解するのをさまたげられたのであるが、信用貨幣についてのかれの見解は、独創的でふかみがある。一八世紀の化石理論のなかには、ノアの洪水についての聖書の伝説にたいする批判的顧慮なり弁護的捕虜なりからわきでるひとつの底流がつねに貫流していたように、一八世紀のすべての貨幣理論の背後には、ブルジョア経済のゆりかごをまもりおえながら、なおたえず立法のうえにその濃い影をなげかけていた幽霊たる、重商主義とのひそかな闘争がかくれているのである。
(123) マクラレン『通貨史』、ロンドン、一八五八年、四三頁以下。若くして死んだドイツの一著述家(グスタフ・ユリウス)は、愛国心にかられて、老ビュッシュを、権威としてリカアド学派に対置するというあやまりをおかした。名誉のビュッシュは、ステュアートの天才的な英語をハンブルクの方言に翻訳し、かれの原本をできるだけ改悪したのである。
(123a) これは正確ではない。かれはむしろ、二三の箇所で、この法則を正しくいいあらわしている。《自用本第一の註》
(124) だから「通貨(curency)」と「貨幣(money)」との、つまり流通手段と貨幣との区別は『国富論』のなかにはみられない。お手本であるヒュームとステュアートとを非常によく知っていたアダム・スミスが、一見公平であるようにみえるのにあざむかれて、正直なマクラレンはつぎのようにいっている。「価格が通貨の数量に依存するという理論は、これまで注意をひかなかった。そしてスミス博士は、ロック氏と同じように」(ロックはかれの意見をかえている)「金属貨幣を商品にほかならないものだと考えている。」(マクラレン『通貨史』、四四頁。)
貨幣の本質にかんする研究は、一九世紀には、金属流通の現象によってではなく、むしろ銀行券流通の現象によって、直接刺戟された。前者にまでさかのぼって研究されたのは、ただ後者の諸法則を発見するためにすぎない。一七九七年以来のイングランド銀行の兌換(だかん)停止、それにつづいておこった多くの商品の価格の騰貴、金の鋳貨価格の市場価格以下への下落、銀行券の、とくに一八〇九年からの減価、これらは議会内での政党の争いと、議会外での理論の試合とに、直接実践的な動機をあたえた。そしてどちらも同じように情熱的にたたかわれた。この論争の歴史的背景として役だったものは、一八世紀における紙幣の歴史、すなわちローの銀行の破産、一八世紀のはじめから中ごろにかけて北アメリカのイギリス植民地で、価値表章の量の増加と手をたずさえてすすんだ州銀行券の減価、さらにくだっては、アメリカの中央政府によって、独立戦争中法律的におしつけられた紙幣(continental bills)、最後には、もっと大規模におこなわれたフランスのアッシニア紙幣の実験などであった。当時の大多数のイギリスの著述家たちは、まったく別の法則によって規定されている銀行券の流通を、価値表章または強制通用力をもつ国家紙幣の流通と混同し、しかも、この強制流通の諸現象を金属流通の法則から説明すると称しながら、実際には逆に、後者の法則を前者の諸現象から抽象したものである。われわれは、一八〇〇年から一八〇九年までの多くの著述家たちを全部とびこして、すぐさまリカアドにむかうことにするが、これは、かれが、その先行者たち〔の所説〕をまとめ、かれらの意見をいっそう鋭く定式化しているからであり、またかれが、貨幣理論にあたえた定形は、こんにちまでイギリスの銀行立法を支配しているからである。リカアドは、かれの先行者たちと同じように、銀行券または信用貨幣の流通を、単なる価値表章の流通と混同している。かれの考えを支配していた事実は、紙幣の減価、ならびにこれと同時におこる商品価格の騰貴であった。ヒュームにとってアメリカ諸鉱山にあたるものは、リカアドにとってはスレッドニードル街の紙幣印刷機であって、リカアド自身も、ある箇所でこのふたつの要因をはっきりと同一視している。かれの初期の諸著作は、貨幣問題だけをとりあつかっているが、それら(がでたの)は、大臣と主戦党とを味方にしたイングランド銀行と、議会の反対党であるホイッグ党と平和党とによってとりまかれたその反対者とのあいだで、もっともはげしい論争のおこなわれている時期にあたっている。これらの著作はリカアドの見解を採用した一八一〇年の地金委員会の有名な報告書の直接の先駆としてあらわれた(125)。貨幣を単なる価値表章だと説明するリカアドおよびその追随者たちは、奇妙なことには Bullionista(地金主義者)とよばれているが、これは、単にこの委員会のよび名からきているばかりではなく、かれの学説の内容そのものからもきているのである。リカアドは、かれの経済学に関する著作で同じ見解をくりかえし、さらに発展させてもいるが、しかし貨幣の本質そのものについては、かれが交換価値、利潤、地代等々についてしたような研究を、どこでもおこなってはいないのである。
(125) デイヴィッド・リカアド『地金の高価格、銀行券の減価の一証拠』、第四版、ロンドン、一八一一年。(第一版は一八〇九年に出版された。)さらに『地金委員会の報告についてのボウズンキット氏の実際的考察に答う』、ロンドン、一八一一年。〔いずれも小畑茂夫訳『リカアド貨幣銀行論集』に収められている。〕
リカアドは、まず金銀の価値を、ほかのすべての商品のそれと同じように、それらに対象化されている労働時間の量によって規定する(126)。ほかのすべての商品の価値は、あたえられた価値をもつ商品としての金銀ではかられる(127)。そこで一国の流通手段の量は、一方では貨幣の度量単位の価値によって、他方では商品の交換価値の総額によって規定される。この量は支払方法における節約によって修正される(128)。こうして、あたえられた価値をもつ貨幣が流通できる量は一定しており、しかも貨幣の価値は流通の内部ではその量にだけあらわれるのだから、それの単なる価値表章は、貨幣の価値によって規定された比率で発行されるばあいには、流通のうちで貨幣にかわることができる、実際また、「通流する貨幣は、それが代表するはずの金とひとしい価値をもつ紙券だけからなりたっているばあいには、もっとも完全な状態にあるのである(129)。」だから、これまでのところでは、リカアドは、貨幣の価値をあたえられたものと前提したうえで、流通手段の量を商品の価格によって規定しているのであって、価値表章としての貨幣は、かれにとっては、一定の金量の表章を意味し、ヒュームのばあいのように商品の無価値な代表物ではない。
(126) デイヴィッド・リカアド『経済学……の原理』、七七頁。「貴金属の価値は、結局、ほかのすべての商品の価値と同じように、それを獲得して市場にもたらすために必要な労働の総量に依存する。」〔前掲、訳本、上巻七七頁。〕
(127) 前掲書、七七、一八〇、一八一頁。
(128) リカアド、前掲書、四二一頁。「一国でもちいられうる貨幣の量は、その価値に依存する。もしも金だけが流通するとすれば、銀だけがもちいられるばあいの一五分の一しかいらないだろう。」〔前掲、訳本、下巻九一頁。〕リカアド『経済的で安定した通貨のための提案』、ロンドン、一八一六年、一七、一八頁をみよ。〔前掲、小畑訳本、所収〕ここでは、かれはつぎのようにいっている。「流通する紙幣の量は、その国の流通にとって必要な総額にかかっている、そしてまた後者は、貨幣の度量単位の価値、諸支払の総額、諸支払を実現するにあたっての節約によって規制されている。」〔前掲、訳本、二二六頁参照。〕
(129) リカアド『経済学……の原理』、四三二、四三三頁。
リカアドは、かれがその叙述の平坦なはこびを突然うちきって逆の見解にかわるところで、いきなり貴金属の国際的流通をとりあげ、こうして、無関係な視点をもちこむことで、問題を混乱させている。われわれは、かれが頭のなかで考えていることをたどりつつ、まずすべての人為的なつけたしをとり去り、そうすることによって金銀の鉱山を、貴金属が貨幣として流通している国の内部にうつしてみよう。リカアドのこれまでの説明から生ずるただひとつの命題は、金の価値があたえられているばあいには、流通する貨幣の量は商品価格によって規定されるということである。だから、あたえられた瞬間に、一国内で流通している金の分量は、もっぱら流通する商品の交換価値によって規定される。いま、この交換価値の総量が、より少ない量の商品がもとのままの交換価値で生産されるためか、あるいはまた労働の生産力が増大したことから同じ商品量がより少ない交換価値をもつようになったために、減少するものとしよう。あるいは逆に、交換価値の総額が、もとのままの生産費でつくられる商品の分量が増加したためか、あるいはまた、同じ分量の商品にせよ、少ない分量の商品にせよ、それらの価値が労働の生産力の減少の結果として増加したために、増加するものとしよう。これらふたつのばあいには、流通する金属のあたえられた量はどうなるのか? もしも金が、流通手段として通流するということだけで貨幣であるのならば、つまり、もしも金が、国家の発行する強制通用力をもった紙幣のように、流通にとどまることを強制されているのならば、(そしてリカアドが考えているのはこういうばあいであるが)流通する貨幣の量は、第一のばあいには金属の交換価値に比べて過剰となり、第二のばあいにはその正常な水準以下となるであろう。そこで、金は、それ自身の価値をもっているとはいうものの、第一のばあいには、それ自身の交換価値よりも低い交換価値をもつ金属の表章となり、第二のばあいにはより高い価値をもつ金属の表章となる。それは、第一のばあいには、価値表章としてその実際の価値よりも低くなり、第二のばあいには高くなるであろう(これもまた強制通用力をもつ紙幣からの抽象である)。第一のばあいには、商品が金より低い価値の金属で、第二のばあいには、商品が金より高い価値の金属で、評価されたのと同じであろう。したがって第一のばあいには商品価格は騰貴し、第二のばあいには下落するであろう。どちらのばあいにも、商品価格の運動、つまり騰貴と下落とは、流通する金の分量が、金自身の価値に対応する水準以上なり以下なりに、すなわち金そのものの価値と流通するべきはずの商品の価値との割合によって規定される正常な量以上なり以下なりに、相対的に*膨張したり収縮したりする結果として生ずるであろう。
* 第一版には「相対的に」はない。自用本第一で訂正されている。 ――編集者。
同じ過程は、流通する商品の価格総額はかわらないままであるが、しかし流通する金の分量がその正しい水準以上なり以下なりになるようなばあいにも、生じるであろう、第一のばあいが生じるのは、流通で消耗される金鋳貨が、それに対応しつつおこなわれる鉱山での新しい生産によって補充されないようなときであり、第二のばあいが生じるのは、鉱山からの新しい供給が流通の需要をこえるようなときである。どちらのばあいにも、金の生産費つまりその価値は、同じままであるものと前提されている。
〔リカアドのいうところを〕要約すればこうである。商品の交換価値があたえられていれば、流通する貨幣が正常な水準にあるのは、その数量がそれ自身の金属価値によって規定されているばあいである。流通する貨幣が満ちあふれ、金がそれ自身の金属価値以下に下落し、商品の価格が騰貴するのは、商品総量の交換価値の総額が減少するからか、または鉱山からの金の供給が増加するからかである。流通する貨幣がその正しい水準以下に収縮し、金がそれ自身の金属価値以上に騰貴し、商品価格が下落するのは、商品総量の交換価値の総額が増加するからか、または鉱山からの金の供給が消耗された金の量を補充しないからである。どちらのばあいでも、流通しつつある金は、それが実際にふくんでいる価値に比して、より大きい価値の、またはより小さい価値の、価値表章である。それは、自分自身の増価した表章にも、また減価した表章にもなることができる。商品が、一般に、貨幣のこの新しい価値で評価され、一般的な商品価格が、それに応じて騰貴なり下落なりしてしまえば、流通する金の量は、流通の需要にはふたたび照応することになるであろう(これは、リカアドがとくに満足しつつ力説した帰結である)。しかしそれは、貴金属の生産費、したがってまた商品としての貴金属の他の商品にたいする関係とは矛盾することになるであろう。交換価値一般についてのリカアドの理論どおりに、金がその交換価値以上に、つまりそれにふくまれている労働時間によって規定される価値以上に騰貴すれば、金の生産の増加がうながされるであろう、そしてついには、供給の増加が、金をふたたびその正しい価値の大きさにまで下落させるであろう。逆に、金がその価値以下に下落すれば、その生産の減少をまねくこととなるであろう、そしてついに、金は、ふたたびその正しい価値の大きさにまで騰貴するであろう。これらの逆の運動によって、金の金属価値と流通手段としての価値とのあいだに存する矛盾は調整され、流通する金分量の正しい水準が回復され、商品価格の高さは、ふたたび価値の尺度に照応するようになるであろう。流通する金の価値のこのような動揺は、同じ程度で、地金形態の金にもおよぶであろう、なぜならば、前提によれば、奢侈品として使われないすべての金は、流通するものだからである。金そのものさえ、鋳貨としてにせよ、地金としてにせよ、それ自身の金属価値に比して、より大きい、またはより小さい金属価値の価値表章となることができるのだから、いわんや流通する兌換銀行券が同じ運命を分けもつことは自明のことである。銀行券は兌換ができ、したがってその現実価値はその名目価値に照応しているとはいえ、金と銀行券とからなる流通する貨幣の総量(the aggregate curency consisting of metal and of convertible notes)は、その総量が、これまで説明してきた理由から、流通する商品の交換価値と金の金属価値とによって規定される水準以上に増加したり、以下に減少したりするのに応じて、増価あるいは減価されうるのである。この見地からすれば、不換紙幣が兌換紙幣よりすぐれているところは、それが二重に減価されうるということだけである。不換紙幣は、その発行高があまり多すぎるために、それが代表すると称する金属の価値以下に下落することもありうるし、またそれが代表する金属が自分自身の価値以下に下落したために、下落することもありうる。このような減価、つまり金にたいする紙幣の減価ではなくて、金と紙券とをいっしょにしたものの減価、いいかえれば一国の流通手段の総量の減価は、リカアドのおもな発見のひとつである、そしてオーヴァストーン卿と、その仲間は、この発見を自分らにむりに奉仕させて、一八四四年および一八四五年のサー・ロバート・ピールの銀行立法の根本原理としたのである。
証明されるはずであったことは、商品の価格または金の価値は、流通する金の分量に依存するということであった。この証明は、証明されるべきこと、つまり、貨幣としてのはたらきをする貴金属は、その内在的価値にたいする割合がどうであろうと、その全量が流通手段つまり鋳貨とならなければならず、したがってまたそれは、流通する商品の価値総額がどうであろうと、その全量が流通する商品のための価値表章とならなければならない、ということを前提している。いいかえるならば、この証明の本質は、貨幣が流通手段としての機能以外に《はたす》他のすべての機能*を抽象する点にある。価値表章がその量によって減価させられる現象に完全に支配されていたリカアドは、たとえばボウズンキットとの論争にみられるように、追いつめられると独断的断言に逃げこむのである(130)。
(130) デイヴィッド・リカアド『地金委員会の報告についてのボウズンキット氏の実際的考察に答う』、四九頁。「商品の価格が貨幣の増加または減少に比例して騰貴したり下落したりするであろうということを、わたくしはあらそうことのできない事実として前提する。」〔前掲、訳本、一七七頁。〕
* 第一版では貨幣が流通手段としてのその形態以外にもつすべてのほかの形態規定性、となっていた。自用本第一では訂正されている。 ――編集者。
ところで、もしもリカアドが、具体的な諸関係や問題そのものからはずれたよけいなことをみちびきいれずに、われわれがしたようなやり方でこの理論を抽象的にたてたならば、この理論の空虚さは、はっきりと目立つようになったであろう。けれどもかれは、すべての説明を国際色に染めあげている。しかし基準がみかけだけ大きくなったからといって、それが根本理念の貧弱さをすこしもかえるものでないということは、たやすく証明されるであろう。
第一の命題はこうであった。流通する金属貨幣の量が正常であるのは、それが、貨幣の金属価値で評価された流通諸商品の価格総額によって規定されているときである。これを国際的に表現すると、つぎのようになる。流通が正常な状態にあるときは、どの国も、その富とその産業とに照応した分量の貨幣をもつ。貨幣は、その真の価値、つまりその生産費に照応する価値で流通する、いいかえれば、それは、すべての国で同じ価値をもつ(131)。だから貨幣は、けっして、ある国からほかの国に輸出されたり輸入されたりはしないであろう(132)。そこで、さまざまな国の通貨(カレンシー)(流通する貨幣の総量)のあいだには、均衡がたもたれているのである、と。国民的通貨(カレンシー)の正しい*水準は、いまや諸通貨(カレンシー)の国際的均衡として表現されている、だが実際には、国民性は一般的経済法則をすこしもかえないということ以外には、なにごとも語られてはいない。われわれは、いま、ふたたび、まえと同じような致命的な論点に到達しているのだ。正しい水準はどのようにして乱されるのか、あるいはまた、貨幣はどのようにしてすべての国で同じ価値をもたなくなるのか、あるいは最後に、貨幣はどのようにしてそれぞれの国でそれ自身の価値をもつことをやめるのか? と。まえには正しい*水準が乱されたのは、商品の価値総額がもとのままであるのに流通する金の分量が増減したからか、または、流通する貨幣の量が同じままであるのに商品の交換価値が増減したからか、によるものであったが、それと同様にこんどは、金属そのものの価値によって規定されている国際的水準が乱されるのは、一国に現存する金の分量が、その国で新たに金属鉱山が発見された結果増加したからか(132)、または、特定の一国で流通する商品の交換価値の総額が増減したからか、によるものである。まえには貴金属の生産は、通貨(カレンシー)を収縮または膨張させ、商品価格をそれに応じて下落または騰貴させる必要につれて、減少または増加したのであるが、こんどは、ある国からほかの国への輸出と輸入とが、同じ作用をするのである。〔リカアドによれば、〕物価が騰貴していて、金の価値が、流通の膨張の結果、その金属価値以下に下落している国では、金は、ほかの国々にくらべて減価しており、そのために商品の価格は、ほかの国々にくらべて騰貴している。だから、金は輸出され、商品は輸入される。逆のばあいには逆のことがおこる。まえには金の生産であったのが、こんどは金の輸出入とそれにともなう商品価格の騰落であり、それが、まえには金属と商品とのあいだの正しい価値関係が回復されるまでつづいたように、こんどは国際的通貨(カレンシー)のあいだの均衡が回復されてしまうまでつづくであろう。はじめのばあいには、金の生産のいちいちの変動が、流通する金属の量に、したがって物価に影響したのであるが、それと同様にここでは、金の国際的輸出入が、それに影響するであろう。金と商品とのあいだの相対的価値、または流通手段の正常な量、が回復されてしまえば、消耗した鋳貨の補充のため、および奢侈品産業の消費のため以外には、第一のばあいには、それ以上の生産はおこなわれず、第二のばあいには、それ以上の輸出入はおこなわれないであろう。だから「諸商品にたいする等価物として金を輸出しようとするこころみは、つまり貿易収支の逆流は、流通手段の量が膨張しすぎること以外の原因からはけっして生じえない(134)。」のである。金属の輸入なり輸出なりを生ぜしめるものは、つねにただ、流通手段の分量がその正しい水準以上なり、以下なりに膨張または収縮する結果として生ずる金属の減価または増価だけである(135)。さらにいえばこういうことにもなる、第一のばあいに金の生産が増加または減少され、第二のばあいに金が輸入または輸出されるのは、いずれもただその量が、正しい水準の上または下にあるからにすぎず、金が、その金属価値以上になり、以下になり、増価または減価していて、このために商品があまりに高くまたは低くなっているからにすぎない、それゆえ、この種の運動は、すべて匡正(きょうせい)手段としての作用をする(136)、というのは、この種の運動は、流通する貨幣の膨張または収縮をつうじて、物価をふたたびその真の水準に、つまり第一のばあいには金の価値と商品の価値とのあいだの水準に、第二のばあいには諸通貨(カレンシー)の国際的水準に復帰させるからである。いいかえれば、貨幣がさまざまな国で流通するのは、ただそれがそれぞれの国で鋳貨として流通するかぎりでのことである。貨幣とは、鋳貨にほかならない、そこで一国に現存する金の量は、流通にはいりこまなければならないことになり、したがってまた自分自身の価値表章として、その価値以上なり以下なりに騰貴ないし下落しうることになるのである。こうしてわれわれは、このような国際的にいりくんだまわり道をして、ふたたび、幸運にも出発点である単純な独断にたっするのである。
(131) デイヴィッド・リカアド『地金の高価』。「貨幣はすべての国で同じ価値をもつであろう。」(四頁)〔前掲、訳本、三三頁。〕リカアドはかれの経済学でこの命題を修正しているが、ここに問題となったようなやり方ではない。
(132) 前掲書、三〜四頁。〔前掲、訳本、三三頁。〕
(133) 前掲書、四頁。〔前掲、訳本、三五頁。〕
(134) 「貿易収支の逆調は、通貨の逆調以外からはけっしておこらない。」リカアド『地金の高価』、一一、一二頁。〔前掲、訳本、四二頁。〕
(135) 「硬貨の輸出は、それがやすいことからおこるのであって、貿易収支の逆調の結果ではなく、原因である。」(前掲書、一四頁。)〔前掲、訳本、四四頁。〕
(136) 前掲書、一七頁。〔前掲、訳本、四七頁。〕
* 正しいは、自用本第一で挿入されたもの。 ――編集者。
リカアドが、かれの抽象的理論の意味するところにしたがって、現実の諸現象をいかにむりやりに組みかえている*かは、二三の例でしめされよう。たとえば、かれはつぎのように主張する、一八〇〇年から一八二〇年までの時期にイギリスでしばしばおこった不作のときに、金が輸出されるのは、穀物が必要とされ、かつ金が貨幣であり、したがって世界市場ではつねに有効な**購買手段ならびに支払手段であるからではなくて、金の価値がほかの商品にたいして下落し、その結果不作のおこっている国の(カレンシー)が、ほかの国の諸(カレンシー)にくらべて、減価しているからである、と。いいかえれば、不作が流通する商品の分量を減少させたから、あたえられた流通過程の量がその正常な水準をこえ、その結果すべての商品価格が騰貴したと、いうのである(137)。この逆説的説明とは反対に、一七九三年から最近にいたるまで、イギリスにおける不作のばあいには、流通手段の現存量は、過剰にはならず、かえって不足となり、このために以前よりも多くの貨幣が流通したし、また流通しなければならなかったということが、統計的に証明されたのである(138)。
(137) リカアド『地金の高価』七四、七五頁。〔前掲、訳本、一〇一〜一〇二頁。〕「不作の結果、イギリスは、一国がその商品の一部をうばわれ、そのためにより少量の流通媒介物しか必要としない状態になるであろう。これまでは諸支払額にひとしかった通貨が、いまでは過剰となって、その減少した生産にたいして相対的にやすくなるであろう。だからこの額を輸出することは、通貨の価値を、ほかの国々の価値にたいして回復せしめるであろう。」かれが、貨幣と商品とを、そしてまた貨幣と鋳貨とを混同していることは、つぎの文章にこっけいな形であらわれている。「不作ののちにイギリスが穀物を異常に輸入することになったばあいに、ほかの国が、穀物を過剰にもちながら、どんな商品をも求めていないと仮定できるならば、うたがいもなくつぎのような結果となるであろう。すなわち、この種の国は、その穀物を商品とひきかえには輸出しないだろうということ、これである。しかしその国はまた、貨幣とひきかえにも穀物を輸出しないであろう、なぜならば、貨幣はどんな国もいまだかつてこれを絶対的に求めたことはなく、ただ相対的に求めるにすぎない、商品だからである。」(前掲書、七五頁。)〔前掲、訳本、一〇一〜一〇二頁。〕プーシキンはかれの叙事詩のなかで、主人公の父が、商品が貨幣だということをどうしても理解できないことにしている。けれども貨幣が商品であることを、ロシア人はふるくから理解していた、そのことは、一八三八年から一八四二年にいたるあいだのイギリスの穀物輸入が、証明しているばかりでなく、この商業史全体が証明しているとおりである。
(138) トマス・トゥック『物価史』、ならびにジェイムズ・ウィルスン『資本、通貨、および銀行業』、を参照せよ。(後者は、一八四四、一八四五年の「ロンドン・エコノミスト」にあらわれた一連の論文を復刻したものである。)
* 第一版では、確認している、となっていた。 ――編集者。
** 第一版では、作用する、となっていたが、自用本第二では訂正されている。 ――編集者。
同時にまたリカアドは、ナポレオンの大陸封鎖とイギリスの封鎖令の時代に、こう主張した。イギリス人が、商品のかわりに金を大陸へ輸出したのは、イギリスの貨幣が大陸諸国の貨幣にくらべて減価しており、したがってイギリスの商品の価格が比較的高くなっていて、そのために、商品を輸出するよりも金を輸出するほうがいっそう有利な商業投機であったからである、と。かれにしたがえば、イギリスは商品が高く貨幣がやすい市場であるのに、大陸では商品がやすく貨幣が高かったのである。ところがイギリスの一著述家はつぎのようにいっている。「事実は、戦争の最後の六年間には、大陸封鎖の影響をうけて、わが国の工業生産物と植民地生産物の価格は、破滅的なほど低かったのである。たとえば砂糖とコーヒーの価格は〔ヨーロッパ〕大陸では、イギリスで銀行券で評価された価格に比して、金で四、五倍も高く評価されていた。この時代は、フランスの化学者が甜菜糖(てんさいとう)を発見し、菊ちさをコーヒーの代用品にしたと同時に、イギリスの農業家が糖水と糖蜜とで牡牛(おうし)をふとらせる実験をおこなった時代であり、イギリスが北ヨーロッパへの密輸を容易にするための商品貯蔵所をつくるためにヘリゴランド島を占領した時代であり、またイギリスの軽工業生産物がトルコをまわってドイツにはいろうとした時代である。……世界中のほとんどすべての商品がわが国の商品倉庫に蓄積され、少量のものがフランスの許可をえてひきとられるばあいをのぞけば、そこにねかされたままになっていた、そしてこの許可をえるためにハンブルクやアムステルダムの商人らは、四、五万ポンドもの金額をナポレオンに支払ったのであった。かれらは、高い市場からやすい市場に船荷(ふなに)をはこぶ自由をえるために、こんな金額を支払ったのであるから、おかしな商人であったにちがいない。商人のえらぶべきふたつにひとつの道はなんであったか? コーヒー〔一ポンド〕を銀行券六ペンスで買い、その一ポンドを金三シリングないし四シリングですぐに売ることのできる場所におくるか、それとも、金〔一オンス〕を銀行券五ポンドで買い、その一オンスを三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一で評価される場所におくるか、そのどちらかであった。だから、有利な商取引としてコーヒーのかわりに金がおくられたのだというのは、ナンセンスである。……当時〔金一オンスで〕ひとのほしがる商品をこんなに多量に手にいれることができた国は、イギリスのほかには世界中どこにもなかった。ボナパルトはいつもイギリスの物価表をくわしくしらべていた。そしてイギリスで金が高くコーヒーがやすいことをみいだしていたあいだは、かれは自分の大陸封鎖の効果に満足していたのである(139)。」リカアドがかれの貨幣理論をはじめてたて、地金委員会がそれを議会の報告書にとりいれたちょうどそのとき、すなわち一八一〇年には、すべてのイギリスの商品の価格は、一八〇八年および一八〇九年にくらべて破滅的な下落にみまわれ、金*は、それだけ価値が高くなっていた。農業生産物は例外をなしていたが、それは、外国からのその輸入が障害をこうむり、かつ国内に現存するその量も不作のためにはなはだしく減少していたからである(140)。リカアドは、国際的支払手段としての貴金属の役割をまったく理解していなかったので、上院の委員会(一八一九年)の証言で、「輸出のための金の流出は、兌換が再開され、貨幣流通がその金属水準に復帰すれば、即刻完全にやむであろう。」と説明することをはばからなかったほどである。かれは、ちょうどいいとき、すなわちかれの予言を裏切った一八二五年の恐慌の勃発の直前に死んだ。リカアドが著述家として活動した時代は、世界貨幣としての貴金属の機能を考察するには、一般的にみてあまり適当でない時代であった。大陸封鎖政策の実施前は、貿易差額はほとんどつねにイギリスに順であり、それの実施中は、ヨーロッパ大陸との取引はきわめてわずかであって、イギリスの為替市場には影響しないほどであった。貨幣輸送はおもに政治的性質をおびたものであり、しかもリカアドは、援助資金がイギリスの金輸出のうえで演じた役割をまったく理解していなかったように思われる(141)。
(139) ジェイムズ・ディーコン・ヒューム『穀物条例についての手紙』、ロンドン、一八三四年、二九〜三一頁。
(140) トマス・トゥック『物価史』、ロンドン、一八四八年、一一〇頁。
(141)W・ ブレイクの、まえに引用した『考察』を参照せよ。
* 第一版では貨幣となっていたが、自用本第一で訂正されている。 ――編集者。
** 第一版ではそれの(desselben)が derselben となっていた。 ――編集者。
リカアドと同時代のひとびとでかれの経済学の諸原理を支持する学派をつくったもののうち、もっとも重要な人物は、ジェイムズ・ミルである。かれは、リカアドがその見解の貧弱さをかくすおおいとして不適当な用いかたをした国際的ないりくみをとりのぞき、かつまたイングランド銀行の操作について論争しようというような考えもぬきにして、リカアドの貨幣理論を、単純な金属流通を基礎にして叙述しようとした。かれの主要命題はつぎのとおりである(142)。
「貨幣の価値は、それがほかの品物と交換される割合に、いいかえれば、ひとが一定量のほかの物と交換にあたえる貨幣量に等しい。この比率は、一国に現存する貨幣の総量によって規定される。一国のすべての商品が一方のがわにあり、そのすべての貨幣が他方のがわにあって、両方が一度に交換されるものと仮定すれば、貨幣の価値、つまり貨幣と交換される商品の量は、まったく貨幣そのものの量にかかっていることはあきらかである。実際の過程においても、ことがらはこれとまったく同じである。一国の商品の総量が一度に貨幣の総量と交換されるのではなくて、諸商品は一年中のさまざまな時期に、一部分ずつ、しかもしばしばきわめて小部分ずつ、交換される。きょうのひとつの交換に役だったその同じ貨幣片は、あすはまたほかの交換に役だつことができる。貨幣の一部分は、比較的多数の交換行為に用いられ、ほかの部分は、きわめて多数の交換行為に用いられ、第三の部分は、蓄積されてまったく交換には役だたない。これらのさまざまなもののあいだにはある平均が生ずるであろうが、それは、各金片が同数の交換行為を実現するとすれば、各片が用いられるであろう交換行為数にひとしい。この平均数を任意に、たとえば一〇としよう。もし一国に現存する貨幣片のどれもが一〇回の購買に役だつとすれば、それは、ちょうど、貨幣片の総数が一〇倍になり、しかもそのおのおのがただ一回の購買にしか役だたないのと同じである。このばあいには、すべての商品の価値は貨幣の価値の一〇倍にひとしい、等々。逆にもし貨幣片のどれもが一年間に一〇回の購買に役だつかわりに、貨幣の総量が一〇倍になって貨幣片のどれもがただ一回の交換しかおこなわないとすれば、このような分量の増加はどれも、金片自体のひとつひとつの価値をそれに比例して減少させることはあきらかである。貨幣が交換の対象とすることのできるすべての商品の総量は同一だと仮定したのであるから、貨幣の総量の価値は、貨幣量が増価したあとでも、従来より大きくなってはいない。もし〔貨幣量が〕一〇分の一だけ増加したと仮定すれば、その総量の可除部分のおのおのの価値、たとえば一オンスの価値は、一〇分の一だけ減少していなければならない。だから、貨幣の総量の減少または増加の程度がどうであろうとも、ほかの諸物の量さえ同じままであるならば、貨幣総量とその各部分とは、交互に、同じ割合で減少または増加するであろう。〔ミルの原文では、総量の価値とその各部分の価値、となっている。〕この命題が絶対的な真理であるということは、あきらかである。貨幣価値が騰貴または下落を示したのに、貨幣と交換することのできた商品の量と流通の運動とがもとと同じままであるばあいにはいつでも、この変動は貨幣のそれに〔逆〕比例する増加または減少を原因としたにちがいなく、そのほかのどんな原因にも帰することはできない。貨幣の総量がもとと同じままであるのに商品の分量が減少するならば、それは、ちょうど貨幣の総量が増加したのと同じことであろうし、逆のばあいはその逆である。これと似た変動は、流通の運動におけるなんらかの変化の結果でもある。通流の回数の増加はいずれも、貨幣総量の増加がうむのと同じ効果をうみだし、その回数の減少はそのまま逆の作用をもたらす。……年生産物の一部分が、生産者が自分自身で消費するものがそうであるように、まったく交換されないのだから、貨幣との関係ではまったく実在しないのと同じである。……貨幣の増加や減少が自由におこりうるばあいにはいつでも、一国に現存する貨幣の総量は、貴金属の価値によって規制されている。……だが金銀は商品であって、その価値は、ほかのすべての商品の価値と同様に、その生産費によって、つまりそれにふくまれている労働の量によって規定されている(143)。」
(142) ジェイムズ・ミル『経済学綱要』、本書では、J・T・パリソーのフランス語訳、パリ、一八二三年、から訳出。〔渡辺照雄訳『経済学綱要』一一六〜一二二頁。〕
(143) 『経済学綱要』一二八〜一三六頁より抄出。〔前掲、訳本、一一六〜一三二頁〕
ミルの聡明な点はすべて、勝手でしかもばかげた一連の仮定をもうけたことに帰着する。かれは、商品の価格または貨幣の価値が「一国に実在する貨幣の総量によって」規定されることを証明しようとする。流通する商品の分量と交換価値とが不変であり、流通速度も生産費によって規定される貴金属の価値も、同じように不変であると仮定し、しかもそれと同時に、流通する金属貨幣の量がその国に実在する貨幣の分量に比例して増加または減少するものと仮定するならば、事実上、「あきらか」となることは、証明すると称してきたものをすでに仮定してしまっているということである。そのうえミルは、ヒュームと同じまちがいにおちいり、あたえられた交換価値をもつ商品ではなく、使用価値を流通させている。だからかれの命題は、たとえかれの「仮定」をすべてみとめたとしても、まちがいとなる。流通速度や、貴金属の価値や、流通する商品の量は、いずれもまえと同じままであるかもしれない。だがそれでもなお、商品の流通のために必要な貨幣量は、商品の交換価値の変動につれて、あるときは大きく、あるときは小さくなるかもしれない。ミルは、国内に実在する貨幣の一部分は流通しているが、他の部分は停滞している、という事実を知っていた。〔だが〕かれは、きわめてこっけいな平均計算のたすけをかりて、国内に現存するすべての貨幣は、現実にはそうみえないにしても、事実には流通しているものと仮定した。もしある国で、一、〇〇〇万のターレル銀貨が一年に二回通流するものと仮定すれば、各ターレル銀貨がただ一回の購買だけでおこなうばあいには、二、〇〇〇万ターレルが通流できるであろう。そしてもし一国に現存するすべての形態の銀の総額が一億ターレルにのぼるとするならば、この一億ターレルは、各貨幣片が五年に一回購買をおこなうばあいに、通流しうると仮定することができる。さらにまた世界中のすべての貨幣がハムステッド〔ロンドンの一地区〕で通流するが、その可除部分のどれもが、たとえば一年に三回通流するかわりに三〇〇万年に一回通流すると仮定することもできるはずである。商品価格の総額と通貨の量とのあいだの割合を定めるについては、これらの仮定はどれも同じくらいに重要である。ミルは、自分にとって決定的に重要なことは、商品を、流通に現存する貨幣量と直接むすびつけることではなくて、そのときどきに国内に実在する貨幣の総現在量と直接むすびつけることだ、と感じる。かれは、一国の商品の総量が貨幣の総量と「一度に」交換されるのではなくて、商品のさまざまな部分が一年のさまざまな時期に貨幣のさまざまな部分と交換されるのだということをみとめる。〔そこで〕この不一致をとりさるために、かれは、不一致は実在しない、と仮定するのである。なおまた、商品と貨幣とが直接対応しあい、それらが直接交換されるというこの考え方全体は、単純な購買と販売の運動から、つまり購買手段としての貨幣の機能から抽象されたものである。〔だが〕すでに支払手段としての貨幣の運動においては、商品と貨幣とがこのように同時に出現することはなくなっているのである。
一九世紀中の商業恐慌、ことに一八二五年と一八三六年の大恐慌は、リカアドの貨幣理論をすこしも発展させはしなかったが、しかしそれを新しく適用する機会をあたえた。これらの恐慌は、もはや、ヒュームのばあいにおける一六世紀と一七世紀の貴金属の減価、リカアドのばあいにおける一八世紀と一九世紀はじめの紙幣の減価というような、個々の経済的現象ではなくて、ブルジョア的生産過程のいっさいの要素の矛盾が爆発するさいの世界市場の大暴風雨である、そしてその起源もそれを防止することも、この過程のもっとも表面的でもっとも抽象的な領域、つまり貨幣流通の領域にもとめられた。経済的気象学派の出発点をなす特有な理論的前提は、実のところ、リカアドが純粋な金属流通の諸法則を発見しているのだ、という独断以外のなにものでもない。かれらになすべく残されたことは、信用流通または銀行券流通を、これらの諸法則にしたがわせることであった。
商業恐慌のもっとも一般的な、かつもっとも目につきやすい現象は、商品価格のかなり長期にわたる一般的騰貴につづいておこる、その突然の、かつ一般的な下落である。商品価格の一般的下落は、すべての商品と比較した貨幣の相対的騰貴として表現されうるし、価格の一般的騰貴は、逆に貨幣の相対的価値の下落として表現されうる。この両方の表現のしかたにおいては、ともに、現象は、いいあらわされているだけで、説明されてはいない。問題を、物価の一般的下落と交替に生ずる物価の一般的・周期的な騰貴を説明せよ、というように提出しようと、同じ問題を、商品と比較した貨幣の相対的価値の周期的な下落と騰貴とを説明せよ、というように定式化しようと、こういう用語法のちがいは、けっして問題を変化させるものではない、それは、ちょうど、この問題をドイツ語から英語に翻訳してもなんのかわりもないのと同じである。したがって、リカアドの貨幣理論は、非常につごうのいいものであった、なぜならば、それは、同義反復を因果関係のようにみせかけているからである。商品価格の周期的・一般的な下落はどういう理由からおこるのか? 貨幣の相対的価値の周期的な騰貴からおこる、逆に、商品価格の一般的周期的な騰貴はどういう理由からおこるのか? 貨幣の相対的価値の周期的下落からおこる。〔もしこの論法が正しいとすれば〕同じくらいの正しさで、物価の周期的な騰貴と下落はその周期的な騰貴と下落からおこる、ということもできるであろう。問題そのものが、貨幣の内在的価値、つまり貴金属の生産費によって規定されるその価値は変らないままである、という前提のもとに提出されているのである。この同義反復が、かりに同義反復以上のものであるとしても、それは、もっとも基本的な諸概念の誤解にもとづくものである。BではかられたAの交換価値が減少するばあいには、われわれは、それが、Aの価値の減少によっても、Bの価値の増加によっても、おこりうることを知っている。同義反復の因果関係への転化をひとたびみとめさえすれば、そのほかのことはすべて、たやすくかたがつく。商品価格の騰貴は、貨幣の価値の下落からおこる、しかも貨幣価値の下落は、リカアドの教えるように、過剰な流通から、つまり流通する貨幣の分量がそれ自身の内在的価値と商品の内在的価値とによって規定される水準以上に増加することからおこる。同じ論理で逆に、商品価格の一般的な下落は、過少な流通のために、貨幣価値がその内在的価値以上に騰貴することからおこる。だから、物価が周期的に騰貴したり下落したりするのは、周期的に、あまりに多すぎる貨幣またはあまりに少なすぎる貨幣が流通するからである。こうしていまや物価の騰貴は貨幣流通の減少にともない、物価の下落は流通の増加にともなうということが、ほぼ証明されたとしよう、だがそのばあいでも、なお依然として、流通する貨幣の量は、統計的にはまったく証明できない流通する商品量のなんらかの減少または増加のために、絶対的にではないとしても、相対的には増加または減少したと主張することができるであろう。ところですでにみたように、リカアドによれば、価格のこうした一般的変動は、純粋な金属流通にあってもおこらざるをえないが、しかしそれは、その交替作用によって、たとえば過少な流通は商品価格の下落を、商品価格の下落は商品の外国への輸出を、だがこの輸出は貨幣の国内への流入を、この貨幣の流入はふたたび商品価格の騰貴をよびおこすというようにして、平準化される。逆に、過剰な流通のばあいには、商品が輸入されて貨幣が輸出されるのである。ところが、一般的な価格変動はこのようにリカアド風の金属流通そのものの本性から生ずるにもかかわらず、その激烈で暴力的な形態、すなわちその恐慌形態は、発達した信用制度の時代と特に密接な関係があるのだから、銀行券の発行が金属流通の法則によって厳密に規制されてはいないということは、白日のようにあきらかとなる。金属流通は、貴金属の輸入と輸出というその救助手段をもっており、この貴金属は、すぐ鋳貨として通流にはいり、こうしてその流入または流出によって、商品価格を下落または騰貴させる。商品価格にたいする同じ作用は、いまや、銀行が金属流通の法則をまねることによって、人工的につくりだされなければならない。金が外国から流入すれば、それは、流通が過少であり、貨幣価値があまりに高く、商品価格があまりにひくすぎ、したがって銀行券が、新しく輸入された金に比例して流通に投げいれられなければならない証拠であり、逆に銀行券は、金が国内から流出するのに比例して、流通から引上げられなければならない。いいかえると、銀行券の発行は、貴金属の輸入と輸出にしたがって、または為替相場にしたがって、調節されなければならない。金*は鋳貨にすぎない、だから、輸入されるすべての金は、通流する貨幣を増加させ、そのために物価を騰貴させるし、輸出されるすべての金は、鋳貨を減少させ、そのために物価を下落させるという、リカアドのまちがった前提、この理論的前提は、ここでは、そのときどきに現存する金と同量の鋳貨を流通させようとする実際的な実験となるのである。イギリスで「通貨主義(currency principle)」学派という名で知られているオーヴァストーン卿(銀行家ジョーンズ・ロイド)、トレンズ大佐、ノーマン、クレイ、アーバスナット、そのほか多数の著述家たちは、単にこの教義を説教したばかりではなく、一八四四年および一八四五年のサー・ロバート・ピールの銀行条例によって、それを、イングランドならびにスコットランドの現行銀行立法の基礎としたのである。最大の国民的規模でおこなわれた実験のあとで、この教義が、理論上も実際上も、恥ずべき失敗をみたことは、信用論ではじめて述べうることである(144)。けれども、貨幣を流通手段としてのその流動的形態で孤立させるリカアドの理論が、どのような経過をへて貴金属の増減にたいして、重金主義の迷信家たちの夢想もしなかったほど絶対的なブルジョア経済への影響をみとめるまでにいたったかということだけは、よく理解できるであろう。こうして、紙幣を貨幣のもっとも完成した形態だと明言するリカアドは、地金主義者の先駆者となったのである。
(144) 一八五七年の一般的商業恐慌の勃発する数ヵ月前、一八四四年および一八四五年の銀行法の効果を調査するために、下院の委員会が開かれた。この法律の理論上の父であるオーヴァストーン卿は、委員会でのその証言において、おくめんもなくつぎのように述べた。「一八四四年の条例の原則を厳格にかつまた敏速に遵守することによって、万事は、規則正しくかつらくらくと推移してきています。貨幣制度は、確乎不動であって、わが国の繁栄は議論の余地のないところであり、一八四四年の条例〔の賢こさ〕にたいする公衆の信頼は、日に日に強まりつつあります。もしも本委員会が、この条例の基礎となっている諸原則の健全性、または、この条例が保証してきた有益な諸結果についてさらにこれ以上の実例をもとめられるのであるならば、委員会にたいする忠実で十分な答弁は、委員各位の周囲をみていただきたい、わが国の貿易の現状をご覧ねがいたい、民衆の満足をご覧ねがいたい、社会のすべての階級にゆきわたっている富と繁栄とをご覧ねがいたい、ということであります。これをなされてしかるのちに、本委員会は、こういう成果をもたらしてきたこの条例の存続をさまたげようとされるか否かの決定を〔公正に〕なされることができるでありましょう。」《「銀行条例特別委員会の報告」、一八五七年、証言第四一八九号》、オーヴァストーンは、一八五七年七月一四日にこのようなほらを吹いたのであるが、おなじ年の一一月一二日には、内閣は、〔右のような〕奇蹟をおこなうこの一八四四年の法律を、自分の責任で停止しなければならなかったのである。
* 第一版では貨幣となっていた。自用本第二では訂正されている。 ――編集者。
ヒュームの理論、つまり重金主義にたいする抽象的対立が、こうしてゆきつくところまで発展されたあと、結局また、ステュアートのしたような貨幣の具体的把握が、トマス・トゥックによってその正しい位置にもどされた(145)。トゥックは、彼の諸原理を、なにかある理論からみちびきだしているのではなくて、一七九三年から一八五六年までの商品価格の歴史の良心的な分析からみちびきだしているのである。一八二三年に出版されたかれの物価史の第一版〔『最近三〇年間の物価の高低に関する意見と個々の事実』のこと〕では、トゥックは、まだリカアドの理論にとらわれており、事実をこの理論と調和させようとしていたずらに骨をおっている。一八二五年の恐慌のあとで出版された『通貨(カレンシー)について』〔正確には『通貨の状態についての考察』〕というかれのパンフレットは、のちにオーヴァストーンによって主張された見解を、はじめて理路整然とうちたてたものとさえみることができよう、しかし商品価格の継続的研究は、かれをして、いやおうなくつぎのような点を洞察させることとなった。すなわち、この理論が前提しているような価格と通貨の量とのあいだの直接の連関は、単なる幻想にすぎないということ、通貨の膨張と収縮とは、貴金属の価値が同じままであるばあいには、つねに価格変動の結果であって、けっして原因ではないということ、貨幣流通は一般にただ第二次的な運動にすぎないということ、貨幣は、実際の生産過程では、流通手段の形態規定性とはまったくべつな諸形態規定性をさらにえるということ、がこれである。かれのくわしい研究は、単純な金属流通の領域とは別の領域に属するものである。したがって、ここでは、これと同じ傾向に属するウィルスンやフラートンの研究と同様に(146)、まだたちいって論ずることはできない。これらの著述家たちは、すべて、貨幣を一面的にではなく、そのさまざまな契機において把握しているのではあるが、しかしただ素材的に把握しているだけであって、これら諸契機同志の連関にせよ、またはこれらの諸契機と経済的諸カテゴリーの全体系との連関にせよ、なにかある生きた連関を把握しているわけではない。だからかれらは、流通手段と区別された貨幣を、まちがって資本と混同したり、あるいはまた商品とさえ混同したりするのである。もっともかれらも、他方では、貨幣の、資本、商品との区別を、ときに応じてふたたび主張しなければならなくなるのであるが(147)、たとえば金が外国におくられるばあいには、事実上は資本が外国に送られるのであるが、しかしそれと同じことは、鉄、綿花、穀物、要するにすべての商品が輸出されるばあいにもおこる。両者はいずれも資本であり、したがって資本としては区別されなくて、貨幣および商品として区別される。ゆえに、国際的な交換手段としての金の役割は、資本としてのその形態規定性から生じるのではなくて、貨幣としてのその特殊な機能から生じるのである。同様に、金が、あるいはまた金にかわる銀行券が、国内商業において支払手段として機能するばあいには、それらは、同時に資本でもある。けれども、商品の形態をとった資本は、たとえば恐慌がきわめてあきらかに示しているように、金や銀行券のかわりをすることはできないであろう。だから、金を支払手段にするのは、やはり、貨幣としての金が商品とちがうという点であって、資本としての金の定在ではない。資本が、直接に資本として輸出されるばあい、たとえば、一定の価値額が、利子をとって外国で貸しだされるために輸出されるばあいでさえも、それが商品の形態で輸出されるか、金の形態で輸出されるかは、市場の状態にかかっている、そしてもしそれが金の形態で輸出されるとすれば、これは、商品に対する貨幣としての貴金属の特殊な形態規定性のゆえにおこることである。一般にこれらの著述家たちは、貨幣を、まず最初に抽象的な姿で、すなわち、それが単純な商品流通の内部でどう発展し、また〔流通〕過程をへつつある商品そのもののあいだの関連からどう生じてくるかという形では考察しない。だからかれらは、貨幣が商品との対立でえる抽象的なもろもろの形態規定性と、資本や revenue《収入》などのようなより具体的な諸関係を内蔵している貨幣のもろもろの規定性とのあいだを、たえずあちこちと動揺するのである(148)。
(145) トゥックは、ステュアートの著述をまったく知らなかった。このことは、貨幣諸理論の歴史を概述しているかれの『一八三九年から一八四七年にいたる物価史』、ロンドン、一八四八年、をみればあきらかである。
(146) トゥックの〔もっとも〕重要な著述は、かれの協力者ニューマーチが六巻にして出版した『物価史』〔正確にいえば協力は、第五、六巻だけである〕のほかには『通貨原理、すなわち通貨と価格……との関係の研究』、第二版、ロンドン、一八四四年、である。ウィルスンの著述はすでにあげておいた。最後になおあげておかなければならないのは、ジョン・フラートン『通貨調節論』、第二版、ロンドン、一八四五年〔福田長三訳『通貨論』(岩波文庫版)。〕である。
(147) 「商品としての貨幣〔トゥックの原文およびカウツキー版、英訳版、ロシア語版では、金、となっている〕、すなわち資本と、流通手段〔トゥックの原文では通貨、となっている〕としての貨幣〔まえに同じ〕とは区別されなければならない。」(トゥック『通貨原理の研究』、一〇頁。)〔前掲、訳本、四四〜四五頁。〕「金銀が流入すれば、それらは、必要とされる金額をほぼ正確に表現するものと期待してもよい。……金銀は、貨幣として一般に用いられているという事情のために……ほかのすべての種類の商品にまさるかぎりない長所をもっている。……負債は、国外のものにせよ国内のものにせよ、普通には、茶、コーヒー、砂糖、または藍(あい)で支払うようには契約されないで、鋳貨で支払うように契約される。だから、指定された鋳貨か、送られた国の造幣局なり市場なりでただちに鋳貨に転化できるような地金かの形でなされる送金は、つねに送金者にたいして、需要の不足とか価格の動揺とかによってあてがはずれるという危険をともなわずにこの目的を達成するための、もっとも確実で、てっとりばやく、かつ正確な手段をあたえるにちがいない。」(フラートン、前掲書、一三二、一三三頁。)〔前掲、訳本、一六八頁。〕(金銀以外の)「他の品物は、どれも、数量または種類の点で、それが送られてくる国の普通の需要をこえるばあいがあるかもしれない。」(トゥック『通貨原理の研究』)〔前掲、訳本、四四頁。〕
(148) 貨幣の資本への転化は、第三章、すなわち資本を論じ、この第一篇のおわりをなす章で、考察されるであろう。