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シュトラウス、バウアー、シュティルナー、フォイエルバッハは、かれらが哲学の地盤をはなれないかぎり、ヘーゲル哲学の枝であった。シュトラウスは、『イエスの生涯』および『教義学』を書いてからのちは、ルナン張りの哲学的および教会史的美文を事としていたにすぎない。バウアーはキリスト教の発生史の領域でだけ立派な仕事をしたにすぎない。もっとも、この方面でのかれの仕事は重要であるが。シュティルナーはあくまでも変りものであった。バクーニンがかれとプルードンとをつきまぜて、この混和物に「無政府主義」という名をつけてからも、やはりそうであった。フォイエルバッハだけが哲学者として重要であった。しかし、かれにとっては哲学が、すなわちあらゆる特殊科学の上空を飛翔し、あらゆる特殊科学を総括すると称する「諸科学の科学」が、越えることのできない境界、手をふれることのできない神聖なものであった。そればかりでなく、かれは哲学者としてもまた中途半端であって、下半身は唯物論者で、上半身は観念論者であった。かれはヘーゲルを批判的に処理せず、無用のものとして簡単になげすててしまった。一方かれ自身は、ヘーゲルの体系の百科全書的な豊かさとくらべて、大げさな愛の宗教と貧弱で無力な道徳以外なんら積極的なものを仕上げなかった。
ところがヘーゲル学派の解体からそのほかにもう一つの方向が現われた。これはじっさいに実を結んだ唯一の方向で、この方向は本質的にマルクスの名と結びついているものである(注一)。
(注一)このさいわたしに一身上の釈明をさせていただきたい。近頃この理論〔マルクス主義〕にたいするわたしの寄与に言及されることが多いので、わたしはここでこの点を明確にするため簡単に述べないわけにはいかない。わたしが四〇年にわたるマルクスとの協働のあいだに、またそれ以前にも、この理論の基礎づけにたいして、また主としてその仕上げにたいして、独自にいくらかの寄与をしたことは、私自身もこれを否定することはできない。しかし指導的な根本思想の大部分(とくに経済と歴史の領域での)と、とくに根本思想の最後的で精密な定式化とは、マルクスのものである。わたしが寄与したものは――せいぜい二、三の専門をのぞけば――マルクスがやろうとすれば、わたしなしにでもやれたであろう。マルクスがしたことは、わたしにはできなかったであろう。マルクスはわれわれすべてよりもいっそう高い所に立ち、より遠くを見、より多くまたより速やかに展望した。マルクスは天才であった。われわれはすべてせいぜい能才であった。マルクスがいなかったら、この理論は今日のその状態よりずっとおくれていたであろう。したがってまたそれがマルクスの名をつけられているのは当然である。〔エンゲルスの注〕
このばあいにもまたヘーゲルからの分離は唯物論の立場へ帰ることによっておこなわれた。すなわち、われわれは現実の世界――自然と歴史――を、先人の観念論的な幻想なしにそれに近づく者のだれにでも現れるままの姿で把握しようと決心した。われわれは、空想的な連関においてでなく、それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心した。一般に唯物論とはこれ以上の意味をもっていない。もっとも、ここではじめて唯物論的な世界観がほんとうに真剣に取扱われ、問題になっているあらゆる知識分野において――少くとも根本点において――首尾一貫して展開されたのである。
ヘーゲルはたんに投げすてられはしなかった。反対に、われわれは上述のかれの革命的側面、弁証法的方法に結びついた。しかしこの方法はヘーゲル的な形では役にたたなかった。ヘーゲルにおいては弁証法とは概念の自己発展である。絶対的概念が永遠の昔から――どこかわからないが――存在し、それはまた現存する全世界の本来の生きた魂でもある。それは、『論理学』に詳しく取りあつかわれている、そして絶対的概念のうちにすべて含まれている、すべての前段階を通って、自分自身にまで発展する。それからこの絶対的概念は、自然に転化することによって自己を「外化』し、この自然のうちでは、それは自己を意識することなしに、自然必然性の姿をとって、新しい発展をし、最後に人間のうちで再び自己意識に達する。この自己意識は再び歴史のなかで粗野な形態から脱却し、ついにヘーゲル哲学のうちで再び完全に自分自身に帰る。だからヘーゲルにおいては、自然と歴史のうちに現れる弁証法的発展、すなわち、あらゆる曲折をもった運動と一時的な後退を通じてつらぬかれている、より低いものからより高いものへの進展の因果的連関は、永遠の昔から、どこでか知らないが、とにかくあらゆる思考する人間の頭脳から独立に進行している概念の自己発展の模写にすぎない。このようなイデオロギー的な逆立ちはとりのぞかれなければならなかった。われわれは、現実の事物を絶対的概念のあれこれの段階の模写と見ないで、再び唯物論的にわれわれの頭脳のうちにある概念を現実の事物の映像と見た。このことによって弁証法は、外部の世界および人間の思考の運動の一般的な諸法則に関する科学となった。この二つの系列の法則は実質において同じものであるが、その現れ方から言えば次の点でちがっている。すなわち、人間の頭脳はこれらの法則を意識的に使用することはできるが、自然においては、また人類の歴史においてもこれまでのところ大部分、意識されず、外的必然性の形をとって、偶然事と見えるものの果しのない系列のただ中で自己をつらぬいているのである。このことによって概念弁証法そのものは、現実の世界の弁証法的な運動の意識された反映にすぎないものとなり、このようにしてヘーゲルの弁証法は逆立ちさせられた。あるいはむしろ、逆立ちしていたのが、足で立たされた。この唯物論的な弁証法は長年われわれの最良の道具でありもっとも鋭利な武器であったが、それを発見したのはわれわれだけではなく、そのほかになお、われわれとは独立に、またヘーゲルとさえ独立に、一人のドイツの労働者、ヨーゼフ・ディーツゲン(Joseph Dietzgen、一八二八−一八八八)がそれを再び発見したのは注目すべきことである。
(注一)『ある手工業者の見た頭脳労働の本質』、ハンブルク、マイスナー書店、を見よ。〔エンゲルスの注〕
これによってヘーゲルの哲学の革命的側面が再び取り上げられ、同時に、それはヘーゲルにおいてはその徹底した展開をさまたげていた観念論的な装飾から解放された。世界はできあがった事物の複合体としてでなく諸過程の複合体と見られなければならず、そこでは外見上固定的な事物も、われわれの頭脳のうちにあるその思想的映像である概念におとらず、発生と消滅の不断の変化のうちにあり、そしてこの変化のうちで、あらゆる外見上の偶然事や一時的な後退にもかかわらず、結局は前進的な発展がおこなわれているという根本思想――こうした偉大な根本思想は、とくにヘーゲル以来、普通の意識にまで浸透しているので、こうした一般的な点ではおそらくほとんど反対がないであろう。もっとも、この根本思想を言葉の上で認めるのと、それを実際の研究の各分野にいちいち適用するのとはちがう。しかし人が研究にあたって常にこうした観点から出発すれば、最後的な解決とか永遠の真理とかいうものへの要求は、きっぱりと消えうせてしまう。人は、すべての獲得した知識が必然的に制限されており、それが得られたときの事情によって制約されているということを常に自覚している。他方また人はもはや、真理と誤謬、善と悪、同一と差異、必然と偶然というような、今なお一般に行われている古い形而上学では克服できない諸対立に威圧されはしない。人は、これらの対立が相対的な妥当性しかもっていないこと、現在は誤謬と認められていることにも、真理の側面があり、そのためにかつては真理として通用しえたのだということ、必然と主張されているものが偶然事のみから組立てられており、偶然といわれているものが、その背後に必然をひそめている形式であること、等々を知っている。
ヘーゲルが「形而上学的」(注一)と名づけている古い研究方法および思考方法は、主として事物を与えられた固定したものとして研究し、その名残りはまだ人々の頭にこびりついているが、その当時には大きな歴史的妥当性をもっていた。過程を研究しうるようになる前に、まず事物が研究されなければならなかった。ある事物に生じている諸変化を知りうるようになるまえに、まずその事物がなんであるかを知らなければならなかった。自然科学においては、そのとおりであった。事物をできあがったものとしてとらえる古い形而上学は、生物をも無生物をもできあがったものとして研究していた、そうした自然科学から生じたものである。しかしこうした研究が進んで、決定的な進歩が可能となり、自然そのもののうちでこれらの事物におこる諸変化の体系的な研究に移ることができるようになったとき、哲学の領域でも古い形而上学の最後を告げる鐘がなった。じっさい自然科学は、前世紀〔一八世紀〕の終りまでは主として収集の科学、できあがった事物の科学であったが、今世紀〔一九世紀〕においては本質的に整理の科学であり、諸過程の科学、これらの事物の起源と発展の科学、これらの過程を大きな全体へ結びつける連関の科学である。動植物有機体内の諸過程を研究する生理学、個々の有機体の胚から成熟までの発達を取扱う発生学、地表の漸次的形成をあとづける地質学、これらはすべて今世紀〔一九世紀〕の所産である。
(注一)ヘーゲルは反弁証法的という独自の意味に「形而上学」という言葉を使うことがある。これは次のような事情による。すなわち、ヘーゲルは、カント以前のドイツの形而上学、とくにヴォルフの哲学に反弁証法的方法の典型を見、そこに見られるような思考方法を簡単に「旧形而上学的」とよんでいる。
しかし自然の諸過程の連関に関するわれわれの知識に長足の進歩をさせたのは、とくに次の三大発見である。第一は、その増殖と文化とから動植物の体全体が発達してくる単位としての細胞の発見であって、その結果、すべての高等な有機体の発展と成長がただ一つの一般的な法則にしたがっておこなわれることが知られたばかりでなく、細胞の変化する能力のうちに有機体がその種を変化させ、かくして個体的発展以上の発展をおこなうことができる道が示された。――第二はエネルギーの転化であって、このことによって、無機的自然のうちにまず最初に働いているすべてのいわゆる力――力学的力とその補足物であるいわゆる潜在エネルギー、熱、輻射(光あるいは輻射熱)、電気、磁気、化学的エネルギー――は、普遍的な運動のさまざまの現象形態であり、これらの現象形態は一定の割合で相互に移行しあい、かくして消滅する一つの形態の一定量のかわりに他の形態の一定量が再び現れ、自然の運動の全体は或る形態から他の形態への転化の不断の過程に還元される、ということが証明された。――最後は、ダーウィンがはじめて綜合的に展開した証明であって、それによると、今日われわれをとりかこんでいる自然の有機的な産物は、人間もふくめて、すべて少数の、もとは単細胞であった胚からのながい発展過程の所産であり、そしてこの胚はまた化学的に発生した原形質あるいは蛋白質から生じたものである。
この三大発見とその他の自然科学上の巨大な進歩のおかげで、今ではわれわれは、自然界の諸過程のあいだの連関を個々の領域で明らかにしうるだけでなく、個々の諸領域間の連関をも大体において明らかにしうるようになり、こうして経験的自然科学そのものが与える事実によって、自然の連関の概観をおおよそ体系的な形で描きだしうるにいたっている。このような全体像を提供することが、以前はいわゆる自然哲学の任務であった。自然哲学は、未知の現実的な連関を観念的な、空想的な連関で代行させ、欠けている諸事業を考えだしたもので補い、現実のすき間を単なる想像でみたすという方法によってのみ、そうしたことをすることができたのである。このような仕方をするさい、それは多くの天才的な思想をもち、その後の多くの発見を予感しもしたが、しかしまたたくさんのばかげたことをもつくりだしたのであって、それはそうなるよりほかはなかったのである。今日では、われわれの時代にとって十分な「自然の体系」に達するためには、自然の研究の成果を弁証法的に、言いかえれば、自然自身の連関をとらえるという意味で、とらえさえすればいいのであるから、また自然の連関の弁証法的性格は、自然科学者たちの形而上学的に訓練された頭脳でさえ、いやでも認めざるをえないほどであるから、今日では自然哲学というものは最後的に片づけられてしまったのである。それを復活させようとするあらゆる企ては、たんに無用であるばかりか、退歩である。
かくして自然もまた一つの歴史的発展過程であることが知られるようになったが、ところでこの自然について言えることは、社会の歴史についてもそのあらゆる部門にわたって言えるし、また人間的な(および神的な)事物を取扱うすべての学問についても言える。ここでもまた、歴史哲学、法律哲学、宗教哲学、等々の本質は、諸事件のうちで立証さるべき現実の連関のかわりに、哲学者の頭脳のうちでつくりあげられた連関をおき、歴史をその全体としてもまた個々の部分においても観念の――しかも当然のこととしていつでもただ当の哲学者自身のお好みの観念の――漸次的実現としてとらえることにあった。それによると、歴史は、あらかじめ確定されている或る観念的目標をめざして、――例えばヘーゲルのばあいにはかれの絶対的理念をめざして――無意識にではあるが必然性をもって、働いてきたのであり、そしてこうした絶対的理念に向う不動の方向が歴史上の諸事件の内的連関をなしてきたのである。かくしてここには、未知の現実的連関のかわりに、新しい――無意識の、あるいは次第に意識にめざめてくる――神秘的な摂理が立てられたのである。したがってここでも、自然の領域においてとまったく同じように、現実の連関を発見することによって、このように作られた、人為的な連関をとりのぞくことが必要であった。この任務は、けっきょく、人間社会の歴史を支配的な法則としてつらぬいている一般的な運動法則を発見することにある。
ところで社会の発展史は一つの点で自然の発展史とは本質的にちがっている。自然のうちにあるものは――自然にたいする人間の反作用を度外視するかぎり――すべて無意識で盲目の力であり、これらの諸力が作用しあい、それの交互作用のうちに一般的な法則が働いている。そこに起るすべてのもののうち――表面に現れてくる無数の外見上の偶然事のうちにも、またこれら偶然事の内部にある合法則性を確認する究極の成果のうちにも――意欲され意識されて起るものは一つもない。これに反して、社会の歴史のうちで行動している人々は、すべて意識を持ち、思慮や熱情をもって行動し、一定の目的をめざして努力している人間であり、何ごとも意識的な意図、意欲された目標なしには起らない。しかし、こうした相違は、歴史的研究にとって、とくに個々の時代や出来事の歴史的研究にとっては、非常に重要であるが、歴史の経過が内的な一般的法則によって支配されているという事実を少しも変えるものではない。ここでもまた、すべての個人は意識的に意欲された諸目標をもっているにもかかわらず、表面上では大体において外見上の偶然が支配してはいる。意欲されたことが起るのはまれで、大多数のばあい、多くの意欲された目的が交錯したり抗争しあったりするか、あるいはこれらも目的そのものがはじめから実現できないものであるか、または手段が不十分であったりする。このように歴史的出来事は大体において同じように偶然に支配されているように見える。しかし、表面で偶然がほしいままにふるまっているばあいには、それは常に内的な、かくれた諸法則に支配されているのであって、大切なことはただこれらの法則を発見することである。
人間は、その歴史がどんな結果を生むにせよ、各人が各自の意識的に意欲された目的を追求することによって、その歴史をつくる。そしてこれらのさまざまの方向に働く多くの意志と外界にたいするこれらの意志のさまざまな作用との合成力が、まさに歴史なのである。したがって問題は、これら多くの個人がなにを欲しているかということである。意志は熱情や思慮によって規定される。しかしまた熱情や思慮を直接に規定する刺激は非常にさまざまである。それは外的な事物でもありうるし、また観念的な動機、名誉心とか、「真理と正義にたいする感激」とか、個人的な憎しみとか、あるいはまたあらゆる種類のまったく個人的な気まぐれとかでもありうる。しかし一方では、すでに見たように、歴史のうちで働いている多くの個々の意志は、大抵は意欲されたものとはまったくちがった――しばしば正反対の――結果を生みだすものであり、したがってそれらの動機もまた全体的な結果にたいしては同じく従属的な意義しかもたないものである。他方においては、さらに次のような問題が生じてくる。それは、これらの動機の背後にさらにどんな動力があるのか、どんな歴史的原因が行動する人々の頭脳のなかでそうした動機に形を変えるのか、という問題である。
このような問題を古い唯物論は自分に提出したことがなかった。したがって、その歴史観は――そうしたものをそれがもっているかぎり――根本において実用的(Pragmatisch)(注一)であって、すべてを行為の動機によって評価し、歴史のうちで行動する人々を高貴な人間と下等な人間に分け、そして一般に高貴な人間はだまされ下等な人間が勝利者となるということを発見する。そこで結果はどういうことになるかと言えば、旧唯物論にとっては、歴史を研究しても大して為にならないということであり、われわれにとっては、歴史の領域では旧唯物論は自分自身に不忠実になるということである。そのわけは、歴史の領域では旧唯物論はそこで働らいている観念的な動力を最後の原因と考えて、それらの背後になにがあるか、これの動力の動力であるかを研究しないからである。観念的な動力を認める点にその不徹底があるのではなく、観念的な動力からさらに進んでそれらを動かしている原因にまでさかのぼらない点にあるのである。これに反して、とくにヘーゲルが代表しているような歴史哲学は、歴史上で行動している人々の表面上の動機も、またじっさいに働らいている動機も、けっして歴史的事件の最後の原因ではなく、これらの動機の背後に別の動力があり、これが研究されなければならないということを認めてはいる。しかし歴史哲学はこの力を歴史そのもののうちに求めず、外部から、哲学的イデオロギーから、歴史のなかへもちこんでくる。たとえばヘーゲルは、古代ギリシャの歴史をそれ自身の内的連関から説明するかわりに、たんにそれは、「美しい個性の姿」の完成であり、「芸術品」そのものの実現にほかならないというようなことを主張しているにすぎない。かれはそのさい古代のギリシャ人について多くの美しく深いことを言ってはいるが、といって今日のわれわれを、そのようなたんなる言葉の綾で言いくるめることはもはやできない。
(注一)ここで実用的といわれるのは、エンゲルスの前後の文章からもわかるように、歴史の取扱いかたにかんするもので、過去の知識から実用的な教訓をよみとることを主な目的とし、また人間の本性と行為は一般に類似しているから、こうしたことが可能であると考えるのである。この史観はまたすべてを行動する人が一般にいだく個人的な動機や目的からすべてを解釈しようとする。
このようなわけで、もし問題が、歴史のうちで行動する人間の背後に――意識されてあるいは意識されないで、そして多くのばあい意識されないで――あって、歴史の真の究極的動力をなしている原動力を研究することにあるとすれば、肝要なことは、どんなにすぐれた人間であろうと、個々の人間の動機よりも、むしろ大衆を、諸国民の全体を、そして各民族においてはその民族の諸階級全体を動かす動機である。それもぱっとかがやいてつかのまに消えてしまう線香花火のような行動への動機ではなく、持続的で、大きな歴史的変化をもたらすような行動への動機でなければならない。行動する大衆とその指導者たち――いわゆる偉人――との頭脳のなかに、意識された動機として、明瞭にかあるいは不明瞭に、直接的にかあるいはイデオロギーの形で、ときには天上界の形さえとって、反映されている機動的原因をさぐること――これが、全体としての歴史をも、また個々の時代と国の歴史をも支配している諸法則をつきとめる唯一の道である。人間を動かすものは、すべて人間の頭脳を通過しなければならない。しかしそれが人間の頭脳のうちでどんな形をとるかは、大きく事情に左右される。労働者たちは、一八四八年にはまだライン河畔で単純に機械をうちこわしていたが、それ以来もはやそうしたことはしなくなったからといって、けっして資本主義的な機械工業と和解したのではない。
しかし以前のあらゆる時代には、歴史のこうした起動的原因の研究は、結果との連関がこみいり、かくされていたので、ほとんど不可能であったが、現代はこの連関を単純化したので、謎がとけるようになった。大工業の成立以来、したがって少くとも一八一五年のヨーロッパの平和(注一)以来、イギリスに住む人ならだれにでも、この国のすべての政治闘争が、地主貴族(landed aristocracy)とブルジョアジー(middle class)という二大階級のあいだの支配権要求をめぐっておこなわれたということは、もはや秘密ではなかった。フランスでは、ブルボン家の復帰とともに、同じ事実が意識されるようになった。ティエリ〔一七九五−一八五六〕からギゾー〔一七八七−一八七四〕、ミニュー〔一七九六−一八八四〕、ティエール〔一七九七−一八七七〕にいたる王政復古時代の歴史家たちは、この事実が中世以来のフランスの歴史を理解する鍵であると、いたるところで述べている。そして一八三〇年以来、この二つの国では、労働者階級すなわちプロレタリアートが、支配権をめぐる第三の闘争者として認められるようになった。このように事情が非常に単純化されていたので、人は、ことさら目をつぶらないかぎり、これら三大階級の闘争とそれらの利害の衝突のうちに――少なくともこの二つの先進国では――近代の歴史の起動力を見ないわけにはいかなくなった。
(注一)一八一五年ナポレオンはワーテルローでやぶれ、同年一一月パリで平和条約がむすばれ、ヨーロッパ全体にわたった、ながいナポレオン戦争が終った。
しかしこれらの階級はどうやって発生したのであろうか。かつての封建的な大土地所有者のばあいにはなお、一見その起源を――少なくとも最初は――政治的原因に、すなわち土地の強奪に帰することもできたが、ブルジョアジーとプロレタリアートのばあいには、もうそうはいかない。ここでは、この二大階級の発生と発展が純粋に経済的な原因によるものであることは、手にとるように明らかであった。同じように明らかであったのは、土地所有とブルジョアジーとの闘争のばあいにおとらず、まず第一に問題であったのは経済的利益であって、政治権力はそれを促進するたんなる手段として用いられたにすぎないということである。ブルジョアジーとプロレタリアートは、どちらも経済事情の、もっと正確に言えば、生産様式の一定の変化の結果として発生したのである。最初はギルド的手工業からマニュファクチャーへの、ついでマニュファクチャーから蒸気と機械を使用する大工業への移行が、この二つの階級を発展させたのである。ブルジョアジーによって動かされる新しい生産諸力――最初は一つの製造所における分業と多数の部分労働者との結合――およびそれらによって発展させられた交換上の諸条件と諸要求とは、一定の段階において、伝統的な、法律によって聖化されている現存の生産秩序と両立できないものとなった。もっと詳しく言えば、封建的な社会制度のギルド的な特権やその他無数の人身的および地方的な特権(これらは特権をもたない身分にとっては無数の枷であった)と両立できないものとなった。ブルジョアジーが代表する生産力は、封建的な地主やギルドの親方によって代表される生産秩序に反逆した。その結果は人の知るとおりである。封建的束縛はうちくだかれた。イギリスでは漸次に、フランスでは一挙に、ドイツではそれはまだ終っていない。しかしマニュファクチャーが一定の発展段階で封建的な生産秩序と衝突したように、今ではすでに大工業が、封建的な生産秩序にとってかわったブルジョア的生産秩序と衝突するにいたった。大工業は、このような秩序、ブルジョア的生産様式の狭い制限にしばられて、一方では大衆のますます増大するプロレタリア化を生みだし、他方では売れない生産物をますます大量に生産している。相互に原因となっている過剰生産と大衆の貧困、これが大工業が落ち込んでいくばかげた矛盾であって、この矛盾が、生産様式の変革によって生産力の解放を必然的に要求しているのである。
だから少なくとも近代の歴史においては、すべての政治闘争は階級闘争であり、諸階級のあらゆる解放闘争は、必然的に政治的形態をとるにもかかわらず――というのは、あらゆる階級闘争は、政治闘争であるから――けっきょくは経済的解放を中心としている、ということが証明されている。したがって少なくともここでは、国家すなわち政治的秩序は従属的な要素であり、市民社会、すなわち経済的諸関係の領域が決定的な要素である。ヘーゲルもそれをとっているような旧来の見方では、国家が決定的な要素で、市民社会は国家によって決定される要素と見られていた。外見はそれに一致している。個々の人間のばあいにかれの行為のあらゆる起動力がかれの頭脳を通過して、かれの意志の動機に変らなければならないように、市民社会のあらゆる要求もまた――どの階級が支配しているかにかかわりなく――法律の形をとって一般的な効力を得るためには、国家の意志を通過しなければならない。これは事柄の形式的な側面であって、自明のことである。ただ問題は、個人のであろうと、国家のであろうと、このたんに形式的な意志がどんな内容をもっているか、どこからこの内容がくるのか、なぜまさにこれが意欲されて別のものが意欲されないのか、ということである。このことを調べてみると、われわれは、近代の歴史においては国家の意志は、全体として見て、市民社会の要求の変化によって、どの階級が優勢であるかによって、そして結局は生産諸力と交換関係の発展によって、決定されることを見いだすのである。
しかし巨大な生産手段と交通手段とをもつ現代においてさえ、国家は独立の発展をする独立した領域ではなくて、その存在も発展も、けっきょくは社会の経済生活の諸条件から説明されなければならないとすれば、人間の物質的生活の生産がまだ今日ほど豊富な諸手段をもっておこなわれておらず、したがってこの生産の必要がいっそう大きな支配力を人間におよぼしていたに違いない以前のあらゆる時代にたいしては、このことははるかに多くあてはまらなければならない。今日、大工業と鉄道の時代においてもなお、国家は、大体において、生産を支配している階級の経済的諸要求の総括的な形での反映にすぎないとすれば、今日のわれわれとくらべて、どの時代の人々もその全生涯のずっと多くの部分を物質的要求をみたすために費やさなければならなかった時代、したがって物質的要求に依存することがずっと大きかった時代には、国家ははるかに多くそうしたものでなければならなかった。以前の諸時代の研究は、この側面を真剣に取扱いさえすれば、このことをきわめて豊かに確証する。しかしここではもちろんこうしたことを論じることはできない。
国家および国法が経済関係によって規定されるとすれば、私法ももちろんそうである。というのは、私法は、根本において、個人間の、与えられた事情のもとでは正常な、現存の経済的諸関係を認可するものにすぎないからである。しかしこれがおこなわれる形式は非常にさまざまでありうる。たとえばイギリスでおこなわれたように、その国民的発展の仕方全体にふさわしく、古い封建的な法律の諸形式の大部分を保存しながら、それらにブルジョア的内容を与えることもできるし、それどころか封建的な名目を直接ブルジョア的意味にすりかえることもできる。しかしまた、西ヨーロッパ大陸でおこなわれたように、商品生産社会の最初の世界法、すなわち、単純商品所有者のすべての根本的な法律関係(買い手と売り手、債権者と債務者、契約、債務、等々)を比類なく精密に完成しているローマ法を基礎におくこともできる。そのさい、まだ小ブルジョア的で半封建的な社会に役だたせるために、簡単に裁判上の運用によって、それをそうした社会の状態にまでひきさげることもできるし(普通法(注一))、あるいはまた啓蒙的と自称する、道学者的な法律学者たちの助けをかりて、それに手を加えて、こうした社会に適合する特別の法典につくりかえることもできる。このような事情のもとでつくられたこうした法典は、法律的にも稚拙なものであろう(プロイセンの民法)。しかしまた、ブルジョア的な大革命がおこなわれたあとなら、まさにこのローマ法に基づいて、フランスの民法典のようなブルジョア社会の典型的な法典をつくりあげることもできる。このようなわけで、ブルジョア的な諸法規は社会の経済生活の諸条件を法律という形式で表現したものにすぎないとしても、このことは事情次第でよくもわるくもおこなわれうるのである。
(注一)民法典が採用されるまでドイツの諸国でおこなわれていた民法。
国家のうちに、人間を支配する最初のイデオロギー的な力がわれわれにたいして現れる。社会は、内外からの攻撃にたいしてその共同の利益をまもるために、自分のために一つの機関をつくりだす。この機関が国家権力である。この機関は、発生するとすぐに、社会にたいして独立するようになる。そしてそれが一定の階級の機関となって、この階級の支配を直接に行使するようになればなるほど、ますますそうなってくる。支配階級にたいする被抑圧階級の闘争は必然的に政治闘争、まず第一に支配階級の政治的支配にたいする闘争となる。この政治闘争とその経済的基礎との連関の意識はうすれていき、まったく消えうせてしまうこともある。当事者のばあいには完全にそうなることはないが、歴史家のばあいにはほとんど常にそうなっている。ローマ共和国内部の闘争にかんする古い資料のうちで、けっきょくの係争点、すなわち土地所有について明白に語っているのは、アピアヌス〔前二世紀、アレクサンドリア生れ、ローマの歴史についての著書がある〕だけである。
ところで国家は、ひとたび社会にたいして独立するようになると、ただちにそれ以上のイデオロギーを生みだす。というのは、職業的政治家や国法の評論家や私法学者においては、経済的諸事実との連関が著しく見失われるからである。経済的諸事実は、どんな個々のばあいでも、それらが法律の形で認可されるためには、法律的動機という形式をとらなければならないし、またそのさい当然のこととしてすでに施行されている法律体系の全体が顧慮されなければならないから、そこで法律的形式がすべてで経済的内容は無であると考えられるようになる。国法と私法は、独立の領域として取扱われるようになり、それらは独立した歴史的発展をし、またあらゆる内的矛盾を除去することによってそれ自身として体系的に叙述しうるしまたそうしなければならないものとして取扱われるようになる。
より高い、言いかえれば、物質的、経済的基礎からよりはなれたイデオロギーは、哲学および宗教という形をとっている。ここでは観念とその物質的存在条件との連関がますますこみいっており、多くの介在物によってますます不明瞭となっている。しかしそれは存在しているのである。一五世紀半ば以来のルネッサンス時代全体が都市の、したがってブルジョアジーの本質的な産物であったように、そのとき以来新しく目ざめた哲学もまたそうであった。その内容は本質的には、小・中ブルジョアジーの大ブルジョアジーへの発展に対応する思想の哲学的表現にほかならなかった。このことは、しばしば経済学者であると同時に哲学者でもあった前世紀のイギリス人やフランス人のばあいには、明白にあらわれており、ヘーゲル学派のばあいには、さきに示したとおりである。
しかしなお簡単に宗教のことを論じておこう。というのは、宗教は、物質的生活からもっとも隔たっており、物質的生活にもっとも縁遠いように見えるからである。宗教は、非常に原始的な時代に、人間が自分自身の本性と自分をとりかこむ自然に関していだいた、誤った、非常に原始的な観念から生じたものである。ところでイデオロギーというものはすべて、ひとたび存在するようになると、与えられた観念材料と結びついて、それをいっそう発展させるものである。でなかったらそれはイデオロギーではないであろう。言いかえれば、独立的に発展し、それ自身の法則にのみしたがう、自立的な存在として諸思想に従事することにならないであろう。このような思想過程がその頭脳のなかでおこなわれている人間には、自己の物質的生活の諸条件がけっきょくこの過程の進路を決定するということは、必然的に意識されないでいる。というのは、もし意識されたら、それですべてのイデオロギーはおしまいだからである。
このようなわけで、多くのばあい近縁の各民族群に共通であるこのような原始的な宗教的諸概念は、民族群が分離してからは、各民族において、それぞれに与えられた生活条件にしたがって、特有の発展をする。この発展の過程は、いくつかの民族群、とくにアーリア民族群(いわゆるインド・ヨーロッパ民族群)については、比較神話学によって詳しく示されている。このようにしてそれぞれの民族のうちでつくられた神々が民族神であって、その領域は、それらの神々によって守護さるべき民族の領域以上に及ばず、その領域のかなたでは、別の神々が文句もいわれずに大きなことを言っていたのである。それらが観念のうちに生きながらえることができたのは、ただその民族が存続しているあいだだけであって、民族が亡びるとそれらも亡びた。古い諸民族の滅亡をもたらしたのはローマの世界帝国であったが、この帝国の発生の経済的諸条件をここで研究する必要はない。古い民族神は亡びた。ローマの民族神さえも亡んだ。その神々もまたローマ市という狭い範囲にあうようにつくられていたからである。
この世界帝国を一つの世界宗教によって補おうとする要求は、土着の神々のほかに、いくらかでも尊敬にあたいするものなら、異国の神々でもすべてローマ帝国につれてきて公認し、祭壇を設けようとした試みのうちに明白にあらわれている。しかし新しい世界宗教は、このように皇帝の勅命でつくれるものではない。新しい世界宗教であるキリスト教は、当方の、とくにユダヤの神学を一般化したものと、ギリシャの、とくにストア学派の哲学を通俗化したものとの混合から、すでにひそかに発生していたのである。このキリスト教が本来どんなふうのものであったかについては、これからさらに骨のおれる研究がなされなければならない。というのは、今日われわれに伝えられている公のキリスト教の姿は、それが国家宗教となり、ニカイア会議(注一)でそうした目的にかなうようにされた姿にすぎないからである。それはとにかく、キリスト教が二五〇年後にはすでに国家宗教となったという事実は、それが当時の事情に適応した宗教であったことを十分に証明している。中世ではキリスト教は、封建制の発達につれて、封建制に適応した宗教となり、封建制に対応した封建的な位階制度をもっていた。
ブルジョアジーが台頭してきたとき、封建的なカトリックに対抗してプロテスタント的異端が発展してきた。それはまず、南フランスの諸都市がもっとも栄えていた頃、そこのアルビ派(注二)のあいだに発展した。中世は、神学以外のイデオロギーのあらゆる形態――哲学、政治学、法律学――を神学に併合し、それらを神学の部門にしていた。そのために中世では、あらゆる社会的および政治的運動は、なんらかの神学的形態をとらざるをえなかった。大衆の心はもっぱら宗教に養われていたから、大きな嵐をまきおこすには、大衆自身の利益をも宗教の衣をきせてもちださなければならなかったのである。そして市民階級が最初からその付属物として、なんらかの公認された身分にも属さない無産の都市平民、日雇人、あらゆる種類の召使など、後のプロレタリアートの先駆をなすものを生みだしていたように、プロテスタント的異端もまた、すでにはやくから、ブルジョア的に温和なものと、ブルジョア的異端派からも憎まれていた平民的に革命的なものとに分れていた。
(注一)三二五年に小アジアのニカイアでひらかれたカトリック教会の宗教会議。
(注二)一二、三世紀にローマ・かトリック教会に反対する運動を指導した宗派。南フランスの都市アルビにちなんで名づけられる。
プロテスタント的異端が絶滅できないのは、台頭するブルジョアジーをうちまかすことができないのに対応していた。このブルジョアジーが十分に強くなったとき、これまでは主として地方的であった封建貴族との闘争は全国的な規模をとりはじめた。最初の大きな行動はドイツでおこった。いわゆる宗教改革がそれである。ブルジョアジーは、その他の反逆的な諸身分――都市の平民、下級貴族、地方の農民――を自分の旗のもとに統一できるほど強くもなく、また発達してもいなかった。下級貴族が最初にうちやぶられた。農民は蜂起へと立ちあがった。これが革命運動の全体の頂点であった。諸都市は農民を見殺しにした。こうして革命は諸侯の軍隊にやぶれ、諸侯が獲物全体をさらってしまった。そのときから三〇〇年間、ドイツは歴史のうちで自主的な役割を演じる国々の列から姿を消すのである。
しかしドイツ人ルター〔一四八三−一五四六〕と並んでフランス人カルヴィン〔一五〇九−一五六四〕がいた。かれは生粋のフランス人的な鋭さをもって宗教改革のブルジョア的性格を前面におしだし、教会を共和化し民主化した。ルターの宗教改革はドイツで堕落しドイツを破滅させたが、カルヴィンのそれはジュネーヴやオランダやスコットランドで共和主義の旗じるしとして役だち、オランダをスペインとドイツ帝国から解放し、またイギリスでおこなわれていたブルジョア革命の第二幕〔いわゆる名誉革命〕にイデオロギー的衣裳を提供した。ここでカルヴィン主義は当時の市民階級の利益の紛れもない宗教的扮装であることが示された。だからこそ、一六八九年の革命が貴族の一部と市民との妥協によって終ったとき、それは完全な承認をうることができなかったのである。英国教会は再興されたが、しかしそれは、国王を教皇とするカトリック教という以前の形でではなく、著しくカルヴィン化された。古い国教会は陽気なカトリック的な安息日を祝って、退屈なカルヴィン主義的な安息日に反対していたが、新しいブルジョア化された国教会は後者を採用し、これが今日なおイギリスをかざっている。
フランスでは少数派のカルヴィン主義者たちは、一六八五年に抑圧されて、カトリックに改宗させられるか、でなければ国外追放された(注一)。しかしそれがなんの役に立ったろう。すでに当時自由思想家ピエール・ベイル〔一六四七−一七〇六〕は活動の頂点にあったし、一六九四年にはヴォルテール〔一六九四−一七七八〕が生れた。ルイ一四世の強制処置はフランスの市民階級に、発達したブルジョアジーにのみ適合した、非宗教的な、もっぱら政治的な形態で革命をおこなうのを容易にしてやったにすぎない。プロテスタントのかわりに自由思想家たちが国民会議に席をしめた。これによってキリスト教はその最後の段階へはいった。それは、以後なんらかの進歩的な階級の志望のイデオロギー的粉飾として役だつ能力を失った。それはますます支配階級の独占物となり、支配階級はそれを下層階級を制御するたんなる統治手段として用いている。そしてこのばあいそれぞれ自分に適合した宗教を利用しており、地主貴族はカトリックのジェズイット派かあるいはプロテスタントの正統派を、自由主義的および急進的ブルジョアは理性宗教を利用している。この際これらの紳士諸君が各自の宗教自身を信じていようといまいと、同じことである。
(注一)一六八五年にルイ一四世が信教の自由を認めたナントの勅令を廃止して、フランスのカルヴィン派であるユグノーを迫害したことをさす。
かくしてわれわれは知る。宗教は、ひとたび形成されると、あらゆるイデオロギーの領域で伝統というものが大きな保守的な力であるように、なんらかの伝来の材料を含んでいる。しかしこの材料におこる諸変化は、階級的諸関係から、したがってこれらの変化をひきおこす人々の経済的関係から、生じるのである。ここではこれだけで十分である。……
以上で取扱うことができたのは、マルクス主義の歴史観の一般的な輪郭と、せいぜいいくつかの例証にすぎない。証明は歴史そのものに即して与えられなければならない。そしてこの証明は他の諸著作のうちですでに十分に与えられているということができると思う。(注一)ところでこのような歴史観は、弁証法的な自然観があらゆる自然哲学を無用にし不可能にすると同じように、歴史の領域で哲学を終らせるものである。もはや問題はどこでも、連関を頭のなかで考えだすことではなくて、諸事実のうちにそれを発見することである。かくして自然と歴史とから追放された哲学にとって残るものは、なお残るものがあるとすれば、純粋な諸思想の領域、すなわち、思考過程の諸法則にかんする理論、論理学と弁証法だけである。
(注一)ここでエンゲルスが主として念頭においているのは、ブロッホあての手紙(一八九〇年一一月)を見てもわかるように、『ブリューメル一八日』をはじめとするマルクスの歴史的著作、および『資本論』である。
一八四八年の革命とともに、「教養ある」ドイツは、理論に絶縁状をあたえて、実践の領土へ移った。手労働にもとづく小経営とマニュファクチャーは、真の大工業にとってかわられた。ドイツは再び、世界市場に姿をあらわした。新しい小ドイツ帝国(注一)は、こうした発展をさまたげていた弊害のうち、少なくともそのもっとも甚だしいもの、小国分立、封建制の遺物、および官僚的経営をとりのぞいた。しかし思弁〔シュペクラチオーンSpekulationには投機、思惑の意味がある〕が哲学者の書斎から抜けだして、株式取引所にその殿堂をきづくようになるにつれて、同じ度合で、あの偉大な理論的精神もまた教養あるドイツの名誉であったものだ。それは、ドイツのもっとも甚だしい政治的屈辱の期間を通じてドイツの名誉であったものだ。それは、研究の結果が実際に役だとうとたつまいと、警察の気にさからおうとさからうまいと、そうしたことに少しも気にかけない純粋な研究精神であった。たしかにドイツの公認の自然科学は、とくに個々の研究分野では時代の頂点に立ってはいる。しかし、すでにアメリカの雑誌『サイエンス』が正しく指摘しているように個々の事実のあいだに大きな連関を見いだすという分野での決定的な進歩、すなわちこれらを法則にまで一般化するという仕事は、かつてのドイツにおいてとは違って、今日でははるかに多くイギリスでなされている。そして哲学を含めて歴史的科学の分野では、以前の何ものにもとらわれない理論的精神は、古典哲学とともに今ではまったく消えさり、これにかわってあらわれているのは、無思想な折衷主義と、もっとも卑俗な立身出世までにいたる、地位と収入にたいする懸念である。このような学問の公認の代表者たちはブルジョアジーと現存国家との公然たるイデオロークとなっている。――しかし今日は両者が労働者階級と公然と対立している時代なのだ。
(注一)一八七一年にプロイセンのヘゲモニーのもとでできあがった、オーストリアをふくまないドイツ帝国をいう。
そして労働者階級のあいだでのみ、ドイツの理論的精神は、そこなわれることなく存続している。ここではそれを亡ぼすことはできない。ここには地位や、金儲けや、おかみの恩恵やにたいする顧慮は少しも存在しない。反対に、科学がなんの懸念もとらわれるところもなく進めば進むほど、それはますます労働者階級の利益と志望に一致するようになる、労働の発展史を社会の歴史全体の理解の鍵と認めた新しい学派は、はじめからとくに労働者階級に望みをかけ、そしてここで、公認の学問からは求めもしなかった歓迎を受けた。ドイツの労働者階級の運動こそ、ドイツ古典哲学の相続者である。