二 観念論と唯物論

−p.28−

 すべての哲学の、とくに近世の哲学の大きな根本問題は、思考と存在との関係の問題である。非常に古い時代から――そのころ人々はまだ自分自身の身体の構造についてまったく無知だったので、夢のなかにあらわれる人の姿に示唆されて(注一)、かれらの思考や感覚はかれらの肉体の働らきではなくて、この肉体のうちに住んでいて、人が死ぬときその肉体から去っていく、特殊な魂というものの働らきであると考えるようになったのであるが――このような時代から人々は、この魂と外部の世界との関係について頭をなやまさざるをえなかった。もし魂が人が死ぬとき肉体からはなれて生きつづけるとすれば、魂にその上なお特別な死を考えだす必要はなかった。このようにして魂の不死という観念がうまれたのであるが、このことは、人類の発展のこの段階では、人々には慰めと思われず、さからいがたい運命と思われ、ギリシャ時代において見られるように、しばしば積極的な不幸と思われていた。一般に人々が個人の魂の不死という退屈な想像をもつようになったのは、宗教的な慰めの要求からではなく、同じく一般的な無知のために、一度認めた魂というものを、肉体の死後どうとりあつかったらよいか当惑した結果である。これとそっくりの仕方で、自然の諸力の擬人化によって最初の神々が生じ、この神々は、諸宗教の発達につれてだんだんと超世界的な姿をとるようになり、ついに、人間の精神が発達するにつれて当然生じる抽象の過程、言わば蒸留の過程を通じて、それぞれ多かれ少なかれ制限され、かつ相互に制限しあっている多くの神々から、一神教的宗教という観念が人間の頭脳に生じたのである。

(注一)今日でもなお、野蛮人および低段階の未開人のあいだでは、夢にあらわれる人間の姿は、一時肉体からはなれた魂であるという考えが一般におこなわれている。したがって現実の人間は、その夢にあらわれた姿が夢を見る人にたいして行なった行為にたいしても責任があると考えられている。たとえばイムサーンは一八八四年にギアナのインディアンのあいだにこうしたことがおこなわれているのを発見した。〔エンゲルスの注〕

 したがって思考と存在、精神と自然の問題という、すべての哲学の最高の問題は、すべての宗教と同じく、その根を人類の野蛮時代の無知蒙昧な観念のうちにもっている。しかしこの問題が十分に明確な形で提起され、その十分な意義を獲得しうるようになったのは、ヨーロッパ人がキリスト教的中世のながい冬眠からめざめて以後であった。もっとも、存在に対する思考の位置という問題は、中世のスコラ哲学においても大きな役割を演じており、なにが根源的か、精神かそれとも自然かという問題は、教会にたいしては、神が世界を創造したのか、それとも世界は永遠の昔から存在しているのかという問題にまで尖鋭化していた。

 この問題にどう答えたかに応じて、哲学者たちは二つの大きな陣営に分裂した。自然にたいする精神の本源性を主張し、したがって結局なんらかの種類の世界創造を認めた人々は――そしてこの創造は哲学者のばあいしばしば、たとえばヘーゲルのばあいのように、キリスト教におけるよりもずっと奇妙で馬鹿らしいものであるが(注一)――観念論の陣営をつくった。自然を本源的なものと見た人々は、唯物論のさまざまの学派に属する。

(注一)ヘーゲル哲学における世界創造は、この本の第四章でエンゲルス自身がかんたんにえがきだしている。世界創造者としての理念から自然への移りゆきがどんなにあっけにとられるようなものであるかは『小論理学』二二四節を見よ。

 観念論と唯物論という二つの言葉は、もともと右に述べた以上の意味をもっていないし、ここでもまた他の意味につかってはいない。これ以外の意味をそれにもちこむと、どんな混乱が生じるかは、後にあきらかにされるであろう。

 しかし思考と存在との関係という問題は、なおもう一つの側面をもっている。それは、われわれをとりかこんでいる世界についてのわれわれの思想は、この世界そのものとどんな関係にあるのか、われわれの思考は現実の世界を認識することができるか、われわれはわれわれの表象と概念のうちで現実の世界について正しい映像をつくりだすことができるか、という問題である。この問題は、哲学上の言葉では、思考と存在との同一性の問題とよばれ、哲学者の圧倒的多数によって肯定されている。

たとえばヘーゲルにおいてはその肯定は自明の理である。というのは、ヘーゲルによれば、われわれが現実の世界のうちに認識するものは、この世界の思想的内容にほかならないからである。それは世界を絶対的理念の段階的な実現とするものであってこの絶対的理念は、永遠の昔から、世界から独立して、かつ世界より以前に、どこかに存在していたものである。ところで、思考が、はじめからすでに思考内容であるところの内容を認識しうるということは、わかりきったことである。にもかかわらずヘーゲルは、思考と存在との同一性についてのかれの証明から、さらに進んで次のような結論をひきだしている。すなわち、かれの哲学はかれの思考にとって正しいのであるから、唯一の正しい哲学でもあり、そして思考と存在との同一性は、人類がかれの哲学をすぐに理論から実践に移し、全世界をヘーゲル的諸原則にしたがって改造することによって証明されなければならない、というのである。これは一つの幻想であって、かれはほとんどすべての哲学者と同じく、こうした幻想を抱いているのである。

 しかし、そのほかになお一連の哲学者があって、かれらは世界が認識できるということ、あるいは少くともあますところなく認識できることに、異論をとなえている、このなかにはいるのは、近代ではヒュームとカントであって、この二人は哲学の発展のうえに非常に重大な役割を演じている。このような見解を反駁するための決定的なことは、観念論の立場から可能なかぎりでは、すでにヘーゲルによって語られている(注一)。フォイエルバッハがつけ加えた唯物論的なものは深いというよりもむしろ才気に富んだものである(注二)

このような見解にたいするもっとも有力な反駁は、その他のあらゆる哲学的妄想にたいすると同じく、実践、すなわち実験と産業である。もしわれわれがある自然的現象を自分自身でつくり、それをその諸条件から発生させ、そしてそれをわれわれの目的に役立たせることによって、この現象にかんするわれわれの認識の正しさを証明することができれば、カントの認識できない「物自体」はそれで終りである。動植物体内でつくられる科学的諸物質は、有機化学がつぎつぎとこれらをつくりはじめるまでは、このような「物自体」にとどまっていた。有機化学がそれらをつくりはじめると、この「物自体」は、われわれにたいする物となった。例えば、あかね草の色素アリザニンがそうで、われわれはそれを今ではもう畑のあかね草の根のうちに生じさせないで、コールタールからずっと安くかつ簡単に製造している。

コペルニクスの太陽系は、三〇〇年のあいだ仮説であった。それは九分九厘までたしかであったが、やはり一つの仮説であった。しかしルヴェリェ〔一八一一−一八七七、フランスの天文学者〕がコペルニクスの太陽系によってあたえられたデータから、一つの未知の遊星の存在の必然だけでなく、この遊星が天体のなかで占めなければならない位置をも算出したとき、そしてガレ〔一八一二−一九一〇、ドイツの天文学者、1846年に海王星を発見〕がこの遊星〔海王星〕をじっさいに発見したとき、コペルニクスの太陽系は証明されたのである。にもかかわらずドイツではカントの見解の復活が新カント学派によって企てられ、イギリスではヒュームのそれの復活が不可知論者たちによって企てられているが(イギリスではヒュームの見解が死に絶えたことがない)、それは、とっくに理論的にも実践的にも反駁されているのを考えてみると、科学的には退歩であり、実践的には、唯物論を内々では受け入れて世間のまえでは否定する、はにかみのやり方にすぎない(注三)

(注一)エンゲルスが直接念頭においているのは、ヘーゲルの論理学(とくに『大論理学』)のうちで、「物」(Ding)について述べ、そこでカントの「物自体」をも批判しているところであろう。カントが物自体の諸性質は認識できず、われわれが物について知覚し認識するものは、たんに主観的な「現象」にすぎないと言うのにたいして、ヘーゲルは例えば次のように言っている。

「物は、他のもののうちにあれこれのことをひきおこし、そしてこの関係のうちで自己を独自の仕方で表出するという性質をもっている。物はこうした性質を、他のものがそうしたことに対応した性状をもっているという条件のもとでのみ示すが、しかし同時にこの性質は第一のものに特有のものであって、その自己同一の基礎である……」(グロックナー編『ヘーゲル全集』第四巻、六〇七−六〇八ページ。鈴木・武市訳『大論理学』中巻、二一九ページ)

ところで、物の諸性質は認識できるかもしれないが、「物自体」は認識できないではないかという不可知論者のもう一つの議論にたいするエンゲルスの答えは、『空想から科学へ』へのイギリス版序文(岩波文庫版『空想より科学へ』八四−八五ページ)のうちで、エンゲルスによって次のように要約されている。

「しかし次に新カント派の不可知論者がやってきて言う。われわれは物の諸性質を正しく知覚するかもしれないが、しかしわれわれはどんな感覚過程または思考過程によっても物そのものをとらえることはできない。この『物自体』はわれわれの認識のかなたにある、と。これにたいしてヘーゲルは、とっくの昔にこう答えている。もし諸君がある物のすべての性質を知るならば、諸君はまた物そのものをも知るのである。そうすると残るのは、この物がわれわれの外に存在するという事実だけである。そして諸君の感官が諸君にこの事実を知らせるとき、諸君はこの物の最後の残りものを、すなわちカントの物自体をとらえたのである、と。」

なおひとことつけ加えると、エンゲルスは『フォイエルバッハ論』では、特にヘーゲルのそことさしているのではないから、もっと広くヘーゲルの不可知論批判をも念頭にもっていたとも考えられる。レーニンは『哲学ノート』のなかで(岩波文庫版、第一分冊、一四〇ページ)、エンゲルスがおそらく念頭においたであろうところとして、ヘーゲルの『大論理学』の「概念論」のはじめの「概念一般について」というところにあるカントの認識論の批判(グロックナー版『ヘーゲル全集』第五巻、一四−二八ページ)をあげている。ここでヘーゲルが言っている主なことは、概念を空虚な形式と見ることにたいする批判である。

(注二) カントの認識できない物自体にたいするフォイエルバッハの批判の主なものは、『将来の哲学の根本問題』の第二二章にある(岩波文庫『将来の哲学の根本問題』八四−八五ページ)。そこでフォイエルバッハは次のようにカントを批判している。

 「カントは言う、『われわれが感官の対象を正当にもたんなる現象と見なすとき、われわれはこれによって同時に、次のことを認めるのである。すなわち、これらの現象の根底には物自体が、たとえわれわれがそれをあるがままに知るのでなく、ただその現象を、言いかえれば、われわれの感官がこの知られない或るものによって触発される仕方を知るにすぎないにしても、存在しているということを認めるのである。したがって悟性は、まさにそれが現象を想定することによって、物自体の存在をも認めるのであり、そしてそのかぎりにおいてわれわれは、現象の根底にあるこうした本質の表象は、したがってまたたんなる悟性的本質、たんに許容されるのみでなく、不可避的でもあると言うことができる。』

 したがってカントによれば、感官、経験の対象はたんなる現象にすぎず、真理ではない。それは悟性を満足させない。言いかえれば、それは悟性の本質に一致しない。したがって悟性は、その本質においては、感性によって制限されていないのである。もし制限されていたら、それは感性的事物を現象とは見ず、輝かしい真理と見るであろう。……にもかかわらずカントは、悟性的本質は悟性にとって現実的な対象ではないということである。カントの哲学は主観客観本質現存在思考存在との矛盾である。そこで本質は悟性に、現存在は感官に属するとされる。

 本質をもたない現存在たんなる現象であり――それが感性的事物である――現存在をもたない本質はたんなる思想である――それが悟性的本質、本体である。それは思考されはするが、現存在――少くとも――われわれにとっての現存在――客観性が欠けている。それは物自体、真の物であるが、ただそれはなんら現実的なものでなく、したがってまた悟性にとっての物、言いかえれば、悟性にとって認識され規定されうる物でもない。しかし、真理を現実から、現実を真理から切りはなすとは、なんという矛盾であろう!」

(注三) 「はにかみや」の唯物論については、『空想から科学へ』のイギリス版序文(岩波文庫版『空想より科学へ』八二−八二ページ)を参照。

 しかしデカルトからヘーゲル、ホッブスからフォイエルバッハまでのながい期間に、哲学者たちはけっして、かれらが信じていたように、純粋な思考の力によってのみ推し動かされていたのではない。その反対である。かれらをほんとうに動かしていたものは、とくに自然科学と産業との、力強い、絶えず速度をましながら突進する進歩であった。このことは唯物論者たちのばあい、十分に表面にあらわれていたが、しかし観念論体系もまたますます唯物論的内容にみたされるようになり、それは精神と物質との対立を汎神論的に和解させようとした。このようにしてけっきょくヘーゲルの体系は、方法においても内容においても、観念論的に逆立ちさせられた唯物論にほかならない。

 以上から、シュタルケがフォイエルバッハを特徴づけるにあたって、まず思考と存在という上述の根本問題にたいするフォイエルバッハの態度を研究しているわけがわかる。まず短かい序論があって、そこでは、とくにカント以後のこれまでの哲学者たちの見解が不必要に哲学的で重苦しい言葉で述べられ、そしてそのさいヘーゲルについては、かれの諸著作の個々の箇所にあまりに堅苦しくこだわりすぎて非常にまずい述べ方しかしていない。この短い序論の次に、フォイエルバッハの関係著作の順序を追って、この哲学者の「形而上学」そのものの発展過程の詳細な叙述がなされている。この叙述はたんねんにかつ要領よくなされているが、ただこの本全体がそうであるように、どこでもさけられないということは決してない哲学的な言い回しの重荷をいっぱいつみこんでいる。この重荷は、著者が同じ学派の用語、あるいはフォイエルバッハ自身の用語だけを用いず、種々様々の、とくに今日流行の、哲学的と自称している諸流派の用語を混入させることが多くなればなるほど、ますますわずらわしくなっている。

 フォイエルバッハが進んだ道は、一人のヘーゲル主義者が――もっともまったく正統派ではないが――唯物論へと進んだ道である。この進行は、一定の段階に達すると、かれの先行者の観念論的体系との完全な決裂をひきおこさざるをえない。あらそいがたい力に迫られて、ついにフォイエルバッハは次のような認識に達せざるをえなかった。ヘーゲルの「絶対理念」の先世界的存在、世界の存在以前の「論理的諸カテゴリーの先在」というようなものは、超世界的な創造者への信仰の空想的な残りものにすぎない。これは言うまでもなくわれわれ自身がその一部である物質的な、感覚的に知覚しうる、世界が唯一の現実の世界であり、われわれの意識と思考は、それがどんなに超感覚的に見えようとも、物質的で肉体的な器官、脳髄の産物である。物質が精神の産物ではなくて、精神それ自身が物質の最高の産物にすぎない。これは言うまでもなく純粋の唯物論である。しかし、ここまできて、フォイエルバッハは立ちすくむ。かれは因習となっている哲学的偏見、事柄そのものにたいしてではなく、唯物論という言葉にたいして、偏見を克服することができない。かれは言う――「唯物論は私にとって人間の本質および知識の建物の基礎である。しかしそれは、わたしにとっては、たとえばモレショット(一八二二−一八九三、オランダ生れの生理学者、俗流唯物論の代表者)のような生理学者、すなわち狭い意味での自然科学者(注一)にとってそうであるもの、しかもかれらの立場と専門からして必然的にそうであるもの、すなわち建物そのものではない。後方ではわたしは唯物論に完全に賛成するが、前方では賛成しない。」

(注一)生理学者を狭い意味での自然科学者と言いかえたのは、ドイツ語の生理学者(physiolog)が語源的には自然科学者の意味をもち、またそうした意味に用いられることもあるからである。

 フォイエルバッハはこのばあい、物質と精神との関係についての一定の見解にもとづく一般的な世界観である唯物論を、それが一定の歴史的段階に、すなわち一八世紀にあらわれた特殊な形態と混同している。そればかりか、彼はそれを、一八世紀の唯物論が自然科学者や医者の頭脳のうちに今日残存していて、五十年代にビュヒナー(一八二四−一八九九、ドイツの医者、自然科学について啓蒙的な仕事をし、哲学者としては俗流唯物論者)やフォークト(一八一七−一八九五、ドイツの俗流唯物論者でボナパルティスト)やモレショットによってふれまわられていたような、浅薄化され俗悪化された形態と混同している。しかし観念論が一連の発展段階を経てきたように、唯物論もまたそうであった。自然科学の領域で画期的な発展がおこなわれるだけでも、そのたびにそれはその形態を変えなければならなかった。そして歴史もまた唯物論的な取扱いのもとにおかれるようになってからは、この領域でも新しい発展の道がひらかれた。

 前世紀〔一八世紀〕の唯物論は大体において機械論的であった。というのは、当時はすべての自然科学のうち力学だけが、しかも天体および地球上の固体の力学、一口に言えば、重力の力学がある程度完成されていたにすぎないからである。化学はやっと幼稚な、燃素説の形で存在しているにすぎなかった。生物学はまだむつきにくるまれていて、動植物はただ大ざっぱにしか研究されていず、まったく機械的な原因から説明されていた。デカルトにとって動物が機械であったように、一八世紀の唯物論者にとっては、人間は一個の機械であった。化学的あるいは有機的な性質の諸現象に――ここには力学的な諸法則も作用しているのはいるが、他の高次の諸法則によって背後におしやられている。――ひたすら力学の尺度を適用したことが、古典的なフランス唯物論に特有の、しかし当時としてはやむをえない制限をなしている。

 この唯物論に特有な第二の制限は、世界を一つの過程として、不断の歴史的発展のうちにある物質としてとらえることができなかったところにある。これは、当時の自然科学の水準と、それに関連した形而上学的な、言いかえれば反弁証法的な哲学的思考に照応するものであった。自然が不断の運動のうちにあることは、人々も知っていた。しかしこの運動は、当時の考えでは、同じく不断の循環をしていて、したがって少しも進歩するものではなかった。それはくりかえしくりかえし同じ結果を生みだすものであった。このような考えは当時はやむをえなかった。カントの太陽系発生の理論はやっと提出されたばかりで、まだたんに奇妙な説とみなされていた。地球の発達の歴史、地質学はまだまったく知られていなかったし、今日の命ある自然物が、単純なものから複雑なものへの長い発展の成果であるという考えは、当時は科学的にはまったく提出されることができなかった。したがって非歴史的な自然観はさけがたいものであった。このような自然観がヘーゲルにもあるのを思うと、われわれはこの点で一八世紀の哲学者たちを非難することはできない。

ヘーゲルにおいては、自然は、理念の「外化」として、時間的に発展する力がなく、空間のうちでその多様性をくりひろげることしかできない。したがって自然は、自己のうちに含んでいるすべての発展段階を同時的かつ並列的に陳列して、いつも同じ諸過程を永遠にくりかえすように運命づけられているのである。ヘーゲルの時代には、地質学、発生学、動植物の生理学、および有機化学がつくられており、これらの新しい諸科学を基礎として、後の進化論の天才的な予感(たとえばゲーテとラマルク)が現れていたが、ほかならぬこのような時代にヘーゲルは、空間のうちでおこなわれはするが、しかしあらゆる発展の根本条件である時間の外にある発展というような不合理を自然におしつけていたのである。しかし体系がそうしたことを要求していたので、方法は、体系のために自分自身にそむかざるをえなかったのである。

 同じような非歴史的な把握が歴史の領域でも支配的であった。ここでは中世の遺物にたいする闘争が視野を狭くしていた。中世は一〇〇〇年にわたる全般的な野蛮による歴史のたんなる中断と考えられていた。中世における大きな進歩――ヨーロッパ文化圏の拡大、この圏内にあい並んで形成された、活気に富む大きな諸民族、最後に、一四世紀と一五世紀の巨大な技術的進歩――これらすべてを人々は見なかった。しかしこのために大きな歴史的連関への合理的な洞察が不可能となり、歴史はせいぜい、哲学者用の実例と例証の収集として役だったにすぎなかった。

 五十年代にドイツで唯物論を売り物にしていた俗流化専門の行商人たちは、かれらの先生の制限から一歩もでなかった。それ以来なされた自然科学のあらゆる進歩は、かれらにとっては、世界の創造者の存在を否定する新しい論拠としてしか役だたなかった。またじっさい、理論をいっそう発展させるというようなことは、まったくかれらの商売外のことであった。観念論はもうにっちもさっちもいかなくなっていて、一八四八年の革命によって致命的打撃をうけていたが、それは唯物論が一時それ以上におちぶれたのを見て満足を感じた。フォイエルバッハがこのような唯物論にたいして責任を拒否したのは、あきらかに正しかった。ただかれは、巡回説教師の教えを唯物論一般と混同してはならなかったのである。

 しかしここでは二つのことを注意しなければならない。第一に、フォイエルバッハの存命中にも自然科学はなおあの激しい発酵の過程にあって、それはこの一五年間にはじめて澄んできて相対的な決着に達したのである。新しい知識材料がこれまでにない規模で提供されたが、めまぐるしくあらわれてくる諸発見の渾沌のうちに連関と秩序をつくりだすことができるようになったのは、ほんの最近のことである。なるほどフォイエルバッハは三つの決定的な意義をもつ発見――細胞の発見、エネルギー転化の発見、ダーウィンの名でよばれる進化論の発見――を、すべて存命中に知ることができた。しかし田舎で孤独な生活を送っている哲学者が、これらの発見の意義を完全に評価しうるほど、科学を十分に研究することがどうしてできよう。当時は自然科学者でさえ、一部はこれらの発見に異議をとなえており、一部はそれを十分に利用することができなかったのである。このばあい罪はひとえにあわれむべきドイツの状態にあった。そしてそのおかげで哲学の講座は、煩瑣で折衷的な小理屈屋たちによって占領されており、それにひきかえ、かれらすべてをこえてそびえ立っていたフォイエルバッハは、小さい田舎臭い陰気な生活を送らなければならなかったのである(注一)。だから、今日はじめて可能になった、フランス唯物論のもっていたあらゆる一面性をまぬかれた、歴史的な自然観にかれが到達できなかったのは、かれの責任ではないのである。

(注一)フォイエルバッハはすべての大学の教職を拒否されて、一八三六年以来南ドイツの小さい村ブルックベルクに引退し、一八六〇年以降はレッヘンブルクに移り、孤独と窮乏のうちに死んだ。

 しかし第二に、フォイエルバッハが、たんなる自然科学的唯物論は「人間の知識の建物の基礎ではあるが、建物自身ではない」と主張するとき、それはまったく正しい。というのは、われわれは自然のなかに生きているだけでなく、人間社会のうちにも生きており、そしてこの人間社会もまた、自然におとらず、その発展の歴史とその科学をもっているからである。したがって問題は、社会に関する科学、すなわち歴史的および哲学的諸科学の全体を、唯物論的な基礎と一致させ、この基礎のうえで再建することにあった。しかしこれはフォイエルバッハには不可能であった。ここではフォイエルバッハは、その「基礎」において唯物論的であったにもかかわらず、あいかわらず伝来の観念論的なきずなにとらわれていた。そしてこのことをフォイエルバッハは「後方では唯物論者に賛成だが、前方では賛成しない」という言葉によって認めている。しかし社会の領域で「前方へ」進まず、一八四〇年あるいは一八四四年の立場(注一)をこえなかった者、それはフォイエルバッハ自身であった。そしてそれもまた主としてかれの隠遁生活のせいであって、このためにかれは――他のどんな哲学者にもまして社会的接触を好む性質であったのに――かれにおとらぬ能力をもつ他の人々との協力や敵対のなかにおいてでなく、自己の孤独な頭脳から思想を生みださざるをえなかったのである。社会の領域でかれがどの程度観念論者にとどまっていたかは、後に詳しく見るであろう。

(注一)エンゲルスが念頭においているのは『キリスト教の本質』(一八四一年出版)およびそれと根本的立場のかわっていない『宗教の本質』(一八四五年出版)であろう。

 ここでただもう一つ注意しておかなければならないのは、シュタルケがフォイエルバッハの観念論を不当な場所にもとめているということである。「フォイエルバッハは観念論者(イデアリスト)である。かれは人類の進歩を信じている。」(一九ページ)――「全体の基礎、下部構造は、それにもかかわらずあくまで観念論(イデアリスム)である。実在論は、われわれにとっては、われわれがわれわれの観念の流れを追うばあいに道をまちがえないための保護にすぎない。同情や、愛や、真理と正義への熱中やは観念的な力ではないか。」(序文八ページ)

 第一に、ここで言われている観念論(イデアリスム)とは、理想的な目標の追求というということ以外の意味をもたない。しかし理想的目標が必然的に関係があるのは、せいぜいカントの観念論とその「定言的命令」(注一)だけである。しかしそのカントでも、かれの哲学を「先験的観念論」とよんだのは、そこで道徳的理想もまた取扱われているからではけっしてなく、まったく他の理由によるのであって、このことはシュタルケもおぼえているであろう。哲学的観念論は道徳的、別の言葉で言えば、社会的理想への信仰を中心とするものだという迷信は、哲学のそとで生じたものである。すなわちシラーの詩のなかでかれらに必要なわずかな哲学的教養の断片を暗誦しているドイツの俗物たちのあいだで生じたのである。カントの無力な「定言的命令」――それは不可能なことを要求するし、したがってまたけっして実現されることがないから、無力である――をだれよりも鋭く批判し、またシラーが仲だちとなってつくりだされた、実現不可能な理想に対する俗物的な熱中をだれよりも無慈悲に嘲笑したのは、完全な観念論者ヘーゲルその人であった。(たとえば、かれの『精神現象学』(注二)を見よ。)

(注一)判断の分類で、「もし……なら、……である」という判断は仮言的とよばれ、これにたいしてこのような条件のつかない判断は「定言的」とよばれる。「定言的命令」とは、無条件的な命令であって、カントは、道徳律は、「もし……でありたいなら、……せよ」という条件的な命令とちがって、無条件的だというのである。カントの「定言的命令」の定義は「なんじの意志の格率が同時に普遍的立法として通用するように行為せよ」であるが、カントの道徳観の根本特徴は、道徳をすべての自然的および社会的内容からきりはなし、たんに義務のための義務としているところにある。

(注二)ヘーゲルの『精神現象学』の「精神」のところにある「道徳的世界観」を見よ。

 しかし、第二に、人間を動かすものはすべてその頭脳を通過しなければならないということは、どうしても避けることができない。飲み食いでさえそうであって、それは頭脳によって感じられた飢えと渇きにはじまり、同じく頭脳によって感じられた満腹に終るのである。人間にたいする外界の諸影響は、人間の頭脳のうちに表現され、さまざまの感情、思想、衝動、意思決定として、一口でいえば「観念の流れ」として反映され、そしてこうした形をとって、「観念の力」となる。ところで、こうした人間が一般に「観念の流れ」を追い、そして「観念の力」が自分に影響をあたえることを認めるという事情――そうしたことが人間を観念論者にするとすれば、ある程度正常に発達した人間は、すべて生れながらの観念論者であって、そうなると、およそ唯物論者というものがどうして存在することができよう。

 第三に、人類が少くとも今のところ大体において進歩の方向に動いているという信念は、唯物論と観念論の対立とはまったく無関係である。フランスの唯物論者たちは、理神論者であるヴォルテールやルソーにおとらず、ほとんど狂信的な程度にまでこうした信念をいだいており、そしてこの信念のために幾度となく最大の一身上の犠牲をはらった。もし「真理と正義とへの熱中」に――このきまり文句を善意に解するとして――生をささげた人があったとすれば、たとえばディドロはそうであった。だからシュタルケがこうしたことをすべて観念論と主張するとすれば、唯物論という言葉も、二つの方向の完全な対立性もここではかれにとってすべての意味をうしなっていることを証明するにすぎない。

 事実を言えば、シュタルケはここで、おそらく無意識にとはいえ、ながい年月にわたる僧侶たちの中傷に由来する唯物論という名前にたいする俗物的偏見に、許しがたい譲歩をしているのである。俗物は、唯物論といえば、牛飲馬食、眼や肉の楽しみに耽(ふけ)ること、豪奢な生活、金銭欲、貪欲、所有欲、利殖、取引所詐欺、一口に言えば、かれら自身がひそかにそれに耽っているあらゆるみにくい悪徳と思っている。そして観念論とは、徳、普遍的な人類愛、一般に「よりよき世界」への信仰と思っている。この信仰をかれらは他人のまえでは誇っているが、かれら自身がそれを信じるのは、せいぜい、いつもの「唯物論的」放埒につきものの二日酔いあるいは破産に苦しんでいるあいだだけである。そしてかれらはそのさいその愛誦の歌「人間は、なかばは獣(けもの)でなかばは天使」を歌うのである。

 その他の点ではシュタルケは、今日ドイツで哲学者と称して大きな顔をしている大学教授たちの攻撃と学説にたいしてフォイエルバッハを擁護することに大いに骨おっている。ドイツ古典哲学のこの後産(あとざん)に興味をもつ人々にとっては、このことはたしかに重要なことである。シュタルケ自身には欠くことのできないことと思われたであろう。しかしわれわれはこのことで読者をわずらわさないことにする。