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ディーツゲンと云えば、今の人にとっては余り親しい名前ではないかもしれない。しかし、大正の末葉から昭和の初頭にかけて、山川均氏や石川準十郎氏の訳によって随分読まれたものである。今日でも三浦つとむ氏はディーツゲンを高く評価している(『弁証法いかに学ぶべきか』)。それはとにかくとして、ディーツゲンは普通の哲学史においては殆んど無視されているが、もっと重んぜられていい人である。そういう歴史的意義だけでなく今の日本にとっての現代的意義をも持っていると思われる。特に、マルクス・エンゲルスとの関連において、彼を正しく評価することは必要である。
ヨーゼフ・ディーツゲンは一八二八年十二月九日、ケルンの近くのブランケンベルクで生れた。ブランケンベルクは、森や葡萄畑で蔽われた高地にあり、その麓のところをラインの支流のジーク川が美しい線を描いて流れていた。ヨーゼフは五人兄妹の長男であり、半年ほどラテン語学校へ行ったことはあるが、ほとんど高等教育は受けなかった。
一八四五〜四九年、彼は父の鞣革(なめしがわ)工場で働いたが、彼の側(そば)にはいつも書物がひろげられてあった。彼は文学、経済学、哲学を勉強した。また、フランス語を独学によって学び、ギムナジウムのフランス語の教師より上手にフランス語の会話ができたということである。一八四七−五一年にはいくつかの詩を作り、それが今日も残っている。
彼はフランスの経済学を研究することによって、早くから社会主義に引かれていたが、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』は彼を階級意識を持った社会主義者にした。一八四八年には革命運動に参加し、街頭で台の上に登って村人たちに獅子吼(ししく)したこともある。
次いで反動時代が来たので、四九年六月彼はアメリカへ渡った。滞米二年間、彼はときどき鞣革工、ペンキ師、教師等をしたが、多くは日雇労働者として各地を渡り歩いた。彼の足跡は、北はウィスコンシンから南はメキシコ湾まで、東はハドソンから西はミシシッピーまで及んでいる。
一八五一年十二月彼はドイツに帰り、再び父の工場で働いた。二年後彼はある宗教心の深い婦人と結婚したが、彼女は七七年に死ぬまで、彼に喜びと慰めを与えた。彼女は熱心なカトリック信者であり、彼は自由思想家であり、社会民主主義者であって、両人の思想傾向は全く異るのであるが、両人の生活は珍しい程「和解と信頼」に充ちたものであった。
一八五九年、早く経済的独立をえて、学問研究に専一になろうとして、再びアメリカに渡り、もっと収益のある仕事をしようとした。ところが、間もなく南北戦争が勃発して、アメリカにとどまれなくなったので、六一年再びドイツへ帰り、父の工場で働いた。
一八六四年、彼はロシア政府に雇われ、ペテスブルクの官営製革所の監督になり、生産方法を改善して、工場の能率を五倍にした。しかし六九年、またラインに帰り、人口八千のジークブルクで製革所を開いた。その後、彼はもう一度ペテスブルクを尋ねたことがある。
彼はロシアに滞在中『人間の頭脳活動の本質』(Das Wesen der menschllichen Kopfarbeit, dargestellt von einen Handarbeiter. Eine abermalige Kritik der reinen und praktischen Vernunft.)を書いた。この書物は一八九六年ハンブルグで出版された。
なお彼は、ペテスブルクでマルクスの『資本論』に関する論文を書き、六八年ライプチッヒの週刊紙に掲載された。マルクスは『資本論』第一巻の第二版への序文において(一八七三年)ディーツゲンの経済学上の見解を称揚している。マルクスは一八七五年九月彼をジークブルクに訪問した。
彼の考え方に大きい影響を及ぼしたもう一人の友人は、ルートヴィヒ・フォイエルバッハであって、両人の間には文通が行われていた。一八七二年、フォイエルバッハの死と晩年の貧窮とが知らされたとき、彼は深く悲しんだ。「父が泣くのを見たのは、このときがはじめてであった。」と息子のオイゲンは書いている。
ジークブルクの時代には、比較的学問研究に専心することはできたが、商売の方は芳しくなかった。当時発達してきた大工業に圧迫されざるをえなかった。この頃一度デンマークへ行き、同志から経済的援助をえようとしたが失敗した。
一八七八年、ヘーデル及びノビリングのドイツ皇帝暗殺騒ぎのとき、彼は逮捕されて、三ヵ月間投獄された。それは、彼がケルンで「社会民主主義の将来」と題する演説をしたからである。
一八六九〜八四年、ジークブルク滞在中、彼は経済学および哲学に関する多くの論文を書き、新聞雑誌に発表した。一八七二年九月の国際労働者協会第五回大会に彼は委員として参加したが、その場でマルクスは彼を「我々の哲学者」(Das ist unser Philsoph.)として紹介した。八一年、彼は無理に、ライプチッヒからドイツ連邦議会議員の候補者に推されたが、落選した。
一八八四年、かれは三度びアメリカに渡り、ニューヨークで社会党の機関紙『社会主義者』の主筆になった。八六年、子供たちと一緒にシカゴに移った。この年彼はシカゴで『或る社会主義者の認識論の領域への侵入』(Streizüge eines Sozialisten in das Gebiet der Erkenntnistheorie)を書き、翌年チューリッヒで出版された。八七年、『哲学の実果』(Acquisit der Philosophie)を公にした。『頭脳活動』とこれとが彼の主著である。八六年、シカゴ無政府党事件で『シカゴ労働者新聞』の主筆が逮捕されたとき、彼は一時その主筆を引受け、死ぬまでこの新聞に協力を惜しまなかった。
彼が死んだのは一八八八年四月十五日であった。この晴れた日曜日の朝、彼は息子のオイゲンと一緒に新緑の美しいリンカーン公園を散歩し、上機嫌で家へ帰った。そしていかにも美味しそうに昼食をしたためた、ところが、食後のコーヒーを飲んだところへ、息子の知人が尋ねて来た、そのため、彼はいつも昼食後三十分横になる習慣であったが、この日は休まずにそのままシガーに火をつけ、息子と知人との社会問題に関する議論に参加した。そして珍しく興奮して、自分はすでに四十年前今日の労働運動を発見していたこと、近い将来に資本主義の没落を期待できること、を力強く主張した。このとき突然彼は手をあげたまま動かなくなった。そして最後の息をすると、意識を失って、椅子から息子の胸の中へ倒れた。二分後、心臓麻痺は彼を死へ連れ去った。
一八八八年四月十七日、彼の遺骸はシカゴの無政府党殉難者の墓所に、極めて質素に葬られた。
ディーツゲンの思想に関して、本文を読まれれば明かであるが、『世界思想辞典』(河出書房)はこの書の内容を次のように紹介している。「彼の哲学上の処女作にして主著。本書において彼ははじめて弁証法的な唯物論を発表した。彼の唯物論はフォイエルバッハの直接的影響を受けており、彼の弁証法はむしろ独力で発展されたものとみられている。本書には『純粋理性および実践理性の再批判』という副題がついており、唯物論的認識論と唯物論的道徳論とが展開されている。著者はまず序文において哲学の階級性に言及し、支配階級は彼らの階級的利益のために、一般的理性の要求を承認することを妨げられているに対し、『純粋』人を代表する労働者階級の利害は単に階級的なものではなく人類的なものであり、したがって労働者階級こそ理性の真実の代表者であるという。更に第2章に至ると、思惟は脳髄の一機能であり、脳髄の一所産である等々の唯物論の根本原則が述べられると同時に、物自体と現象との弁証法的統一が説かれている。第5章においては道徳の階級性について述べられ、手段と目的との弁証法的な相関関係が明らかにされるとともに、一般的なものを特殊的なものから発展せしむるのが理性の任務であること、普遍的目的は人類の福祉であることが明らかにされる。レーニンもいうごとく、彼の表現の仕方はしばしば不確かで、また彼はしばしば混乱におちいってはいるが、それにも拘らず彼は確かに弁証法的唯物論者であった。本書が書かれた当時、マルクスは彼の原稿について次のようにいった。『そこには多少の混乱や少なからざる重複はあるにしても、なお多くの優れた点や、一労働者が独力で仕上げたものとしては、驚嘆に値いするものさえある*』と。
* 一八六八年十二月五日のクーゲルマンへの手紙。
先ずディーツゲンはヘーゲル等の思弁哲学にきびしく反対する。例えば、ヘーゲルは次のように云っている。「概念は真に最初のものであり、さまざまの事物は、それらに内在し、それらのうちで自己を啓示する概念の活動によって、現にそれらがあるような姿を持っているのである。神は世界を無から創造したとか、或は世界及び有限な諸事物は神の豊かな思想と意思とから生じたとか言われるのは、このことを宗教的に言い現したものである。そしてそれは、思想が、もっとはっきり言えば、概念が、無限の形式、すなわち自由な、創造的な活動であって、自己を実現するのに自己の外に存在する材料を必要としないことを認めているのである。」(松村一人訳『小論理学、下巻』・一三〇頁・『岩波文庫』) ディーツゲンはこれと正反対のことを繰返し繰返し説いている。
ディーツゲンはヘーゲルの思弁哲学を棄て去ることによって、むしろカントに接近したと思われる。勿論ディーツゲンはカントそのままを受けつぐのではなく、カントを批判してはいるが、批判することによって、却ってその影響を受けたようである。「純粋理性及び実践理性の再批判」という副題もカントを頭においたものであろう。ディーツゲンはカントの意味する物自体及びアプリオリを否定するが、その唯物論的側面を受けついでいる。ディーツゲンの考え方にはカント的な点が多い。結局は弁証法的唯物論がその立場になっているにしても、この書で展開されている論理のはこび方には形式論理学的な側面が現われている。カントの考え方が自然科学的であるのと同じように、ディーツゲンは、科学は自然科学であると考え、その考え方も自然科学的である。この辺りにカントとディーツゲンとの親和性があり、ディーツゲンのカント的側面を見失ってはならない。
ディーツゲンの考え方は全体として社会科学的よりも自然科学的ではあるが、道徳等の社会問題をも取扱っている。社会問題に対しては階級性を見ており、マルクス主義的である。この点では、フォイエルバッハのように、観念論に陥ることなく、フォイエルバッハを乗り越えている。要するに、ディーツゲンは、ヘーゲルを棄て、カントの唯物論的側面を受けついで発展させ、フォイエルバッハを乗り越え、弁証法的唯物論に到達したということができる。
ディーツゲンは屡々観念論と唯物論とを対立させ、両者を共に批判している。この場合、観念論はヘーゲル等の思弁哲学を、唯物論はビュヒナー等の俗流唯物論を指している。思弁哲学と俗流唯物論とが歴史的に彼に与えられたものであり、彼はこの両者の矛盾対立という精神的状況にあったわけである。そしてこの矛盾を統一するものとしての弁証法的唯物論の立場をとった。もっとも、彼には精神と物質とを表裏一体と考えている点もあり、そこからスピノザ的とか一元論的とか評される。そういう側面も彼の考えの中にはある。そこに多少の混乱はあるが、根本の立場は唯物論である。
マルクス・エンゲルスもレーニンもディーツゲンを高く評価している。エンゲルスは『フォイエルバッハ論』において次のように云っている。「ところでこの唯物論的弁証法は、すでに幾年も吾々のもっともよい労働手段であり、我々のもっとも鋭利な武器であったが、これが、注目すべきことには、我々によって発見されたばかりでなく、そのほかになお、我々とは独立に、いなヘーゲルとさえも独立に、ドイツの一労働者ヨゼフ・ディーツゲンによっても発見されたのであった。」(『マル・エン選集』第十五巻下、四八三頁)
レーニンは『唯物論と経験批判論』でディーツゲンに触れている。レーニンは、ディーツゲンは弁証法的唯物論者であるが、表現の仕方が屡々不正確であり、混乱に陥っているので、マッハ主義者たちはこの混乱にすがりついた、と云っている。そして特に「第四章、八、如何にJ・ディーツゲンは反動的哲学者の気に入ることができたか?」(佐野文夫訳・中間一七四頁以下・『岩波文庫』)においてマッハ主義者たちを批判している。
ディーツゲンにも混乱があり、例えば次のように云っている。「我々は思惟と存在とを区別する。我々は感覚的対象とその精神的概念とを区別する。それにも拘らず、非感覚的表象も亦感覚的・物質的であり、すなわち現実的である。」「机、光、音が相互に区別されるより以上に、精神がこれらの事物から区別されるものではない。」これは表現の不正確なところであるが、マッハ主義者たちはそこにすがりつき、はっきりした唯物論命題については沈黙を守る。「わが深慮あるマッハ主義者たちは、J・ディーツゲンの唯物論的認識論の個々の命題をそれぞれ究明することは避けてゐて、ディーツゲンがこの認識論から背離しているところ、分明を欠いた点や混乱したところに、からみついてゐる。J・ディーツゲンが反動的哲学者の気に入ることができたのは、彼れがそこかしこで混乱してゐるためだ。混乱のあるところ、そこにはまたマッハ主義者がゐる、それはもとより自明のことだ。」ディーツゲンは九割まで唯物論者で、マッハ主義者は後の一割にすがりつき、これを反動の方へ導いている。「今こそワレンチーノフ氏一同は、マルクスがディーツゲンのうちにかりにも混乱と呼んだものは、カントから唯物論には行かないで。バークレイとヒュームに行ったそのマッハに、ディーツゲンを近づけるその点だけだといふことを、思ひつかないだらうか?」
レーニンはこのようにディーツゲンを評価し、マッハ主義者たちを批判している。
さて、ディーツゲンは、歴史的には、一九世紀の俗流唯物論の中にあって、独力で弁証法的唯物論を打ち建てた点において評価されるべきである。そうみれば、哲学思想史においても高い位置を与えられなければならない。
しかし、それだけではなく、ディーツゲンは現代的意義をも持っている。それはディーツゲンの読み方にも関係する問題である。マルクス――ディーツゲン――マッハの方向は逆コースである。今の日本で、「原始マルクス主義」等と称する人達は逆コースの道を歩んでいる。このコースへディーツゲンを乗せてはならない。ディーツゲンにある一割の観念論を度外れに拡大するのは、反ディーツゲン的である。こういう読み方をする危険は多分にある。マルクス――ディーツゲン――レーニンというのが前向きのコースである。
更に、唯物論の習得のために、ディーツゲンは適当な手引きを与えるであろう。特に、マルクス・エンゲルスの著作に近寄りがたい感じを抱く人達、教程の類を読む気がしない人達、にはディーツゲンの著作は適当な唯物論への入門書となるであろう。今の日本では極端な思弁哲学であるところの実存哲学が盛んである。ディーツゲンの思弁哲学批判が顧みられていい所以である。
なお、ディーツゲンの邦訳には『改造文庫』に『弁証法的唯物論』の外に、石川準十郎訳『マルキシズム認識論』(一社会主義者の認識論の領域への侵入)及び山川均訳『哲学の実果』がある。参考書では、"Joseph Dietzgens Philosophische Lehren von Adolf Hepner"(Band 58 der Internationalen Bibliothek)があるが、役者も未見である。