−p.28−
一般に食料品について話をし、そして話の途中で果物、穀物、蔬菜、肉類、パン等に及ぶ場合、これらは差異はあっても食料品という概念の下にすべて一括されて、同じ意味の表現として使われるように、我々はここで理性、意識、悟性、表象の能力、概念の能力、区別の能力、思惟の能力、或は認識能力を同じ意味のものとして扱うこととする。我々が今問題とするのは、思惟過程のさまざまの種類ではなくて、その一般的性質である。
近代の或る生理学者は次のように云っている。「分別のある人なら誰でも、精神力の座を、ギリシア人のように血液のなかに、中世におけるように松果腺の中に求めようとは思わない。――却って我々すべては、神経系統の中枢にこそ動物の精神作用に関する有機的中心が求められる、と確信している。」――いかにもその通りである。書くことが手の作用であるように、思惟は脳髄の作用である。しかし、手の研究と解剖とが書くとは何であるか、という課題を説きえないと同じように――脳髄の生理学的研究は、思惟とは何であるか、という問題に近づくことはできない。我々は解剖刀をもって精神を殺すことはできようが、しかし発見することはできない。思惟は脳髄の産物であるという認識は、幽霊の徘徊する空想の領土から明るい日のさす現実界へ問題を引出すが故に、我々を我々の問題へ近づかせるものである。今や精神は非物質的な、捉ええない存在から、肉体的な活動となる。
歩くことが足の活動であるように、思惟は脳髄の活動である。我々が歩行を、苦痛を我々の感覚を感官によって知覚するのと同じように、我々は思惟を、精神を感官によって知覚する。思惟は主観的な経過として、内的な過程として我々に感ぜられる。
この過程はその内容から云えば瞬間ごとにまた一人一人異っているが、その形式から云えばいつでも同じである。云いかえれば、我々は思惟過程において、すべての過程におけると同じように、特殊なもの或は具体的なものと一般的なもの或は抽象的なものとを区別する。思惟の一般的目的は認識である。我々は後に、概念のように最も単純な表象もその本質から云えば最も深い認識と全く同じであることを見るであろう。
内容のない思惟・認識がないと同じように、対象のない思惟、考えられ或は認識される他者のない思惟は存在しない。思惟は一つの活動であり、そして他のすべての活動と同じように、それによって自己を表現する客体を必要とする。私は為す、私は作る、私は考える、という命題には――お前は何を為し、何を作り、何を考えるか、という内容と対象とに関する問が続く。
特定の表象、現実の思惟は何れもその内容と同一であるが、その対象とは同一でない。私の思想内容としての私の机はその思想と同一であって、区別することができない。しかし、頭脳の外にある机は思想とはまったく異った対象である。内容が思惟作用一般としての思惟から区別されるのは、その一部分としてであるにすぎないが、対象は絶対的に或は本質的に思惟とは異ったものである。
−p.30, l.2−
我々は思惟と存在とを区別する。我々は感覚的対象とその精神的概念とを区別する。それにも拘らず、非感覚的表象もまた感覚的・物質的であり、すなわち現実的である。私が机そのものを知覚するのと同じように物質的に、私は私の机という思想を知覚する。若し手で掴みうるもののみを物質的と名づけるならば、いかにも思想は非物質的である。しかし、そのときには薔薇の芳香や暖炉の暖かさも非物質的である。
我々は思想を感覚的と呼んだ方が恐らくよさそうである。或は、若しその時、感覚的事物と精神的事物という言葉は厳密に区別されているから、それは言葉の濫用であるとの抗議が出るならば、我々もこの言葉を棄てて、思想を現実的と称しよう。精神は手で掴みうる机、目に見える光線、耳に聞こえる音が現実的であるのと同じように、現実的である。思想はいかにもこれらの事物から区別されはするが、それにも拘らず共通点もある。すなわち思想は他の事物と同じように現実的である。机、光、音が相互に区別されるより以上に、精神がこれらの事物から区別されるものではない。我々は差異を否定するのではなく、これら異った事物の共通性を主張するだけである。私が思惟能力を物質的能力、感覚的現象と称しても、少なくとも今後は読者は私を誤解しないであろう。
感覚的現象は何れも、それによって自己を表現する対象を必要とする。暖かさが現実的に存在するためには、対象が、すなわち暖められる他者が存在しなければならない。能動的なものは受動的なものなしにはありえない。見えるものも視覚がなければ見えないし、視覚も見えるものがなければ視覚ではない。思惟能力もまた現象するものであるが、しかし、すべての事物と同じように、決してそれ自体だけで(an und für sich)現れるのではなく、常に他の感覚現象と結合して現れる。
思想は、すべての現実的現象と同じく、或る客体において、またそれと共に現れる。脳髄の作用は、眼の作用、花の香り、或は暖炉の暖かさ、或は机の現象と全く同じように、「純粋」活動以外の何物でもない。机が眼に見え、耳に聞こえ、手に触れるということ、すなわち机が現実的であり、或はある作用を及ぼすということは、机と関係のある他のものの活動によるのと全く同じように、机そのものの活動によるものである。
しかし、思惟以外のそれぞれの活動は独自の種類の対象によって制限されている。眼の作用に役立つのは見えるものだけであり、手の作用に役立つのは掴みうるものだけである。歩行にとっては通過する空間がその対象である。然るに、思惟にとってはすべてが対象である。すべては認識される。思惟は特定の種類の対象に限られることはない。いかなる現象も思想の対象となり、従ってまたその内容となることができる。のみならず、一般に我々が認識するすべてのものは、我々の脳髄活動の材料となることによってのみ認識される。すべてのものが思惟の対象であり内容である。一般に思惟能力はすべての対象に及んでいく。
先に我々は、すべては認識されうると云った。そして今は、認識されうるもののみが認識され、知られうるもののみが科学の対象となることができ、考えられるもののみが思惟能力の対象である、と云う。思惟能力は読むこと、聞くこと、触ること及びその他感覚世界の無数の活動のすべての代りをすることはできないという意味において、思惟能力もまた制限されている。我々はいかにもすべての客体を認識するであろうが、しかしどの客体をも認識し尽し、知り尽し、或は把握し尽すことはできない。言いかえれば、客体は認識の中へ解消するものではない。見ることのためには見られるものが、すなわち我々が見るより以上のものが必要である。聞くことのためには聞かれるものが、思惟には考えられる対象が必要である。従ってまた、なお我々の思想以外のもの、我々の意識以外のものが必要である。我々は客体を見、聞き、触り、考えるが、それが主観的なものではない、ということをいかにして知るに至るかについては後に述べよう。
我々は思惟によって能力に応じて世界を二重に捉える。一は現実において外的に、他は思想、表象において内的に捉える。その際、世界における事物が頭脳における事物と性質を異にすることは容易に知りうるところである。事物はその最上の形(optima forma)、自然の拡がりのままで頭の中へ入ることはできない。頭脳は事物そのものをでなく、その概念、表象、一般的形式をとり入れるにすぎない。表象され、考えられた樹木は常に一般的なものにすぎない。現実の一本の樹木は他のいかなる樹木とも等しくない。そしてたとえ私がこの特定の樹木を頭の中へ受け入れたにしても、一般者が特殊のものから区別されるように、考えられた樹木はどうしても感官的樹木とは異るものである。頭脳の中には事物の無限の多様性と無数に豊富な性質とを入れる余地はない。
「世界は自己の外で測られる。」我々は自然及び生命の諸現象を二重の形で、すなわち、具体的な、感覚的な、多様な形と、抽象的な、精神的な、統一的な形とで認識する。我々の認識にとっては世界は多様なものである。頭脳は世界を概括して統一する。
そして世界について云われることは、特殊の部分の何れについても当嵌まる。感覚的統一とは無意味なものである。水滴の原子でも或は化学元素の原子でも、それが現実的である限り、分割しうるものであり、その各部分は同一ではなく、多様である。
AはBではない。しかし、概念、思惟能力は、各々の感覚的部分から抽象的な全体を作り上げ、そして各々の感覚的全体或は感覚の一定量を抽象的な統一世界の一部分として認識する。事物を完全に理解するためには、我々は事物を実践的並に理論的に感覚及び頭脳をもって、肉体及び精神をもって捉えなければならない。我々は肉体をもって肉体的なもののみを、精神をもって精神的なもののみを捉えることができる。それ故事物もまた精神を持っている。精神は物質的であり、事物は精神的である。精神と事物とは相互に関連してのみ現実的である。
我々は事物を見うるであろうか。否、我々は眼へ及ぼす事物の影響を見るだけである。我々は酢を味うのでなく酢の我々の舌に対する関係を味うのである。その結果が酸っぱいという感覚である。酢は舌に対してのみ酸っぱい感じを与え、鉄に対してはそれを溶かし、寒さに対しては固まり、熱に対しては流動体となる。そのように酢は、それが空間的・時間的に関係する客体が異るのに応じて、種々の作用をする。例外なしにすべての事物がそうであるように、酢は現象する。しかし、決して酢自体だけで現れるものではなく、常に他の諸現象と関係し、接触し、結合してのみ現れる。
視覚が樹木を見るのでなく、樹木の見える所だけを見るように、思惟能力もまた客体そのものをでなく、客体の認識されうる精神的側面を受け入れるだけである。その結果として生まれる思想は、脳髄がある客体と結合して産んだ子供である。思想には一方における主観的思惟能力と他方における客体の精神的性質とが現れる。すべての精神作用はある対象を前提とし、その対象が外に存在し、何らかの方法で感覚的に知覚され、或は見られ、聞かれ、嗅がれ、味われ、或は触れられ、要するに経験される一つの対象から生ずるものである。
さて、我々は先に、見ることは見られるものという対象に、聞くことは聞かれるもの等々に制限されるが、これに反し、思惟能力或は認識能力にとってはすべてが対象である、と云った。この言葉は今はただ、対象はその無数の、但し特殊の感覚的性質の外になお、考えられ、把握され或は認識される、要するに我々の思惟能力の対象であるという一般的・精神的性質を持っている、という意味である。
−p.35, l.2−
あらゆる客体のこの形而上学的な規定は思惟能力そのものすなわち精神にも当嵌まる。精神は肉体的・感覚的活動であって、さまざまの現れ方をする。精神はいろいろのときに、種々の対象によってさまざまの頭脳の中に産み出される思惟である。他のすべてのものと同じように、我々はこの精神を特定の思惟作用の対象とすることができる。対象としてのこの精神は多様な、経験的な事実であって、この事実は、それが特殊な脳髄の作用と接触すると、この特殊な思惟作用の内容として精神という一般的概念を産み出すのである。
一般に事物はその概念から区別されるように、思惟の対象は思惟の内容から区別される。感覚的に経験される多様な過程は、思惟の対象となり、その対象によって思惟は過程という概念を内容として所有するに至る。或る感覚的対象の概念はその父母を持っているということ、すなわちその概念は経験された対象によって我々の思惟から産み出されるということは、我々の現在の思惟が自己自身の経験から自己独自の概念を所産として産み出す場合の三位一体よりは容易に理解され、従って明瞭である。
後者の場合には、我々は円運動をしているように見える。その場合には、対象、内容及び活動は合流するように見える。そこでは理性は自らのところに止まっている(すなわち、理性がその感覚的に与えられる存在を保持することによって)。言いかえれば、理性は自ら対象の役目をし、そこから自己の内容を受取る。
しかし、だからと云って、事物と概念との区別が他の場合より、ヨリ明白でないことはあっても、真実でないということはない。真理を蔽いかくしているものは、感覚的なものと精神的なものとを異質な、絶対に異ったものとみる習慣である。この区別の必然性は常に、感覚的対象とその精神的概念とを差別することを強いる。
我々は概念能力自身の場合にも、同じことを強いられるので、「精神」という名前を持っている対象を感覚的と称せざるをえない。このような術語の曖昧さはいかなる科学においても全く避けるというわけにはいかないであろう。字句にこだわるのでなく、意味を求める読者は、存在と思惟との区別は思惟能力にも適用されるということ、認識・把握・思惟等々の事実はこの事実の理解とは異るということ、を認めるであろう。そして後者すなわち理解もまた一つの事実であるから、すべての精神的なものを事実的或は「感覚的」と称することも許されるであろう。
さて、理性或は思惟能力は、個々の思想を産み出す神秘的客体ではない。逆に、個々の、経験された思想という事実が客体を形作り、この客体が脳髄の作用と接触して理性概念を産み出すのである。理性は、我々の知っているすべての事実と同じように、二重の存在を、一は現象或は経験における存在、他は本質或は概念における存在を、持っている。或る客体の概念はその経験を前提としており、思惟力の概念もその例外ではない。ところで人間は本来自ら(per se)考えるものであるから、何人も自らこの経験をしている筈である。
我々は次のようなところまで来た。すなわち、経験なしに精神の奥底から認識を産み出そうとする思弁的方法は、客体の感覚的性質によって、いつの間にやら帰納的方法となり、逆に経験によってのみ、結論・概念・認識を産み出そうとする帰納的方法は、同時に精神的でもある客体の性質によって思弁となる。それで、ここでは思惟によって、思惟能力或は認識能力、理性、知識或は科学等々の概念を分析しなければならない。
概念を産み出すこととこの概念を分析することとは、両者とも脳髄の作用、悟性の活動である限りにおいては同一である。両者は共通の性質を持っている。しかし、両者の区別は本能と意識との区別である。人間がまず考えるのは、考えたいからではなく、考えざるをえないからである。概念は本能的に、自然的に産み出される。この概念を明瞭に意識し、知識と意志とに従属させるためには、我々はそれを分析することを必要とする。
例えば、我々は歩くという経験から歩行という概念を産み出す。その概念を分析するとは、一般に歩くとは何であるか、歩くことの一般的性質は何であるか、という疑問を解くことを意味する。我々は恐らく、歩行とは一つの場所から他の場所への移動的な運動であると答えるであろう。そしてそれによって本能的な概念を意識的な分析された概念へと高めるのである。分析によってはじめて事物は概念的に、的確に或は理論的に把握されたことになる。
我々は歩行という概念がいかなる要素から形造られているかを知ろうとした。そして我々は、共通に「歩く」と名づけている経験の一般的性質として律動的運動を見出す。経験上では歩行は或は大跨(おおまた)であり、或は小跨(こまた)であり、二尺宛の場合も、もっと大幅の場合もあり、時計のごとく、或は機会のごとく歩く等々、要するに雑多である。概念においては歩行は律動的な運動にすぎず、概念の分析がはじめて我々にこの事実の意識を与える。光という概念は、科学が光を分析して、エーテルの波動が光の構成要素をなしていることを知るよりずっと前に存在していた。本能的概念と分析された概念との区別は、生活の思想と科学の思想との区別に等しい。
ある概念の分析と、その対象すなわち概念を産み出した事物の理論的分析とは同じものである。何れの概念にも現実の対象が照応している。ルートヴィヒ・フォイエルバッハは、神及び不死の概念さえも現実的・感覚的対象の概念であることを証明した。動物・光・友人、人間等々の概念を分析するためには、動物・友人・人間、光の現象等が分析される。光の概念の対象が或る個別的な光の現象でないように、分析されるべき動物概念の対象は個々の動物ではない。概念は種族を、一般的な事物を包括する。従って、動物とは何であるか、光とは何であるか、友人とは何であるか、という分析、或は質問は、何らか特殊のものをではなく、一般的なもの・種族をその要素に分解することを仕事とすべきである。
概念の分析と、その対象すなわち対象の分析とがお互に異ったものであるように思われるのは、我々が、対象を二つの方法で、すなわち特殊のものにおいては実践的、感覚的、行動的に、そしてまた一般的なものにおいては理論的に、頭脳をもって精神的に、区別する能力を持っているからである。実践的分析は理論的分析の前提である。我々にとって、動物概念を分析するためには感覚的に区別される動物が、友人を分析するためには個々に経験される友人が、材料或は前提の役割をしている。
何れの概念にも対象が照応し、対象は実践的に多くの分かちうる部分に分解される。されば、概念を分析するというのは、既に実践的に分析されたその対象を理論的に分析することを意味する。概念の分析は、その対象の特殊の部分の共通性或は一般性を認識することの中に存している。種々の歩行に共通なものすなわち律動的な運動が歩行概念を構成し、種々の光の現象に共通なものが光の概念を構成する。化学工場は化学製品を得るために、科学は対象の概念を分析するために、対象を分析する。
我々の特殊な対象である思惟能力もまたその概念から区別される。しかし、概念を分析するためには、その対象が分析されてあることを要する。この対象は化学的に分析することはできない――すべてのものが化学に属するわけではないから――、しかし理論的に或は科学的に分析することはできる。既に述べたように、科学或は理性はすべての対象を取扱う。しかし、科学が概念的に分析しようとするすべての対象は、予め実践的に分析されることを必要とする。すなわち、対象の種類に応じて、或はいろいろに使ってみたり、或は慎重に眺めてみたり、或は注意深く聞いてみたり、要するに徹底的に経験されねばならない。
人間が考えるということ、すなわち思惟能力は感覚的に経験される事実である。事実が我々が本能的に概念を形造るための機縁或は対象を与える。されば、今後は、思惟力の概念を分析するとは、種々の、個人的な一時的な現実の思惟作用から、共通なもの或は一般的なものを見出すことを意味する。自然科学的方法でそのような研究を進めるためには、我々は物理学的な道具をも科学的試薬品をも必要としない。何れの科学や認識にとっても欠くことのできない感覚的観察は、この場合言わば先天的に(a priori)与えられている。我々の研究の対象、すなわち思惟力の事実とその経験とを、何人も記憶その物の中に持っている。
−p.40, l.2−
さて、我々は先に、本能的概念もまたその科学的分析も、感覚的なもの、特殊なもの、具体的なものから、抽象的なもの或は一般的なものを常に発展させることを認めた。このことを言いかえると、すべての個々の思惟作用に共通なものは、感覚的・具体的には雑多な現れ方をする対象において、一般的なものすなわち普遍的統一を求めることの中に見出されるということである。種々の動物、種々の光の現象に共通な一般的なものが、普遍的な動物概念及び光の概念を構成する要素をなすものである。一般的なものがすべての概念、すべての認識、すべての科学、すべての思惟作用の内容である。このようにして、思惟能力の分析の結果、思惟能力とは、特殊のものから一般的なものを究める能力である、ことが明かになる。眼は見えるものを究める。耳は聞こえるものを、そして我々の脳髄は一般的なものを、すなわち知られるもの或は認識されうるものを知覚する。
我々は次の事どもを知った。すなわち、思惟は他のすべての活動と同じように対象を必要とすること、さらにすべてが無制限に思惟能力の対象になりうると同時に思惟はその対象の選択において無制限であること、次いでこれらの対象は感覚にはさまざまの現れ方をし、そこで思惟活動は、これらの現象の中から類似のもの、等しいもの、或は一般的なものを抽出することによって、それを単一な概念に転化させるものであること、を知った。今我々が思惟能力の一般的方法に関するこの認識された経験或は経験された認識を、我々の課題に適用するならば、我々の求めているのは正に思惟能力の一般的方法に外ならないのであるから、それによって既に解決は与えられていることになる。
特殊なものから一般的なものを発展させることが、理性が認識を促進させる普遍的方法、一般的な方法と様式とであるならば、それによって、特殊のものから一般的なものを引出す能力としての理性は完全に認識されたことになる。
思惟は肉体的活動であって、すべての他の活動と同じように、材料なしでは存在しえないすなわち働くことができない。我々が考えるためには考える材料を必要とする。この材料は自然と生命との諸現象の中に与えられている。これらの現象は我々が特殊なものと名づけているものである。そこで以前に、すべてのものが思惟の対象であると云ったが、それは今や、理性の対象は無限である、すなわち量においても無限であり質においても無制限である、という意味になる。我々の思惟能力にとって材料の役割をする資料は、空間の如く無限であり、時間の如く永続的であり、しかもこの両形式の内容の如く絶対に多様である。
思惟能力は、すべてのもの、すべての資料、すべての現象と関係する限りにおいて、すなわち思想を産み出す限りにおいて、普遍的な能力である。しかし、思惟は存在し活動するためには現象の世界すなわち物質を必要とするから、絶対的なものではない。物質は精神の限界であり、精神はこの限界を飛び越すことはできない。
物質は精神が輝くための背景を与えるが、物質はこの輝きの中へ解消してしまうものではない。精神は物質の産物である。しかし、物質は精神の産物以上のものである。物質はまた五官によっても我々に接近し、物質は同時に我々の感覚作用の産物でもある。感覚及び精神によって同時に我々に開示されるそのような産物のみを、我々は現実的な、客観的な産物、すなわち事物「自体」と名づける。
理性は感覚的である限りにおいてのみ、真実の、現実的の事物である。理性の感覚的活動は、客観的に外の世界で開示されると同じように、人間の頭脳においても開示される。さもなければ、理性が自然及び生命を改造する活動は感覚では知られないことになるではないか。我々は科学の成果を眼で見、手で掴む。但し、知識或は理性だけでこれらの物質的結果を自分の中から産み出すことはできない。そのためには感覚の世界、客体が与えられていなければならない。
しかし、一体「それ自体だけ」で活動する事物があろうか。光が輝き、太陽が暖めそして回転するためには、照らされ・暖められ・その中を回転する空間及び事物がなければならない。私の机が色を持つに先立って光と眼とがなければならない。そしてさらに机のすべての性質から見て、机は他のものと接触してのみ存在し、そしてこの接触・関係が多様であるのと同じように、机の存在は多様である。言いかえれば、世界は関連においてのみ存在する。この関連から引離された事物は存在することを止める。事物は他のものに対して(für anderes)存在し、活動し或は現象することによってのみ、自己に対して(für sich)存在する。
若し、我々が世界を「事物自体」と考えるならば世界「自体」と我々に対して現れる世界すなわち世界の諸現象とは、全体と部分との相違に外ならないことが、容易に理解されるであろう。世界自体とは世界の諸現象の総和にすぎない。我々が理性、精神、思惟能力と名づけるところの世界現象の諸部分についても同じことが言える。我々は思惟能力をその現象或は、活動から区別するが、しかし思惟能力「自体」「純粋」理性は、その現象の総和においてのみ現実的に存在する。見ることは視覚能力の肉体的存在である。我々は諸部分によってのみ全体を持ち、そしてすべての事物と同じように、その活動すなわち個々の思想によってのみ我々の理性をも持っている。
前に述べたように思惟能力は時間的に最初のものではなく、思想に先行するものではない。逆に、感覚的対象によって産み出された思想が材料となり、その材料によって思惟能力の概念が産み出されるのである。世界の運動の理解が、太陽が地球の周りを回っているのでないことを我々に教えたように、思惟過程の理解は、思惟能力が思想を形造るのではなく、逆に個々の思想から思惟能力という概念が形造られるということ――従って、感覚能力が我々の見ることの総和として存在するように思惟能力も我々の思想の総和としてのみ実践的に存在するということ、を我々に教える。
これらの思想すなわち実践理性が材料となり、その材料によって我々の脳髄が概念としての純粋理性を産み出す。理性は実践においては必然的に不純である。すなわち理性は何らかの特殊な対象と関係を持っている。純粋理性すなわち特殊な対象を持たない理性とは、特殊な理性の諸作用の中の一般的なものに外ならない。この一般的なものを我々は二重に持っている。すなわち、一方においては不純に、実践的或は具体的に、現実的現象の総和として、他方においては純粋に理論的或は抽象的に、概念において持っている。理性の現象と理性自体との区別は、生きた動物すなわち感覚的現実と一般の動物の概念との区別に等しい。
理性は現実的に存在するものでなく、客体なしに活動しうるものではないから、我々は「純粋」理性・理性「自体」を理性の実践からのみ認識しうることが理解される。我々は光なしには眼を見出しえないと同じように、それと接触することによって自らを産み出す対象がなければ理性を見出すことはできないであろう。これらの対象が多様であるのと同じように、理性の現象も多様である。繰返して云うが、理性の本質が現象するのではない。逆に、我々は諸々の現象から、本質、理性自体或は純粋理性の概念を形成するのである。
精神的な思惟作用は他の感覚的な現象と接触してはじめて現れる。それによって思惟作用そのものも感覚的現象となり、脳髄の作用と接触して「思惟能力自体」という概念を産み出す。我々がこの概念を分析するならば「純粋」理性は、与えられた材料――非物質的思想過程も共にそこに属する――から一般的概念を産み出すことの中に存することがわかる。他の言葉を使うならば、理性は、それぞれの多様性の中から統一を、それぞれの異ったものの中から同種のものを産み出し、すべての対立を均らす活動である、と性格づけてもよい。ここで述べたことは同じ事柄を種々の言葉で現したに過ぎない。というのは、読者が空虚な言葉でなく、生きている概念を、多様な客体をその普遍的な本質において掴むことを私は希望したからである。
−p.45, l.8−
我々の考えによれば、理性は純粋に、特殊のものから一般的なものを発展させ、具体的なもの或は感覚的に与えられたものの中から普遍的なもの或は抽象的なものを調べ出すことの中に存する。このことが純粋に且つ全体的に、理性・認識・知識・意識の内容である。しかし、この「純粋」及び「全体」というのは、それによって種々の思惟作用に共通な内容、理性の一般的形式が与えられるという意味に外ならない。理性はすべての事物と同じように、この一般的抽象的形式の外に、我々が経験によって直接に認めるところの具体的・特殊的・感覚的形式をも持っている。従って意識の働き全体は、その感覚的経験すなわち肉体的感受性及び認識に存する。認識はあるものの一般的形式である。
意識(Bewusstsein)は既にその語義からみてもわかるように存在の知識(Wissen des Seins)である。従って意識は一つの形式、特性であって、他の特性から区別されるのは、知っている(bewusst ist)ということによってである。性質は説明されることはできず、経験されるだけである。
我々が経験によって知るところによれば、意識すなわち存在の知識には、主観と客観との分裂、存在と思惟、形式と内容、現象と本質、属性と実体、特殊と一般との間における区別・対立・矛盾が含まれている。このような意識に内在する矛盾からお互いに矛盾する命名法も説明される。すなわち意識は一方においては一般者の機能、普遍化の能力或は統一の能力と名づけられ――そして他方においてはしかも同じ権利をもって区別の能力と名づけられる。意識は異ったものを普遍化し、普遍的なものを区別する。意識の性質は矛盾である。そしてこの性質は矛盾を含んでいるから、同時にそれは媒介、説明、理解の性質である。
意識は矛盾を普遍化する。意識は、すべての自然現象、すべての自然物が矛盾によって生きており、あらゆる物が対立する他者との協同によってのみ存在することを知っている。視覚がなければ見えるものも見えず、逆に視覚も見えるものがなければ見えないように、思惟と存在とを支配する矛盾は一般的なものであることを知らなければならない。思惟能力の科学は矛盾の普遍化によってすべての特殊の矛盾を解消させるものである。